《調査》船越英二の兄は曽我廼家五郎八だったのか?

「船越栄一郎の叔父で船越英二の兄にあたる『みしまけん』という人は新宿セントラル劇場の支配人をやっていた」という話を聞いたことがあった。

この支配人という情報の真偽は判らない。
船越英二のWikipediaを見ると「兄は三島謙(本名・船越榮太郎)」とあるが兄の詳細については何も書かれていない。
ただ芸名があるということは、表舞台にも立っていた、ということなのだろう。

日本映画データベースによると、27本の映画に出演しているとある。
1950年に『龍眼島の秘密』(秀映社)という1作に出たあと暫く出演作は無く、1954年の『黒い潮』からは1958年の『明日は明日の風が吹く』まで24本の日活作品に出演している。
この中には江利チエミの『ジャズ娘誕生』、フランキー堺の『幕末太陽伝』、石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』(3作品とも1957年)など、今でも比較的簡単に見られる作品も含まれていた。
最後に書かれた出演作品はかなり間があいて1979年の『地獄の蟲』(マツダ映画)だった。

movie walkerで三島謙の名前を検索すると42件がヒットした。
一番古い作品は1955年1月2日公開の『美男お小姓 人斬り彦斎』。因みにこの作品は日本映画データベースでは検索に引っ掛からなかった。
『明日は明日の風が吹く』のあともう1本、同じ1958年『場末のペット吹き』(日活)のあとからは映画会社を転々としていたようだ。日活以外の作品数は少ないので列記してみる。

1958年『強奪された拳銃』(新東宝/NTV・日米合作)
1961年『北上川悲歌』(新東宝)
1961年『お世継ぎ初道中』(東映)
1961年『柳生一番勝負 無頼の谷』(東映)
1962年『恐怖の魔女』(東映)
1963年『殺人鬼の誘惑』(東映)
1964年『男の影』(松竹)
1965年『すっ飛び野郎』(松竹)
1979年『地獄の蟲』(マツダ映画社)

『お世継ぎ初道中』の出演者がなかなかの喜劇人揃いで興味深い。柳家金語楼を始め、立原博、茶川一郎といった大阪勢、 石井均とその座員である財津肇(財津一郎)、伊藤証(伊東四朗)、戸塚睦夫のほか、渡辺篤が名を連ねている。

テレビドラマデータベースからもゲスト出演を含め72作品がヒットした。
一番古い作品が1956年のNTV『おばあさん』。
そして1968年、JNN系列ABC制作の高田浩吉版『伝七捕物帳』へのゲスト出演が最後のテレビ出演のようだ。
代表作と言えそうなのが、1958年から1960年まで放送されたJNN系列KR制作若山富三郎版『銭形平次捕物控』。ガラッ八こと八五郎役を演じていたそうだ。
そういえば三島謙の映画出演が途切れていたのが1958年から1961年まで。その期間はテレビに専念していた、ということなのだろう。

知誕wikiというサイトには簡単な経歴が書かれていた。
要約すると、三島謙は1922年生まれ(ちなみに船越英二は1923年生まれ)。
1937年に帝京商業学校(現在の帝京大学中学・高校)を中退し、小沢順の芸名でドサ回りの劇団に参加する。また同年には日活俳優・大虎福太郎の紹介で日活多摩川に入社し、本名の船越栄太郎として映画出演した、とある。
しかしムービーウォーカーで船越栄太郎を検索しても何も出てこなかった。結局は真偽不明だが、戦前の話だし、仕方ない。

と、映像関係は色々出てきたが、舞台に関しては殆ど情報が出てこない。
そこで「船越栄太郎 三島」で検索してみると、有力な情報が3件出てきた。

まずは鏡勘平という俳優の方のWikipedia。 三島謙についてのみ引用する。

カジノ座の開業は1952年(昭和27年)11月23日である。当時のカジノ座には、船越英二の実兄・三島けん(本名・船越榮太郎、1922年 - )らが出演し、幕間コントや軽演劇を行っていた。

そして 江戸川大学准教授でいらっしゃる西条昇さんのブログからは2件引用させていただく。引用元には三島の名前の入った印刷物の写真もある。

【西条昇の軽演劇コレクション】浅草・カジノ座のパンフレット

『カジノ座の座付きコメディアンとしては、当初は三島けんが男一人で奮闘し、その後はミトキンとはな太郎のコンビの時代が続いた。 』

【西条昇の浅草ストリップ・コレクション】渥美清が出席の昭和29年のストリップ劇場の男優放談会の記事

「内外特報」昭和29年2月25日号の「ストリップ劇場 男優さん放談会」の記事。
出席者はフランス座の渥美清、水木崑、ロック座の佐山俊二、カジノ座の三島ケン。
(注・昭和29年=1954年)

浅草時代は下の名前をかな又はカタカナにしていたようだ。
当時の浅草の劇場で、ストリップの幕間をいきなり素人ひとりで任せてもらえる訳がない。
三島がカジノ座開場の1952年時点でそれなりのキャリアを重ねていた喜劇役者であった、ということは断言できるだろう。

更に手元にある橋本与志夫『日劇レビュー史』で「三島謙」の名前を見つけた。
脱線トリオ主演の『爆笑!大暴れ清水港』という1961年の公演に出演していた。脱線トリオ結成5周年記念公演と銘打っている。といっても同じ年に脱線は解散してしまうのだが。

また、林圭一『舞台裏の喜劇人たち』に、三島の名前は出てこなかったが興味深いことが書かれていた。
放送作家の林氏が新宿セントラル劇場に入ったのは1951年、起田志郎、由利徹、八波むと志、高清子、星清子、ミトキン、三沼保らがいた頃で、支配人は大久保龍一という方だったそうだ。
ということは、支配人云々はともかく、この頃には三島は既に新宿セントラル劇場にはいなかったのだろう。

さて、ここまでの事を整理してみる。

1922年生まれ
1937年 帝京商業学校を中退し日活多摩川に入所
1950年 『龍眼島の秘密』(秀映社)出演
1952年 浅草カジノ座開場、1954年頃までコメディアンとして出演
1954年 1958年まで30本前後出演
1956年 NTV『おばあさん』を皮切りにテレビドラマ多数出演
1958年 JNN『銭形平次捕物控』に八五郎役で出演、1960年まで。
1961年 『北上川悲歌』(新東宝)出演
1961年 日劇『爆笑!大暴れ清水港』出演
1961年 『お世継ぎ初道中』(東映)出演
1961年『柳生一番勝負 無頼の谷』(東映)出演
1962年『恐怖の魔女』(東映)出演
1963年『殺人鬼の誘惑』(東映)出演
1964年『男の影』(松竹)出演
1965年『すっ飛び野郎』(松竹)出演
1968年 テレビドラマ『伝七捕物帳』ゲスト出演
1979年『地獄の蟲』(マツダ映画社)出演

一見バラバラに見えていたものがかなり連なってきた。
しかしそれでもわからない部分はあって、1940年代と1970年代の活動がほぼ出てきていない。
1970年代の活動内容の不明は、もしかしたら年齢的体力的な御引退かもしれない。
1940年代は、45年までは戦時下なので不明なのも仕方ない。そういえば船越英二は学徒出陣をしているようなので、三島もどこかに徴兵されていたかもしれない。
そして、そもそものきっかけである「三島謙支配人説」は今のところ何も出てきていない。

そんな中。
1962年発行、向井爽也著『日本の大衆演劇』という本の《「ムーラン・ルージュ」と新喜劇運動》という項のアーカイブにある、

三島謙(のちの曽我廼家五郎八)

の一文に目を疑う。

この文章だけだと、曽我廼家五郎八と船越英二が兄弟ということになるが……明らかに違う。顔も全く似ていないし、どちらかと言えば親子の年齢だろう。
これはアーカイブに起こした時の間違いなのか。

念のため実際に『日本の大衆演劇』を買ってみた。
懸念していたインターネットアーカイブの間違いでは無く、本にも全く同じ内容が書かれていた。
改めて読み返してみると、三島謙=五郎八のくだりは《「ムーラン・ルージュ」と新喜劇運動》という章にあった。そして、1931年のムーランの旗揚げメンバーに三島謙、と書かれている。

船越家の三島はムーラン旗揚げ時には僅か9歳。これは明らかに年齢が合わない。

また曽我廼家五郎八のWikipediaによると、五郎八は1902年大阪生まれ。1921年に三島健之助を名乗り舞台俳優に道を変え初舞台。その後1929年に同志座を結成。1939年、曾我廼家五郎一座に入り曾我廼家五郎八を襲名、とある。
曽我廼家の名前を襲名する前の芸名が《三島健之助》。
当時は芸名の変更や表記ミスなども多かったから《三島健之助》から《三島謙》になっていても何の不思議もない。

なんてことはなかった。
船越英二の兄は曽我廼家五郎八ではなかった。
曽我廼家氏と船越家、時代は違うが日本の演劇界にはふたりの『みしまけん』がいた、というだけの話だった。

閑話休題。
そもそも最初に三島謙のことが気になったのは、新宿セントラル劇場の支配人だったという話がきっかけだった。

その新宿セントラル劇場とは東宝系に属するストリップ劇場で、伊勢丹と末広亭の間にあった新宿東宝の5階にあった。開場は1949年だったが、僅か6年後の1955年には火事で消失してしまった。
ちなみにこの劇場は脱線トリオの3人、八波むと志、南利明、由利徹が、時期が違うものの専属コメディアンとして活動し、脱線トリオ結成の礎を築いた劇場でもある。
仮に三島の支配人情報が事実だったとして、新宿セントラル劇場の存在が1955年まで。コメディアンとして所属した浅草カジノ座開場が1952年。
1952年の時点で30歳。支配人情報が事実だとしたらなんとも若い支配人だ。

まあでも。
ちょっと話は飛ぶが、今も現役でいらっしゃる、新宿松竹演芸場の支配人だった太田プロ磯野勉会長や、会長夫人である磯野泰子副社長が、仮におふたりのどちらかが現在88歳くらいだとすると、新宿松竹演芸場が閉館となった1962年当時で30歳くらいとなる。
ならば三島謙の30歳支配人という話も決して若くはないのかもしれない。
それに本当に15歳で日活多摩川に入所しているのならば、30歳でも芸歴15年だ。
また戦後の男手の少なさも関係して、年齢など関係なくキャリアを見て任されていたのかもしれない。

結局は支配人情報について何もわからないままだったので、引き続き色々と調べてみようと思う。

最後に、推察等も含めて改めて。

1922年生まれ
1937年 帝京商業学校を中退し日活多摩川に入所
1945年 (終戦)
1949年 (新宿セントラル劇場開場 支配人か?)
1950年 『龍眼島の秘密』(秀映社)出演
1951年 新宿セントラル劇場支配人は大久保龍一
1952年 浅草カジノ座開場、1954年頃までコメディアンとして出演
1953年 (日本のテレビが本放送開始)
1954年 1958年まで30本前後出演(日活に入所?)
1955年 (新宿セントラル劇場焼失)
1956年 NTV『おばあさん』を皮切りにテレビドラマ多数出演
1958年 JNN『銭形平次捕物控』に八五郎役で出演、1960年まで。(日活を退所?)
1961年 『北上川悲歌』(新東宝)出演
1961年 日劇『爆笑!大暴れ清水港』出演
1961年 『お世継ぎ初道中』(東映)出演
1961年『柳生一番勝負 無頼の谷』(東映)出演
1962年『恐怖の魔女』(東映)出演
1963年『殺人鬼の誘惑』(東映)出演
1964年『男の影』(松竹)出演
1965年『すっ飛び野郎』(松竹)出演
1968年 テレビドラマ『伝七捕物帳』ゲスト出演
1979年『地獄の蟲』(マツダ映画社)出演


ところで三島謙のことを調べてから改めて「日劇レビュー史」の『爆笑!大暴れ清水港』の出演者名の並びを見ると感慨深いものがある。
三島は脱線トリオに続く4番手に名前がある。
4人より10歳20歳年上の先輩格にあたる如月寛多や坊屋三郎が次に続く。更に新生スリーポケッツの谷幹一、関敬六、海野かつを。他にも左とん平など。そして脱線トリオの3人各々と縁が深い佐山俊二。

この記念公演で、三島の名前が先輩を差し置いて4番手扱いなのは何故だろうか。
実はこれこそが、三島が新宿セントラル劇場にいたという証左なのではないか。
支配人かどうかは別にしても。

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