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染野太朗『初恋』(書肆侃侃房)

 第三歌集。作者が埼玉での教師生活を終えて福岡に移住し、また福岡を出ようと決意する時期におおよそ重なる。人を恋う気持ちを、生活の細部と重ねて詠った歌に魅力を感じた。中表紙に「2016~2018年」とある。今から5年前までの歌をまとめたものということだろう。まだ歌集にまとめていない歌がたくさんあるということだ。早くも第四歌集が待たれる。

きみがまたその人を言ふとりかへしのつかないほどのやさしい声で
 「きみ」は主体が好意を寄せる人だろう。「その人」はきみが好意を寄せる相手ではないか。きみが繰り返し「その人」という声はやさしい。主体のきみに対する気持ちを無化するほど、もう希望を持てない気持ちになるほどのやさしい声なのだ。

一回もふりかへらざるひとの背の厚み 見えなくなるまでは見ず
 きみは帰って行った。一度もこちらをふり返ることなく。主体ときみの好意のずれのようなものが浮き彫りになる。その人の背の厚みが好きだった。しかしもう手が届かない。届かないのだと分かっているから、その姿が見えなくなるまでは見送らない。こちらからも背を向けるのだ。四句の句割れ、一字空けが断念の強さを高めている。四句から五句への句跨りはむしろ滑らかな韻律に思える。

もしきみがここにゐたらとおもふのを水平線をのぞみつつやめず
 水平線を眺めている。もしきみがここにいたらという気持ちが頭の中をぐるぐる回っている。水平線はある場所から見れば目の届く限界線であるが、それに向かって進めば、どんどん遠ざかって行くものだ。届かない水平線ときみへの思いが主体の中で交錯する。やめられないのではなく、やめない。結句八音がとても重い。

とめどなく量(かさ)を増しゆく感情をよろこびであれきみには見せず
 感情には限界量というものが無い。とめどなく量が増えてゆくのだ。悲しみであっても喜びであってもどこまでも増えてゆく。その感情をきみに見せることはない。見せられないのではなく、見せない、という意志だと取った。否定語「~ず」で終わる歌に魅力を感じる。

嫉妬といふ濡れたる砂利のごときもの笊に掬つてなにを待つわれか
 砂利そのものもそんなに良いイメージは無いが、濡れた砂利というともっと厄介だ。嫉妬のように。主体の内面にある嫉妬が可視化され、手触りも伝わる。嫉妬をざっざっと粗く笊に掬うようにして手元に集めた。自分の感情ではあるが、濡れた砂利のように重く、肌にも纏わりつき、扱いに困る。嫉妬を抱えて自分は何を待っているのだろう。

梅の香の乱れやまざる境内に祈らむとしてことば失ふ
 梅の花の盛りの太宰府。その境内には様々な梅の香、種類の違う梅の香りが入り乱れるように香っている。その梅の香りの中で祈ろうとして言葉を失う。何を祈ったらいいのか、あるいはこの気持ちをどんな言葉で祈ったらいいのか。あたりが冬の陽だまりのような暖かさの中で、一人寒々しい思いに囚われているのだ。

花を火にたとへるやうなおろかさで憎しみながくながく保てり
 花を火に喩えることが愚かなら、人間の愚かさは終わらない。花を火に、火を花に喩えながら、心の中に燃える愚かさを抱いているのだ。憎しみを持っていることは自分自身を傷つけることだと分かっていてもその憎しみを手放すことができない。むしろ、その憎しみを生きる原動力として持ち続けたいとすら思っているのだ。

どこへ向かふ人かわからずけれどみなどこかへ向かふ夏のゆふぐれ
 誰も皆、行き先を持っている。自分以外は。夏の夕暮れ、まだ明るい中を人々はどこかへ向かって進んで行く。人々はためらいを持っていないように見える。行き先、つまり自分の居場所を持っているということ。それが人が生きていける根源の力になるのではないか。行き先の無い者、居場所の無い者は他者の迷い無い足取りを見て疎外感を覚えるのだ。けれど皆が皆、確かな行き先や居場所を持っているわけではない。それも主体には薄々分かっているのだろう。

くるしみを隠さむためのきみのことば聞くたびぼくは苛立つてゐた
 きみは何かしらに苦しんでいる。それははっきり分かっている。けれども大丈夫、とか、心配しないで、などと言って苦しみを隠そうとする。その言葉を聞くたびに主体は苛立っていた。苦しいなら苦しいでそれをぶつけてくれればいいのに。あるいは自分はそうするに足りない相手だったのか。ぐるぐる考えたことも今はどこか空しいように思えている。

ひとりひとり友だちに嫌はれていくやうなさういふ速度、日が落ちていく
 何となく友達に嫌われているような気がする。他の友達と接しようとしてもやはり嫌われているような気がする。ひとりひとり、友達が自分を嫌っていくような、そんな速度を実感する。そんな速度で日が沈んでゆく。気のせいなのかもしれない。けれども、誰にも思い当たる孤独感でもある。

書肆侃侃房 2023.7. 定価:本体2200円+税

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