川本千栄

「塔」編集委員。短歌と短歌評論。第20回現代短歌評論賞受賞。歌集『青い猫』(第32回現…

川本千栄

「塔」編集委員。短歌と短歌評論。第20回現代短歌評論賞受賞。歌集『青い猫』(第32回現代歌人集会賞)『日ざかり』『樹雨降る』。評論集『深層との対話』。他『D・arts』。第四歌集『森へ行った日』ながらみ書房出版賞・日本歌人クラブ近畿ブロック優良歌集賞。第二評論集『キマイラ文語』。

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『塔』2024年5月号(2)

⑨遅れいるバスを待ちつつひとびとは雪降る街に晩年を待つ 松本志李 雪の中、バスを待っている人々。バスを待つことは、時間が過ぎるのを待つこと。今いるこの場所で晩年を待っているとも言えるのだ。言葉で鮮やかに行動の意味をずらして見せた。生きる寂しさも感じる。 ⑩あの頃は良かつたよねと言へるほど長くはななくて浅くはなくて 北乃まこと 二人の関係性は「あの頃」を思い出すほど長く続いていない。けれども「あの頃」にあたるものが無いほど浅い関係でもない。現在に焦点を置いた濃い関係なのだと取

    • 『塔』2024年5月号(1)

      ①思ひ出なんかぢやないもつと大切なもの諸共に家が倒れる 山下好美 思い出という言葉は記憶の一部、良い記憶を表している。今、地震と共に倒れていくのは、記憶ではなく、今の生活、日常そのもの。大切なものとしか言いようのないもの。それと共に家が倒れていくのだ。 ②今朝のバスに乗り込む人ら髪に服に雪の骸をまとはせ光る 加茂直樹 朝、バスに乗り込んでくる人の髪や服に雪がついている。その雪はしばらくすれば溶けてしまう。そんな今にも消えそうな雪を「雪の骸」と表現した。骸は不吉な語だが、結句

      • 「塔」事務所6月開所日(過去ログ)

         本日の「塔」事務所開所日は、遠方から会員・会員外の方が来てくださり賑やかでした!いつものようにカバーもかけていただきました。  「塔」事務所にあったお宝総合誌シリーズ第1弾。『短歌研究』。1枚目左から昭和20年3月号、昭24年3月号、昭25年5月号。昭20年3月号の巻頭評論は釈迢空「短歌の本質と文学性との問題」。同誌はホッチキス留めです。  短歌作品の作者名には窪田空穂、前田夕暮、土屋文明、前川佐美雄などなど。驚いたのは、金子薫園、尾上柴舟の名があったこと。明治の歌人の

        • 〔公開記事〕沖ななも『百人百樹』(本阿弥書店)

          樹々と向き合う     川本千栄  もしも私の友人知人に、短歌に興味はあるけれど何を読んだらいいか分からない、という人がいたら、そっとこの本を差し出したい。読み終わる頃にはその人はきっと私と同じぐらい短歌が好きになっているだろう。  植物を詠んだ歌は人間を読んだ歌よりも風通しが良く清々しい。それでいて、「樹」は植物の中でも長命で、人の生に寄り添ってくれるものであり、選ばれた歌には温かみが感じられる。そのバランスが絶妙だ。 ・青桐(あをぎり)の下にたれかを待ちながら土曜日はひ

        『塔』2024年5月号(2)

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        記事

          『現代短歌』2024年7月号

          ①コワレゆく人の壊れるプロセスに母は素直なり初夏(はつなつ)の川 松平盟子 主体の母は川が流れるように素直に老いていく。それは人間としては壊れてゆくことだ。まさか自分の母がという思いと、やはりという思いが交錯する。その不本意さがカタカナ遣いに滲む。 ②「特集 ガザ」 イスラエル派とパレスチナ派が鬩(せめ)ぎ合ひ世論激しく揺らぐイギリス 渡辺幸一 この特集の多くの連作の中で私にとって一番迫ってきたのが渡辺作品。まず「距離が近い」ということが大きい。そして日常生活の中にこの問題

          『現代短歌』2024年7月号

          『うた新聞』6月号にて

          現在発売中の『うた新聞』6月号にて、前号「作品時評」を執筆しております。タイトルは「初夏の風の中で」。九名の作者の作品を評しています。ぜひお読みください。 2024.6.12. Twitterより編集再掲

          『うた新聞』6月号にて

          『ねむらない樹』vol.11 2024 winter

          ①笑ひつつ笑つてゐない人々は釘のあたまのやうな目をして 岡本恵 目が笑っていないということだろう。そしてその目は「釘のあたま」のようだというのだ。人の心を持たないような、不気味な冷たさを感じる比喩が、一首に合っている。 ②気分に合う音楽を再生したら気分が音楽に寄っていく 齋藤真琴 4/7/5/8/7か6/7/5/7/7か6/5/7/9/5…などと考えてみる。上句と下句も捩じれている。気分に音楽を合わせているのに、その音楽に気分が寄っていくのだから。でもこういう心の動きってあ

          『ねむらない樹』vol.11 2024 winter

          『未来』2024年6月号

          嶋稟太郎「時評 モダリティを読む」 〈「モダリティ」は日本語だけでなく世界中の言語にも当てはめられる通言語的な概念である。〉 〈桑原憂太郎は(…)口語の文末処理の一つの方向性としてモダリティの活用を挙げて、「作品を独り言や他者への発話といった話し言葉で叙述する」と定義した。〉  モダリティは桑原によって短歌評論の場に持ち込まれた概念だが、嶋は一首の読みを通してかなり深く短歌におけるモダリティを考察している。今はまだ新しい概念だが、今後短歌の読解に必須になっていくだろう。 2

          『未来』2024年6月号

          『白珠』2024年6月号

          ①安田純生「橋本の渡し・男山」〈香川景樹は、『桂園遺稿』によれば、享和元年一月二十九日に京から難波に向かっていた。(…)手前の橋本で宿を取っている。そして次のような歌を詠んだ。    天の川水まさりなばかさヽぎの橋本にねて明日渡りなむ〉  香川景樹がいきいきと描かれている。橋本や枚方、男山などおなじみの地名が出て来て、江戸時代と今が繋がっていることが実感される。日記のような軽い歌も気分が表れている。    この連載、活字が小さくてページ数が多い。書きたいことが山のようにある感

          『白珠』2024年6月号

          読者とは誰か(後半)【再録・青磁社週刊時評第九十二回2010.4.26.】

          読者とは誰か(後半)              川本千栄  ただしそれは、最初に意識する読者と言うべきもので、真の読者として考えているのは、それとはかなり違う。私が自分の評論を本当に読んで欲しいのは、普段短歌に何の接点も無い人々である。短歌と言えば教科書で習った茂吉や牧水の数首しか知らない、興味もそれほどない、そんな人に向かって私は書いている。そして、そんな元々短歌に興味の無い人々が、目の付け所に関心を示し、論理の展開に納得し、短歌の魅力と深さを知ってくれるような文章が書き

          読者とは誰か(後半)【再録・青磁社週刊時評第九十二回2010.4.26.】

          読者とは誰か(前半)【再録・青磁社週刊時評第九十二回2010.4.26.】

          読者とは誰か(前半)             川本千栄 (青磁社のHPで2008年から2年間、川本千栄・松村由利子・広坂早苗の3人で週刊時評を担当しました。その時の川本が書いた分を公開しています。)  3月29日付けの青磁社時評「批評とは何か」の最後で松村由利子から為された〈誰に向かって何のために書くのか〉という問いかけを自分のものとして考えていたところ、4月12日付けの広坂早苗の「誰のために批評を書くのか」を読んで、さらにいろいろ思うところがあった。2年間この青磁社時評

          読者とは誰か(前半)【再録・青磁社週刊時評第九十二回2010.4.26.】

          『八雁』2024年5月号

          「阿木津英評論集批評特集」 高良真実「ブームと波のなかばにあって」 〈(阿木津の評論集と)同じ判型・価格で(…)出版された川本千栄の『キマイラ文語』は(…)ニ刷になったという。〉阿木津英『女のかたち・歌のかたち』の評で私の本について触れていただきました。商品としての短歌評論集という観点からの言及です。その後、論は阿木津がどのように歌の向こうにいる人と向き合っているのかについて述べています。ぜひお読み下さい。 2024.6.9. Twitterより編集再掲

          『八雁』2024年5月号

          『短歌人』2024年5月号

          ①「高瀬一志研究」 桑原憂太郎「「含羞」ある大人の〈私〉」 〈「含羞」ある「私」による、へんてこりんな律動や、およそ短歌らしくない歌材による不条理性を楽しんだ後、ぱたんと歌集を閉じれば、そこには、最後まで境涯を詠うことを是としなかった大人としての〈作者〉の姿が浮かんでこよう。〉  著者は〈定型は恥ずかしい〉〈詠嘆は恥ずかしい〉〈境涯は恥ずかしい〉と3つの項目を立てて、高瀬の歌を分析している。この恥ずかしさって、実は今現在の多くの短歌に当てはまるのでは。高瀬個人の特徴が普遍

          『短歌人』2024年5月号

          『合歓』第104号 2024/4

          ①久々湊盈子「インタビュー 大松逹知さんに聞く」 久々湊〈大松さんの歌には作者がしっかり存在しています。(…)〉 大松〈歌集を読めばその期間の生活が手に取るようにわかるというか(笑)。ある時期までは「歌集を読んでも作者がどんな人物か分からない」は悪口だったんですよね。今は大きく違いますね。〉 この両方を経験しているから、私自身も気になるところだ。どっちがいいとかではないが、入り込みやすいかどうかはあるだろう。 ② 大松〈小説家なら無からストーリーを創作しても説得力を

          『合歓』第104号 2024/4

          『西瓜』第12号2024spring

          ①冬枯れの朝顔の蔓ほんとうの終わりとみればすこし触れたり 江戸雪 枯れた朝顔の蔓が景にも比喩にも取れる。本当に、疑う余地も無く終わった何かがあり、それが朝顔の蔓を見た時に連想された。主体は蔓に少し触れて、終わりを確認しているのだ。 ②撮ったことを覚えていない夜の写真それでも誰の夜かはわかる 鈴木晴香 撮った覚えの無い写真は、写真と記憶の不思議さを考えさせる。写真が自分の脳の一部を代替しているような感覚だ。これは誰々といた時の写真だ、と思い出すのだが、撮った瞬間の記憶は無いの

          『西瓜』第12号2024spring

          『うた新聞』2024年5月号

          ①嶋稟太郎「子規と人麻呂」 玉城徹の歌の読み、評論について。 〈(子規の「瓶にさす〜」の歌には)「ある種の『とぼけ』た感じ」があり、そこから狂歌の要素が感じ取れるという。(…)確かに子規の初期の歌には狂歌からの影響が濃く見られる。〉  これはよく分かる。近代歌人はユーモアというか笑いをあまり重視していない。子規は近世歌人と近代歌人の狭間の狂歌的な面が強いのだなあと再確認。玉城の鑑賞と、茂吉の、子規の生活に分け入った深刻な鑑賞の違いも分かって面白い。後半の玉城の評論を論じた部分

          『うた新聞』2024年5月号