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初めてうつ病と診断された日

異変に気付いたのは、三年次編入試験に合格し、春から某地方国立大学へ通うことが決まった大学2年の冬だった。

三年次編入を決めた話はこちら。

試験に合格し、単位もほぼ取り終わっていて、本来なら「やっと落ち着いたし遊びまくってやる!」となりそうな状況なのに、なぜだかわたしは友人たちのいる東京に帰ることもせず(スペイン語の単位がまだ残っていたので週に2日ほど大学へいかねばならなかったこともあるが、編入後取っていなくても取得済み単位に換算されることを知る)、ただ下宿先の母方の祖母の家の3階でほとんどどこにも行かず閉じこもっていた。

当時住んでいたのは、京都の祖父(小4のときに他界)が作った工場の端にくっついている小さな建物だった。
工場はその当時は叔父が屋内野球場に改築して運営しており、一階のすぐ入ったところはその事務所になっていて、扉の奥が祖母の住居スペースになっていた。

そこは昔工場があったときの休憩所で、キッチンと居間は工場の従業員たちの食堂だった。
部屋の片隅の、土足を脱いで上がるスペースは、休憩中に祖父母がテレビを見たりする部屋だった。
だから最初は住居ではなく、嵐山のほうにちゃんと家があって、そこから毎日工場に通っていたのだけれど、そのうちに行き来が面倒になって工場の休憩室に住み着いてしまったらしい。

嵐山の家はけっこう立派なお屋敷で、わたしはその古臭い感じとかお化けが出そうな雰囲気とか、祖父の自室にずらりと並べられたたくさんの鷲だとかアルマジロだとかの動物の標本を眺めるのが好きだったので、盆と正月に京都に行くときは、「工場じゃなくて嵐山の家に泊まりたい」とせがんだ。

わたしが大学に上がるすこし前くらいから祖母のアルツハイマーが進行し出したこと、元々悪かった脚の手術をしたことにより、下宿を始めたときには、小汚かった食堂が綺麗なダイニングにリフォームされていた。

2階は祖父母や母の姉弟たちの仮眠室として7畳くらいの部屋が2つ設けられていた。
そして建物の外階段を上がった3階は、従業員たちの寮になっていた。

わたしはその昔の寮の中の、いちばん広い15畳ほどの部屋を間借りしていた。
部屋は1人で生活するにはあまりにもだだっ広く、そして建物は元々が住居用ではないために、普通の家より防寒性に欠けていた。

また、トイレは部屋の外にしかなく、冬は廊下を歩くのが辛かった。
夜中に部屋を出ると、いくつもの空室がじっとこちらを見ているような気分になって、できるだけすぐ自室に戻るようにしていた。

そんななんだか陰気な環境で、わたしは半年ほどほぼ引きこもりと言っていいような生活をしていた。
眠れない日がますます増え、食欲も湧かず、よっぽどお腹が空かない限り外に買い物にも出なかった。

次第に時間を気にすることもなくなり、「夜にベッドに入って眠る」という習慣すら失っていた。
1日のほとんどをこたつで寝そべって、天井だけを見て過ごしていたのはなんとなく覚えている。
ベッドに入る日も2日か3日にいっぺんくらいで、こたつから動くことはほとんどなくなっていた。

キッチンはトイレと同じく廊下にあったが、風呂は3階には付いておらず、外階段を通って祖母の部屋まで借りに行くのだが、それがとても億劫で、大学に行かない日は風呂にも入らなかった。

大好きな小説を読むことも、映画を観ることもしなかった。
できなかったのかもしれないが、なぜか「したい」という気すら枯渇していた。

うすうすまずいとは思っていた。
だけれど、自分がおかしいことを認めたくなかった。

だが、ある日の出来事がきっかけで、心療内科の受診を決意する。
その日、翌日の1限にスペイン語の小テストを控えていたのだが、やはり眠ることができず、眠気で朦朧とした意識の中でテストを受け、散々な結果になってしまったのだ。

これはまずい、確実に日常生活に支障を来たしている。
認めたくないとか言っている場合ではない。
早急に手を打たないと、期末試験で失敗して、単位を落っことす羽目になる。
そうすると、もしかしたら合格が取り消されて編入が叶わなくなるかもしれない。

もともと不眠気味ではあった。
18歳ごろ、つまり受験期から、そのストレスや落ちることへの恐怖で、徐々に寝つきが悪くなっていった。
件のグループからの排除を契機にその傾向はますます顕著になっていたが、編入が決まって安堵すればそのうちにマシになるだろうとタカを括っていたのだ。

しかし一向に良くなる兆しは見えない。
わたしはiPhoneで検索して見つけた近所の心療内科を、渋々受診をした。

小さな町医者で、待合室の他にはマスクをして俯いている女性が2人ほどいた。
清潔だがどことなく古臭い病院で、わたしは名前を呼ばれるのを待った。

15分とかからず診察室に呼ばれると、40代くらいの優しそうなおじさんの先生に「どうされましたか?」と聞かれた。

わたしは不眠がここ最近酷いこと、症状自体は2年ほど前から出ていたことを簡単に伝えた。

すると先生は、家族構成を聞いてきた。
当時精神疾患の知識がゼロだったわたしは、「家族のことと今のこの症状になんの関係があるんだよ」と内心イライラしながらそれに答えた。

先生はふんふんと聞きながらメモを取り、「あちらで血液検査を受けてください」と言って何かの紙を看護師さんに渡した。
それから、「血液検査が終わったらこちらのテストに回答してください」と用紙を渡してきた。

いったいなぜ血液検査なんかが必要なのか、そのときはまったくわからず、注射嫌いだったから少し抵抗したが、「数値を見ないとダメなのでね」と有無を言わさぬ口調で言われ、仕方なく指示通り別室に移った。

採血をされ、気分が悪くなってしばらく横になり、そのあとその部屋で数枚の用紙にボールペンで記入した。
テストの内容はほとんど忘れてしまったが、回答は「とても当てはまる」〜「まったく当てはまらない」の5つの選択肢の中からどれかひとつに丸をするという形式だったのはかろうじて思い出せる。

回答したテスト用紙を看護師さんに渡し、また待合室に戻った。
ほどなくして再び診察室に呼ばれると、医者がこう言った。
「典型的なうつ病ですね」

しばらく口が聞けなかった。
まったく想像していなかった診断名を口にされ、呆けていた。
てっきり、単に一時的なストレスで不眠に陥ってるだけだと思っていたのだ。
だから、そんな大仰な診断名がつくなんて、つゆほども予想していなかった。

先生は続けて、血液検査で見られた異常と(何かの数値が高いとか低いとか言われたが、詳細は覚えていない)、ペーパーテストでうつ病に当てはまる点数が高かったことを説明し、「不眠はうつ病からくる合併症ですね」と言った。

「いやでも、うつ病って暗い人がなる病気ですよね?わたしは悩むことはあっても、わりと性格は明るい方だと思います」とわたしは思わず訊いた。
今振り返ると、突っ込みどころの多すぎる質問で失笑してしまう。

先生は「性格とうつ病は関係ないですよ」とわたしの言葉を一蹴し、「とりあえず今回は、軽い睡眠導入剤と抗不安薬を出しておきますね」と、マイスリーとメイラックスを処方した。

病院で会計を済ませ、隣の薬局で処方箋を出し、薬を受け取って帰路についた。
呆然としながら、わたしは家までの道を歩いた。

自分がうつ病になるなんて、考えたこともなかった。
たしかに小さなことを気にして、うじうじと思い悩む節はあった。
テンションは高くおしゃべりだけれど、考え方はネガティヴな方だという自覚もあった。

けれども、精神が病気だなんて思いもしなかった。
わたしの家庭環境がそこまで酷く、異常であるという認識は、まだその頃はなかった。
「どの家庭でも親は多かれ少なかれ子供に暴力を振るい、怒鳴り散らすものだ」と思い込んでいた。
いや、そう思いたかった。
自分の育った家庭は常識から大きく逸脱していたのだと正面から受け止める勇気は、20歳を過ぎたばかりだったわたしには無かった。

その夜わたしは、処方された薬を飲まず、こたつの中で泣き明かした。
両親や弟、祖父母、伯父や伯母、従兄弟たち、その他親戚の顔が次々と浮かんだ。
ドロドロとした憎悪に飲み込まれながら、「あなたは異常です」と正式に医者から宣告されたことに、ただ絶望していた。

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