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【伝説の講道館四天王】西郷四郎の生涯

みなさんは、明治に活躍した伝説の柔道家・西郷四郎をご存知でしょうか?

西郷は小柄な体格ながら必殺技「山嵐」を武器に大柄な相手を次々と投げ、一躍柔道界の寵児となりました。

西郷の活躍で講道館柔道は急速に発展し、小説『姿三四郎』のモデルにもなりました。

今回は、講道館柔道の発展に貢献し、「講道館四天王」にも数えられる伝説の柔道家・西郷四郎の生涯を解説します。

【生い立ち】

西郷は1866年、会津藩士・志田貞二郎の三男として現在の福島県会津若松市に生まれました(出生名:志田四郎)。

戊辰戦争によって会津藩は賊軍となったため、志田一家は現在の新潟県新潟市に移住します。

「会津若松戦争之図」 月岡芳年

しかし、1872年(明治5年)、慣れない土地での生活や重労働がたたり、父・貞二郎が38歳の若さで病死しました。

この時、西郷はわずか7歳でした。

小学校に進んだ西郷は、遊びに出かけると必ず喧嘩をして帰ってきたといいます。

一方で、将来、軍人になることを志した西郷は勉強に精を出していきました。

【嘉納治五郎と富田常次郎】

1882年(明治15年)、16歳となった西郷は陸軍士官学校への進学を目指し、上京します。

しかし、身長が約150cmと小柄だったこともあり、軍人への道を断念した西郷は天神真楊流の柔術道場へ入門しました。

この頃の西郷は、当時、保科近悳と名乗っていた元会津藩家老の西郷頼母の養子となっており、「保科四郎」と名乗っていました。

写真左・四郎、右・頼母

西郷は入門した天神真楊流の道場で嘉納治五郎と知り合い、嘉納のラブコールにより、講道館へ移籍します。

嘉納治五郎/出典:国際柔道連盟( https://www.ijf.org/news/show/what-really-happened-on-28th-october

嘉納は東京大学卒業後に講道館柔道を設立し、後に日本のオリンピック参加に貢献するなど、スポーツや教育の発展に尽力した人物です。

当時の講道館は、道場の広さが十二畳で入門者はわずか9人という粗末な状態でした。

また、住み込みで内弟子生活をしたのは西郷と富田常次郎の2人だけでした。

富田常次郎

ちなみに、富田は後に前田光世(グレイシー一族に柔術を教えた柔道家)と共にアメリカへ渡って柔道の普及活動を行い、「講道館四天王」の一人に数えられる人物です。

設立されたばかりの講道館で鍛錬に励んだ西郷と富田は、入門翌年には2人そろって講道館初となる初段を允許され、メキメキと実力を付けていきます。

【必殺“山嵐”】

講道館で研鑽を積んだ西郷は、相手の襟と袖を両手で握って釣り込み、豪快に投げる独自の技「山嵐」を開発していました。

西郷は身長が153~154cm、体重が約53kgと非常に小柄です。

「山嵐」は、小柄な西郷だからこそできる必殺技でした。

1888年(明治21年)、西郷は警視庁武術大会で照島太郎と対戦します。

照島は柔術の師範を務める大男で、警視庁の武術世話係でもある実力者です。

誰もが照島の圧勝を予想する中、西郷は照島の投げ技を巧みにかわし、そのまま得意の「山嵐」で照島を空中高くに放り投げました。

大金星をあげた西郷ですが、あまりの出来事に場内は静まり返ったと言います。

西郷はまさに、講道館柔道が掲げた「小よく大を制する」という理念を最初に体現した柔道家でした。

その後も西郷は他流試合で強豪を次々下していき、講道館柔道の発展に貢献していきます。

【突然の出奔】

1888年、西郷は会津西郷家の当主となり、「保科四郎」から「西郷四郎」となりました。

この年、郷里の会津の磐梯山が噴火して大きな被害をもたらし、西郷は人生をいかに生きるべきかを考えるようになりました。

そして2年後の1890年(明治23年)、嘉納治五郎が外遊中に「支那渡航意見書」を提出し、突然講道館を去りました。

この頃の西郷は近代国家となった日本の行く末を案じ、日本と清国の関係を憂い、憂国の士として大陸運動に身を投じる決意を固めていました。

一方で、1893年(明治26年)、西郷は仙台の旧制第二高等学校の師範に招かれました。

西郷は生徒たちに「武道と武芸を混同してはならない。武道は形もなく、声もなく臭いもなく、実に霊妙不可思議なものである」(『第二高等学校史』)と説き、武道を学ぶうえでの精神性を教え込みました。

その後、宮崎滔天や鈴木天眼との交流を深めていった西郷は、1902年(明治35年)、鈴木が長崎で創刊した東洋日の出新聞の編集に携わります。

宮崎滔天

東洋日の出新聞に携わる傍ら、長崎で柔道や弓道の指導者として従事した記録も残っています。

西郷は長崎でも武勇伝を残しており、その一つに思案橋事件があります。

ある夜、酔っぱらった西郷が思案橋にさしかかると、大勢の人だかりができていました。

のぞくと車夫が6~7人の外国人から袋叩きにあっていました。

西郷は車夫を助け起こし、得意の「山嵐」で外国人を一人、川の中へ投げ込みました。

これを見た他の外国人がいっせいに西郷に襲い掛かります。

驚いた見物人が鈴木天眼を呼びに行こうと走り出し、ふと振り返ったところ、そこには袴のすそをはらう西郷のみが立っていたと言います。

外国人は全員川に投げ込まれていたのです。

【姿三四郎】

中国の辛亥革命では特派員として現地へ行き、記者としても活躍していた西郷ですが、悪性のリウマチに悩まされるようになり、1920年(大正9年)、病気療養のため広島県の尾道に移ります。

しかし、神経痛は悪化の一途を辿り、やがて重態に陥ります。

そして、1922年(大正11年)、西郷は57歳でこの世を去りました。

悲報は長崎にも届き、東洋日の出新聞一面には鈴木天眼による追悼記事が掲載されました。

また、かつての師匠・嘉納治五郎は、訃報に接し、西郷に六段を追贈しました。

西郷の死から20年後の1942年(昭和17年)、後に直木賞作家となる富田常雄が小説『姿三四郎』を上梓し、ベストセラーとなります。

富田常雄

この作品は1943年に巨匠・黒澤明によって映画化され、戦後もたびたび映画やテレビドラマに採用されるなど、後の柔道を扱った作品に多大な影響を与えました。

作者の富田常雄は、かつて講道館で西郷と共に内弟子生活を送った富田常次郎の息子です。

そして、『姿三四郎』の主人公は西郷がモデルとされています。

ちなみに、柔道界で小柄な選手が大きな選手を相手に活躍した際、「三四郎」とニックネームをつけるのは、この作品がきっかけとなっています。

一度は講道館を去った西郷ですが、講道館黎明期に活躍して柔道の発展を押し上げたとして、富田と共に「講道館四天王」に選出され、その精神は現在も生き続けています。

以上、小さい身体で大男を次々投げ飛ばし、嘉納治五郎を支えて講道館柔道の基礎を築いた伝説の柔道家・西郷四郎の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇

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【参考文献】 『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』星亮一,平凡社,2013年

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