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四天王寺から法隆寺、そして飛鳥京へ。大和川が結ぶ聖徳太子の思惑。

先週放送の「歴史探偵」で、聖徳太子に関して掘り下げていたのが非常に興味深かったです。

そういえば2020年にも「ブラタモリ」で法隆寺を採り上げ、聖徳太子に触れていたことも思い出されます。

両番組とも、私がハッとなったのは、外国からの来客に対して「四天王寺」と「法隆寺」を日本を代表するランドマークとして利用したという事です。

当時の都「飛鳥京」まで向かうには、船で瀬戸内海を通って大阪湾に入るとまずは玄関口に「四天王寺」、そして「旧大和川」を大きく南へ蛇行しながら西へ進んで「法隆寺」を見せてから、最後に大きく南下して「飛鳥京」へ到着するコースを取るという。

Googlemap地点登録より作成

想像してみて下さい。
都までの道中に、聖徳太子が自ら自信を持って建てた「四天王寺」と「法隆寺」を見せるという効果を。

日本を訪れた外国の使者は、その立派な佇まいに文化度の高さを感じたはずです。


それこそが1400年も前に、聖徳太子が目論んだエンターテイメントであり、中国と対等な外交をしようと演出した事なのです。

戦国の革命児・織田信長も歴史に残るエンターティナーでしたが、たかだか450年前の事。
聖徳太子に比べれば、使い古した事に感じてしまいます。

今回は、これら2番組から私が感じた聖徳太子についてまとめてみます。





太子のハートに
火が点いた遣隋使の派遣

未文明の倭国わこく

600年、第一回「遣隋使けんずいし」を送ったものの、初代の隋皇帝・文帝ぶんていとろくな問答もできず、文明未発達の野蛮国だと馬鹿にされ、けんもほろろ●●●●●●に追い返されました。


この事が聖徳太子を奮い立たせます。

太子はよほど悔しかったのでしょう。猛烈な勢いで、倭国を文明国にするために、決起になりました。


●仏教を学ぶ
当時の中国では「仏教」が大流行し、その思想が全ての根幹になっていました。
太子は遣隋使が持ち帰った経典をくまなく調べ上げ、猛勉強します。


冠位十二階かんいじゅうにかい

朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授けるものである。

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603年、日本初の官位を定めることで人材登用の基盤を作り、より有能な人材を集め、実力主義を主流にしたのです。

●十七条憲法の制定

その内容は官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法としての性格が強い。

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604年、猛烈に学んだ仏教経典から作られたものなので、「憲法」というよりは「人としての哲学」の色合い強かったようです。現代の議会制民主政治にも繋がっています。


●ランドマーク的建築物
596年に四天王寺、飛鳥寺、607年には法隆寺。
大和川から見える位置に、派手な演出をプロデュースします。



日出ひいづるところの天子、
書をぼっする処の天子に致す。

~日が昇る●●国の天子が、
日が沈む●●国の天子にあてて書簡を送る~

これは607年に第2回遣隋使として小野妹子おののいもこに太子が持たせた国書の冒頭文です。

とても有名な一説ですが、この国書に2代・煬帝ようだいは激怒します。
なぜならその内容には大きな問題があったからです。

日が昇る繫栄国を倭国、日が沈む衰退国を隋とした
・非文明国である倭国が「天子」を自称

これらの理由で怒りを買ったのですが、最終的には隋は国交を開き、おまけに役人まで同行させたのです。


聖徳太子の脅し

ではなぜ、太子はこのような相手を見下した国書を持たせたのでしょうか?

当時の隋は、お隣の「高句麗こうくり」へ侵略中のややこしい時期で、倭国にかまっている暇などはない情勢にありました。

そのことをよく知っていた太子は、「脅し」とも取れる行動に出たようなのです。

明らかに倭国より先進国の隋に対して、国交を結びたい気持ちは山々なのですが、相手の苦境に乗じて上から目線で強気に出たのですね。

これって、
幕末に開国を迫ってやってきた黒船のペリーのような外交術ですね。


●国書が国名となる

またこの頃の日本は、主に朝鮮や中国から倭国わこくと呼ばれていました。
当時は「倭」=「和」という認識があり、
「倭」の意味自体も「柔軟で臨機応変」だと捉えていたのですが、国内で漢字の知識が高まると、「曲がりくねった」とも取られ、国名として相応しくないという認識に変わってきたのです。

そこで、この聖徳太子の国書から、日が出るところから「日の本」となり、それが現在まで変わらない国名となりました。

お札になると
経済は成長する

若い世代の方はご存じないでしょうが、私の世代は「聖徳太子」といえば、一万円札の肖像だった事が浮かびます。(1958年~1986年)

1961年生まれの私にとって、生まれた時にはすでに一万円の顔として定着していたのです。

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ちょうどこの頃は、日本の高度経済成長期であり、敗戦から立ち上がり、世界の中でも屈指の先進国に名を連ねるまでに急成長を遂げた時期なのです。

しかし、聖徳太子が紙幣の肖像画になったのはこれが初めてではありません。

1930年に100円札が発行されたのが最初で、ちょうどその時期は世界的に深刻な「世界恐慌」起こったのですが、紙幣発行して約2年後には日本経済はV字回復を遂げました。

それだけではありません。
1万円札の他、5000円札と1000円札に1回ずつ、100円札に至っては合計4回も登場しているのです。

ざっと調べてみると、1950年~1956年の間には、100円、1,000円、5000円、10,000円の全ての紙幣が聖徳太子だった時期もありました。

これを見ても、どれだけ日本人が聖徳太子を崇拝したかがわかりますね。

円安、物価高で経済低迷の今こそ、再び聖徳太子にあやかりたいところですが、来年からは一万円札の顔となる渋沢栄一さんも、きっと経済回復させてくれる事でしょう。


私の中で結びついた事

もちろん聖徳太子については知っていたのですが、今回、彼についての印象がガラリと変わりました。

・たぐい稀なる交渉術
・効果的なアピール
・物怖じしない姿勢
・プライドの高さ
・相手を知るための深い探究心
・太子信仰が今も残る理由

以上の事が、数々の足跡から垣間見え、それまで色褪せたモノクロだった聖徳太子が、にわかに色鮮やかなカラーとなった人物として浮かび上がってきたのです。

私の過去の体験とも、部分的にリンクされ、すべてが繋がり、各所を再訪したい気持ちが大きくなりました。


四天王寺

過去記事にも何度か書かせていただきましたが、私は四天王寺高校の卒業生です。

3年間もこの寺に通っていたのに、
いったい何を見ていたのだろう💧

当時、学校から支給された数珠の「親玉」に少年期の聖徳太子の姿が仕込まれていました。
「親玉」の中央が丸い拡大鏡になっていて、中を覗くとその姿を見ることが出来たのです。

当時の私は、どうしてお釈迦様ではなく、開基者の聖徳太子なのか?と疑問に思いましたが、それは単なる開基者としてだけではなく、信仰の対象としての意味合いもあったのだと、半世紀も経った今、気付かされました。

浄土真宗の開祖である親鸞は、太子の事を「和国の開祖」であり「日本の釈迦」であると崇拝しています。

何度も紙幣の肖像として採り上げられてた事からも、日本人が深く憧れ、最も崇拝した大人物であったのだとあらためて認識しました。

寺内の聖霊院の「絵堂」には聖徳太子の一生を描いた絵があり、毎月22日には特別拝観できます。

これは770年頃からずっと続く行事であり、その絵解き話が聞けるそうです。

10人の話を同時に聞くことができた。
馬に乗ってひとっ飛びで富士山に登った。

などの超人伝説も、にわかに興味が湧いてきたので、ぜひ訪ねてみたいと思いました。

2022年10月3日撮影


住吉大社

「四天王寺」より6.5Kほど南に「住吉大社」があります。

このあたりは、聖徳太子が日中交流を開始した1400年前は、「住吉津」と言われる入り江で、住吉大社は航海の安全を守るために創健されました。

現地には、後年の「遣使」の出発地点としての石碑がありましたが、同じく「遣使」もここから出航した可能性は高い。

聖徳太子がに国交を開いていなかったら、天台宗の最澄真言密教の空海も、遣使として海を渡るチャンスは巡ってこなかったかもしれない。
そしてその後の日本の発展もなかったかもしれない。

そう思うと太子が何としてでも国交を開きたかったのは、やはり先見の明があったという事なのかもしれません。

2021年10月4日撮影


法隆寺

最古の寺院という値打ちはもちろんあるのですが、とにかく内容が充実し過ぎて、かえって興味が散漫になります。

気付かすに見過ごしてしまうものも多く、何回となく行かないと、なかなかその全容を知ることは出来ない。

飛鳥時代の仏像の独特の笑みを含んだ愛嬌のある表情に思わす魅入ってしまうのは、私だけではないでしょう。

先日の岐阜での「岐阜大仏」が、意外にも飛鳥様式だったのが、嬉しい想定外でした。

上記の「歴史探偵」でも採り上げていましたが、ここの「五重塔」の設計は、1400年も前に考えられたとは信じられないぐらい緻密に計算されたものでした。

残念ながら太子が建てたものは670年に焼失し、8世紀前に再建されたものですが、それでも1300年もの間、数々の地震に耐え続けたのです。

この高度な建築設計は、地震大国日本においては欠かすことが出来ない基本のものとなりました。


2016年5月3日撮影


大和川

自宅から大和川の堤防までたったの1.8Kで、自転車では7分ほどでしょうか。
息子たちとよくサイクリングしたり、土手の広場で「凧あげ」や「ボール遊び」をした、とても身近な一級河川なのです。

その川が、国造りの一端を担う役割を果たしていたとは、俄かに見る目が変わりました。

この川も他と同じく暴れ川で、何度も人々の生活を苦しめ、治水土木工事を繰り返してきたため、川筋は当時とはまったく違いますが、それでも、エンターテイメントには欠かせない交通経路として活躍したのだと思うと、感慨深いものを感じます。

今まで何の変哲もない川だったのに、大きないにしえのロマンを感じずにはいられないのです。

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【参考文献】
歴memo 遷都の年表
高く売れるドットコム
Hugkum



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