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「デザイナーになりたいのか、デザインをしたいのか」: やりたいことがない人へ(後編)

本日は↓の記事の続きです。
といっても、いちいち前編読むのめんどくさいよ!という方もいらっしゃると思うので、雑駁に前回の内容を振り返ってから本題に入ります。

端的にいえば、前回書いたのは、

「めちゃくちゃ好きなことを仕事にしなきゃ」なんて気張らなくてもいい、「そこそこ好き」からスタートできるならそれで全然いいじゃない!

ということでした。
一度きりしかない人生だからありきたりなことをしたら損だとか、「そこそこ好き」で生きていくのは妥協だといった思い込みは捨ててしまってかまわないのだ、「そこそこ好き」だって自分らしい人生を生きるうえでの十分な土台になってくれる。
伝えたかったのは、大体そういうことです。

ちなみに、前回書きそびれたことで、一つどうきても付け加えておきたい点があるので書いておきます。
それは、「そこそこ好き」と「とても好き」の差を生むのは愛情の深さの違いだけとは限らないということです。

好きこそ物の上手なれという言葉がある以上、何かしらの分野で目立った功績を上げている人というのは、その物事に対して尋常ならざる愛を持っているはずだ、と考えてしまうのは、たしかに自然かもしれません。
しかし、その愛を尋常ならざるものたらしめているのは、必ずしも愛そのもののみに限らないと僕は思うのです。
端的には、ある物事に対する偏執的な執着、あるいはそういう執着をもたずにはいられないパーソナリティといったものが、愛そのものと掛け合わさって「好き」のあり方を決めているのではないでしょうか。
人と人の愛の形が多様であるように、愛する物事を愛するやり方もまた人それぞれだと考えるのは、なんらおかしいことではないはずです。

我を忘れて打ち込めないことは本当に好きなことではないとか、本当に好きなことなら他の何をも犠牲にして取り組めるとか、そういうことはないんじゃないかと僕は思います。
のめり込み方や集中の度合いには、物事へのこだわりに関するもう少し一般的な傾向なども関わっているのであって、打ち込めないなら愛していることにはならない、なんて落ち込む必要はありません。
裏を返せば、愛するとなったら偏執的にならざるを得ないという人もまた、その人にしかわからない孤独を抱えて苦しんでいるかもしれないのです。

何かを好きだと思う気持ちに正解なんてありません。
だから、「そこそこ好き」を否定したりせず、それもまた自分の大切な気持ちと捉えて、尊重してほしいなぁと思います。

と、また大きく脇道に逸れてしまいました。
毎度申し訳ありません……今度こそ本題に戻ります。

今回は、前回の内容をふまえて、「そこそこ好き」を花開かせて人生を充実したものにさせるうえで僕が大切だと思うポイントをいくつか提示したいと思います。
広く浅くを武器にするには、という観点からすれば、↓の記事とも多少つながるかもしれません。

それでは、どうぞ。

「○○になりたい」から「○○をしていたい」へ

「好きなことは何ですか?」
「好きなものは何ですか?」
こんな問いかけが始終交わされる世の中ですから、みんな好きなものや好きなことを限定しなくてはならない、好きな物事とそうでないものは画然と分けよう、と思いがちです。

しかし、そもそも好きや嫌いってそんなにきれいに色分けできるものでしょうか?
結局は傾向でありスペクトラムであって、あるものが好きだったらそれ以外は断じて好きであってはならない、という理屈はないんじゃないでしょうか。
小説が好きだ、小説しか認めねえ、という人がいても別にかまいやしませんが、たいがいは映画も好きだしマンガも好きだし思想書やノンフィクションも好きだし、というようにゆるやかな裾野が広がっているものだと思います。

「好き」とは1色を選ぶことではなく、濃淡ある色の群れを漠然と指差すことだと考えると、「好きなことをする」にこだわらなくていいんじゃないかという気がするのです。
これをしたい、を突き詰めるのではなく、こういう感じが好き、でゆるっと染め上げていく。それだけでも自分の色は出てくるんじゃないでしょうか。

社会人として生きていくのも、そういうことなんだと思います。
就職とはすなわち職に就くことであり、職に就くとはすなわち一つの枠にきっちり収まることであると考えてしまうと、たしかに枠選びでミスはできない、一つしか選べないなら価値の高い枠を勝ち取りたい、とプレッシャーに駆られざるを得ないかもしれません。
しかし、「こういうことをしたい」というもっと漠然とした基準をもって眺めると、なんだ、自分が居心地よく過ごせそうな場所なんかたくさんあるじゃないか、と気付けたりするものだと思います。
「デザイナーになりたい」という目標の持ち方は進むべき道をかなり局限するでしょうが、「デザインをしていたい」ならぐっと間口は広がるでしょう。
まして「デザイン的な思考・視点で物事に取り組みたい」というところまで落とし込めば、そういう仕事をする人というのはどんな業界・企業にも不可欠ですから、選択肢は爆発的に広がるはずです。

雇う側の気持ちからしたってそれはそうなのだと思います。
マーケターとして働きたい、といって志望してきた学生を素直に採用するのは、マーケター職に直結する以外の道を割り当てたときのリスクを考えると躊躇されるでしょう。
しかし、調査や分析に携わりたいんだ、トレンドに関わる仕事をしたいんだ、というところまで噛み砕かれていれば、志向に適った仕事、なんらかの形で将来に生きる仕事を幅広く割り振ることができますから、ぐっと雇いやすくなるはずなのです。

「○○になりたい=wanna be」ではなく、「○○をしていたい=wanna do」で考えると、選択の幅はぐっと広がります。
第一、なんらかの分野で名を挙げたスペシャリストだって、多くは目の前にある「やりたいこと」をこなしつづけた結果として、最終的に唯一無二の地位を手に入れた人たちであるはずです。
漠然としていていい、いやむしろ漠然としているくらいのほうがいい。こんなことをしていたい、という自分の気持ちに敏感になってみてください。

ちなみに、ある友人がかつて書いた就活関係の記事にも、似たような言及があったので貼っておきます。
気になった方は読んでみてください。


焦らない

ありきたりですがすごく大事なことです。

どんなことであれ、何事かを一人前にやりこなせるようになるまでには10年かかると言われています。
一部の界隈に根強く存在する、10年修業しなきゃ独り立ちは絶対に許さない、みたいな慣習は、たしかに時代遅れの感が否めない一方、やはり一定の理に根差した仕組みだったのだろうと思います。

10年経って初めて「やるべきこと」が絞れてくるのだと思うのです。
逆に言えば最初の10年は、自分というフィルターをありとあらゆる物事にさらして、何をすべきで何を手離すべきかを注意深く見極めるだけで終わったっていい。
イエス・キリストが宣教を開始したのも、ゴーダマ・シッダールタが出家したのも、村上春樹が職業人としての小説家になったのも、ようやく30歳になるかならないかという頃のことです。
20代の入口にしてすでにやるべきことが絞れているというほうが、よほど稀だと考えていいのではないでしょうか。

たしかに若くして活躍している人たちもいないことはないですが、それは小手先のテクニックが運よく成功したからではなく(もちろんそういう人もいるでしょうが)、成功に結びつくだけの一貫した積み重ねをーー意図してか否かはさておきーー長いこと行なってきたからだろうと僕は思います。
成功するのに10年もいらないよ、と言う人たちだって、その10年を省略できるだけの下地を、どこかの時点できちんと積んでいるはずなのです。
あるいは、その成功が脆い地盤の上に立ったハリボテか。そのどちらかだと思います。

「『そこそこ好き』なことしかない」「私の『好き』なんて『好き』のうちに入らない」と卑下する人たちは、きっと好き嫌いをまだまだブラッシュアップできていないだけです。そして、このブラッシュアップはやろうと思えばいつからでもできます。
残りの人生を賭けて成し遂げるべきこと、挑戦していくことを決めるのは、このブラッシュアップが済んでからでも全然遅くないと思います。
丸々10年かかったって30歳ちょっと、死ぬまでには50年近く時間があるんです。
社会人になるからにははっきりした「やりたいこと」を持たなくちゃ、と焦る必要は全くありません。
むしろ、それを見つけ出す土台を探す最初のステップとして就職を捉える、くらいの気構えでゆったり臨めばいいのではないかな、と僕は思いますが、いかがでしょうか。

「もっと好き」には敏感に

自分の「好き」と他人の「好き」を比較して、自分の「好き」なんて薄っぺらい……と落胆するのはナンセンスだということは、ここまでに何度も述べてきました。
ですが、ある物に対する「好き」を別の物に対する「好き」が上回っていることはないか、すなわち「もっと好き」が自分の中に現れていないか、と絶えず内省するのは大切ではないかと僕は思います。
他人と比べるのは不毛ですが、自分自身の気持ちを比べることには意味があると思うのです。

これも好きだけどこっちはもっと好き、と思ったとき、その差がどこで生まれたのかをきちんとチェックすることは、自分の中の優先順位や気づいていなかった価値観を浮き彫りするのに役立ちます。
同じデザイン的な仕事をするにしても、静的なものを扱うより動的なものを扱うほうがワクワクする、とか、文章を追いかけるより数字を追いかけるほうが苦にならない、というように、差分を事細かにチェックしていけば、自分の大きな傾向が明らかになっていくはずです。

もちろん、あっちよりこっちのほうが好きだからあっちは切り捨てなきゃいけない、と硬く考える必要はありません。
熱中するほど好きなことと、クールダウンして取り組める好きなことを、別々に持ち合わせていてもいいと思いますし、そのあたりのバランスは人それぞれでしょう。
自分の中のいろんな「好き」は相互にどんなふうに関連しあって、どのようにバランスをとりつつ総体を成しているのか。いわば「『好き』のポートフォリオ」を逐一更新することで、自分らしさを浮き彫りにしていけると、やりたいこと・成し遂げるべきことはおのずと明らかになるのではないかと思います。

おわりに

どうでしょう。「そこそこ好きなことしかない」という人にだってできることはそれなりにあるはずだという僕の思い、多少はお伝えできたでしょうか。

「好きなことを見つけろ」「やりたいことをやれ」って、自由を与えているようで、その実なかなか無責任な物言いだったりするんですよね。
何かに熱中する経験を幼いときから奪われていたり、そもそもパーソナリティゆえに淡白だったりして、思うように「好き」を見つけられない人にとっては、「好きなことをやれ」なんて、意味不明な呪いの言葉でしかないのかもしれません。

ただ、だからといって、熱中できるものを見つけられない人間は妥協して一生を終えるしかない、と即座に決めつける必要はないと思うのです。
自分なりの姿勢、世界との付き合い方を見出していければ、それは少なくとも自分自身にとってはベストな、価値ある生き方になるはずです。
無理して背伸びしなくていいじゃない、「そこそこ」があなたなら、まずはそれを大事にしたらいいじゃないーー。
あらためてそんな提案を述べさせていただいたうえで、この記事を締めくくらせていただきます。

それでは、本日はこのへんで!

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