「努力の神格化」をそろそろやめませんか、って話

僕は、何かに本気で打ち込んだことがない気がします。本気で打ち込めることを見つけていないだけなのかもしれません。本気で打ち込めるって超すごいと思います。本気で打ち込めてたらもっとこうなってたのかなとか考えたりします。あぁ、哀れ。

久々の「宿題」です。

「頑張る=えらい」はただの信仰


はじめにスパッと言ってしまいますが、本気で頑張るべきか否か、なんていうのは真実の問題ではなく単なる信仰の問題です。
そして、信仰の問題である以上、それに殉じきれなかったからといってダメな人間だとか生きる価値がないとか、そういう話にはなりようがありません。

そろそろ、「本気で頑張る=えらい」という信仰から身を離してもいいんじゃないでしょうか。

頑張ることの価値を否定するわけじゃありません。
何かしらの目標に向かって動きつづけることや、昨日までの自分を今日更新するために試行錯誤することは(人によるでしょうが)往々にして楽しいですし、さまざまな充実感をもたらしてくれます。
僕もどちらかといえば好きなこと打ち込めることをもって頑張っている人のほうが好きですし、頑張ったって人生なんてどうにもならないってぼやきながら昼間からストゼロ飲んでふてくされている人よりは、エネルギッシュに何かに取り組んでいる人のほうが魅力的に感じます。

ただ、それがあくまでも好みの問題でしかない、ということだけは頭に入れておいていいと思うんですね。いい加減。

世の中「頑張らずにラクして生きられるならそれに越したことはない」と本気で信じて生きている人もたくさんいるのは確かなわけで、その人たちにとっては永久機関化した不労所得で暮らす人生を至高とする信仰の体系こそ本物なわけです。
それを頭から否定して「頑張らないヤツはクソだ」みたいに言いなすのってめちゃくちゃ失礼じゃないですか?
逆を考えればわかることですよね。何かを頑張っている人に対して「あくせく頑張る人間なんて一から十まで全員バカだ」なんて言う人間がいたら、なんて失礼なヤツなんだと思わずにはいられないはずです。

頑張るのが正しいとかかっこいいとかダサいとか無駄だとか、そういうのは全部「頑張る」というニュートラルな行為に対する信仰、意味づけの問題でしかないんです。
ぶっちゃけていえば「頑張る」という行為の本質とすら関わらないと思います。


「頑張る」の本質

そもそも人は何のために頑張るのか。

信仰上の意味づけは色々あると思います。人に元気を与えるためだとか、自分を他人に認めてもらうためだとか、成長するためだとか、後悔しないためだとか。
でもそれは人それぞれのものであって、一意に決められるものではありません。
何のために頑張るかを事細かに問いただせば、きっと百人百通りの答えが返ってくることでしょう。

そういう「人によって異なる」部分をなるべく除いて考えたとき、人はいったい何を目して「頑張る」のだといえるでしょうか。

一番シンプルな答えはこうだと思います。
トライアンドエラーを重ねることで、自分自身や自分に関わる物事を望ましい方向に更新すること。

仲間との絆とかコンプレックスの打破とか、そういうものを取っ払ったときに残るものは、それ以上でも以下でもないと僕は思います。

そしてたぶん、頑張っている人ほど、より冷静にこのことを認識しているはずです。
日本では(日本に限らないのかもしれませんが)「頑張る」ことへの信仰がいまだに根強いので、オリンピックやワールドカップにおいても「チーム一丸となって頑張ることの美しさ」「熱い気持ちで夢に向かっていくことの尊さ」みたいなものが喧伝されがちですが、一番の当人であるアスリートの方々は、競技への取り組みそれ自体においては、絶対に冷静さを欠いてむやみに熱くなったりなどしていないと思います。

だって、当たり前じゃないですか?
気持ちばっかり熱くなったらパフォーマンスはかえって下がるはずで、それはせっかくの「頑張り」の意味を失わせる事態にほかなりません。
それこそ何のために頑張ってきたんだという話です。
冷静さを欠いた「本気」のせいで満足いく結果を出せないなんて、これ以上に本末転倒な話はありません。

「本気で何かに打ち込む」って、美しく尊い行為のように語られがちですが、当人からしたら案外シンプルで着実なトライアンドエラーの積み重ねでしかないと思うのです。

いくら熱くなってがむしゃらにもがいたって、記録が伸びたりシュートの成功率が上がったりすることはないはずで、むしろそこに必要なのは、緻密な自己分析と改善のための試行錯誤、定着に向けた地道な繰り返しといった、ごく冷静なプロセスこそであるはずです。
「頑張る」という行為は案外冷たくてありきたりで、そうであるからして「熱さ」「本気」なんてものは副産物でしかない。
そして、副産物である以上、それは必須でもなんでもないんです。
僕たちはしょっちゅう勘違いしますが、本気で熱くなれば最後にはいい結果が待っている、なんていうのはただの幻想であり大間違いなのです。

「頑張る=熱い、本気」のからくり

からくり、というほど大した話ではないですが、なぜこの等式が一見正しく思えてしまうのか、少し考えてみたいと思います。

たとえば、コンマ1秒記録を伸ばすこと、世界大会の大舞台でライバルを倒して少しでも表彰台の高いところに立つこと、などなど、どうしたって目標と無縁でいられるアスリートというのはなかなかいないと思います。
幼い頃から夢に見ていた、とか、自分の才能が開花するにつれて欲が出てきて、とか、支えてくれた人たちの恩に報いたい、とか、いろんな動機に導かれつつ目標というものができるわけです。

この目標が叶うことは、どうしたって嬉しい。
逆に、目標叶わず敗れ去ることは、悔しいし悲しい。
この「目標」をめぐる悲喜こもごもが、僕たちに「頑張ることは熱いこと」という勘違いをもたらす原因だと思うのです。

この悲喜こもごもは、記録を伸ばすため、試合に勝つために必ずしも必要なものじゃないわけです。
むしろ、集中すべき場面で勝ち負けなんかがチラついてフォームが崩れた結果、勝てそうだった試合で大敗を喫してしまう、なんてありふれた話です。
逆に気持ちが後押しになって良い結果に結びつくようなパターンもありますが、それは別に「気持ちがなければ勝てない」ということを意味するのではなく、「気持ちによる揺らぎも結果を左右する一大要因である」というだけの話にすぎません。
だって、熱い気持ちで勝っている人たちと同じくらい、その熱い気持ちゆえに負けている人たちだっているわけですから。

日々地道に、階段を登るようにして、着実に積み重ねられてきた試行錯誤。
結果に直結する本質はそうした冷たいプロセスであって、思いはそこに掛け合わせられるにすぎません
思いがあろうとなかろうと、階段を一つずつ登る行程そのものに変わりはないわけです。
思いがあれば階段をすっ飛ばして頂上まで飛んでいける、なんてそんな都合のいい話はありません。

誰しも平等に、目の前の階段を、ペースや歩幅こそ違うかもしれないけれど、やはり階段を避けることはできないという意味では、同じように一歩一歩登っているわけです。
そしてそれ自体は、別にかっこいいことでもなんでもありません。
初めの一歩であれ前人未到の一歩であれ、それはただの一歩だからです。
かっこいいとみなすのはそれを外から見ている人だけ。
本人は(少なくとも努力の真っ只中に身を置いている最中は)それをかっこいいだの感動的だのとはつゆほど思っていないはずです。
そんな感傷に浸っている暇があったら、自分の身体の動きやコンディションに、全身全霊で注意を傾けているでしょう。

何度でも言いますが、努力や頑張りとは結局のところ、それ自体がドラマを持つわけではないし、一歩一歩の地道な積み重ねでしかないのです。
そのことを顕著に体現しているのが、往年のアスリートでいえばイチロー、最近だと棋士の藤井聡太棋聖なんかじゃないかと思います。
どんなに周りがその偉業を祭り上げようとしたところで、本人たちはやるべきことを淡々とこなしつづけた結果そこにたどり着けたとしか思っていないから、そこにはどうしても滑稽なほどの温度差が生じてしまう。
「頑張る=熱い」は普遍的な等式などではないのに、それを無理やり当て込んで解釈しようとすると、ちぐはぐな画が出来上がってしまう場合すらあるのです。

熱くならなければ、本気にならなければ、頑張ったことにはならない、打ち込んだことにはならない……。
僕にはこういう考え方が、本末転倒というか、誤謬のように思えてなりません。
なんか面白いと思ってさわってるうちにのめり込んじゃって、ずっとやってるうちに気づいたら大ごとになってしまった、ではいけないんでしょうか。
というより、物事の進み方としてはそっちのほうがよほど自然ではないかという気がします。

にもかかわらず、そこに「熱さ」や「感動」が読み込まれるのは、そのほうがシナリオとしておいしいし、競技そのものとは関係のないところで飢えた人々の心を満たせるからにすぎないのかもしれません。
もちろん、感動のすべてが捏造、火のないところに立った煙だとは思いませんが、それを「頑張る」の本質と捉えてしまうと間違うように思います。

「頑張る」は美しい高貴な行いでも、感動や熱狂とつねに直結する行為でもない、ただの地道で冷静な一歩一歩であるーー。
一旦それくらいのところまで引きずりおろしたうえで、自分が本当に何ももたない空っぽの人間なのか、それとも単にハードルを上げすぎているだけではないのか、今一度考えなおしてみてはどうかと思います。

おわりに

幼い頃、僕たちは誰しも「頑張れ」と言われたり言われなかったりすると同時に、「頑張る」にまつわるさまざまな信仰を植えつけられてきました。
そして、それらは必ずしも僕たちを良い方向に導きはしませんでした。
頑張ることをむやみに高邁な行いのように思わせてかえってやる気を失わせてしまったり、他人の期待に沿うことを人生のすべてのように思い込ませてしまったりと、本来の「頑張る」の楽しさや面白さとはずいぶんかけ離れたところに、僕たちを連れてきてしまった。
幸いにしてそうはならなかった、という人も少なからずおられるとは思いますが、今なお苦労を強いられている人も多いはずです。

僕たちはたぶん、それらの信仰をくだらない、ろくな影響をもたらさないものだと心から思ったならば、そのときは思い切ってそこから身を離してしまうべきなのです。

大人になれば、僕たちは基本的に自由です。
嫌だと思ったことに付き合いつづける必要もないし、課せられたルールや命令がバカげたものだと思えば、さっさとそのコミュニティから離れてしまえばいい。
何に時間やお金を使うかも、どこに身を置くかも好きに選べます。

そうである以上、幼少の頃に植えつけられた物の考え方にいつまでも縛られている必要もない。
これは自分にとってまるで役に立たないな、と思った教えは、さっさと捨ててしまえばいいんです。

「熱くなれるもの」はないかもしれません。
でも、楽しめるもの、やっているとつい他のことがおろそかになるもの、上達すると嬉しいものも一つもないですか?

もしそういうものがあるなら、それを気の赴くままやればいいんじゃないでしょうか。

違う信仰をもつ人たちは、あなたが夢中になっていることを咎めるかもしれません。あるいはバカにするかもしれない。コケにするかもしれない。
でも、それを気にしてる限りはたぶん「頑張る」の種は育たないです。
誰にもバカにされないものを選んで頑張ろう、とか、バカにされないように良い結果を出そう、なんて思っていることは大体長続きしませんし、まともな結果も出ません。

だったら、どうなっても責任を取ってくれるわけでもない他人の言うことなんて放っておいて、気が向くものを気が向くペースで味わい尽くすほうがいいんじゃないでしょうか。
少なくとも、僕はそう思えるようになってから、ぐっと人生が楽しくなりました。
誰に誇れる結果を出したわけでも、すごく立派なことをしているわけでもないけど、いろんなことをまっすぐな気持ちで頑張れるようになって、日々楽しく生きることができています。

人に認めてもらおうと躍起にならないほうが、かえって人から関心を持ってもらえたり、熱くなりすぎるクセを捨てたほうがパフォーマンスが上がったり、人生とはなかなか思ったのと同じ方向には進まないものです。
でも、コツをつかめばきっと楽しくなるし、昔はできなかった色んなこともできるようになります。
月並みですが、希望を捨てなければ活路は開けると僕は信じています。
何もないなんて諦めず、手元にあるものをじっくり見直して、それを楽しむところから始めてみてはいかがでしょうか。

がんばってください。

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