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恋と愛はケチャップとお酢くらいには違うんじゃないか、という話【宿題】

恋と愛って違うんですか?

先日寄せられた「宿題」だ。

恋と愛の違いなんてものは、挙げようと思えばいくらでも挙げられる。いや、わざわざ挙げるまでもないかもしれない。「恋 愛 違い」とでもググってみれば、それで事足りるからだ。美輪明宏からヴィクトル・ユゴー、DJあおいにトイアンナまで、古今東西の文士諸賢が残した数々の名言を見つけることができよう。僕のような浅学の若造が今さら付け足さなくてはならないようなことは何もない。
ということで以上です、どうぞお帰りください。

と、話がこれで済むなら、最初からこのテーマを記事として扱うことなどしない。問題はもっと根深い。この記事一本書き上げるのにもほぼ丸5日かかった。

恋にあって愛にないものなーんだ、というなぞなぞには、星の数ほどの回答が提出されている。
にもかかわらず、その回答のすべてを寄せ集めたとしても、二つの間に画然と線を引くことに対して、きっと抵抗を感じてしまうだろう。
なるほど先人の名言をひもとけばひもといただけ、恋とはこんなもの、愛とはこんなものと薄ぼんやりした理解は深まる、けれどもその「境界」は一体どこにあるのか? 恋はどこから愛になるのか? 愛になる恋と恋のまま終わる恋の違いは何なのか? 考えても考えても答えは出ない。
こうして僕らは、眠れぬ夜を過ごすことになるのである。

恋を信ずる人、恋を見限る人

付き合って半年になる初めての彼女。サークルの飲み会の帰りがたまたま一緒で、そのとき最初にしゃべってからずっとなんとなく気が合うように思えて、どちらからともなく連絡を取り合うようになって気づいたら朝までLINEしてた日もあって、やべえもしかして俺のこと好きなのかなって思ったときにはもう手遅れ、3回目のデートは映画館からの駅ビルのレストランでディナー、これはもう決めないほうが不自然というか自然の摂理に失礼ってなわけで帰り際に「よかったら付き合いませんか」、そして気がつけばHug, Kiss & I love you、半年経ったけどやっぱ好きだ、ずっと末長く大事にするぞ一生守る!!!!!!!!!!

と、拳を握りしめた彼にとって愛とは、きっと「初めて手を繋いだ大事な彼女を一生守ること」なのだ。人生に疲れたジジババに言わせれば赤面モノだろうが、彼の気持ちは純度100パーセントである。裏切るもごまかすも何もない。恋人にすべてを捧げようと決めた彼の心には、そもそも裏や濁りがないのだから。

そんな彼の気持ちを笑って「あのね、君が愛だと思ってるそれ、ただの勘違いだから笑笑 性欲が生んだ幻ってこと、わかるかな? 3年も経ちゃ夢から覚めて何もかもがパーになるから笑 こっぱずかしいこと言って回りたくなるくらい幸せなのもわかるけど、冷静さもときには大事だゾ???」と斜め上から見下ろす人。
そんなあなたにも問いたい、「貴君貴女にとって恋と愛とは何ですか?」

恋など所詮いっときの幻、刹那のみ咲く徒花、その先に愛はない、幸せは冷静さと打算の果て、ヘミングウェイ、オーシャンビュー、ユーマイフォーリンカントリーピーポー。
破れた恋の数だけ強まった信念と蓄積されたデータを胸に、今夜もオンラインで婚活に勤しむ諸氏にとって、恋や愛とはそんなものかもしれない。
恋に恋し、恋を愛と信じたあの頃にはもう戻れない、涙の数だけ強くなった私、さぁ愛と幸せを探しに船出しよう! イケメンハイスペ年収800万! 子供は2人、共働きでも構わない! なんとか35までに決着をつける!

僕らには止める権利もなければ、止めうるだけの論法もない。そもそも止める理由さえない。願わくは彼ら彼女らが幸せを手にせむことをーー。

   *


さてここで問題です。
前者のピュアピュアボーイと後者の婚活ウォーリア、どちらが正しく恋を理解し、愛を理解しているのでしょうか?

   *


僕自身の回答はこうだ。どちらをも「正しい」とは思えない。けれども、彼らの信念はそれぞれに本物だ。
正しい正しくないは関係ない。決して他人の声によって揺るがされないという意味において、いずれの信念も真実だ。

誰もが自らの信念に基づいて、自分なりに恋や愛のなんたるかを逐一定義し、人生における次の一手を決めていく。その過程は決して理性や言葉では捉えきれない。
僕たちは感情に導かれ突き動かされることはあっても、その感情を導き突き動かす真の黒幕の正体を説明することはできない。
よく考えてほしい、自らが好意を抱いた相手について「なぜ好きになったのか」を本当の意味で説明できた人間が、果たしてこれまでこの世にあったものだろうか?

自分でも把握しきれない自分自身に導かれるまま、ラブという名の茨の道を歩き続け、時に裏切られ時に手傷を負うなかで、僕たちは自らの信念を修正し、自分の中における恋や愛の位置づけを改めていく。
そのようにしてしか恋や愛における「正しさ」は決まらない。
他人の恋愛論をいくら掻き集めたところで、事の本質を摑んだと確信するに至れない所以である。


恋と愛というひょうたん島

そんななか、これだけは誤解を恐れず述べていいだろうと思えることが一つある。
すなわち、恋と愛はケチャップとお酢くらいには隣接し、のっぴきならない関係を有している、ということである。少なくともマグロと集積回路ほどの隔たりはないはずだ。
マグロと集積回路にもそれなりの隣接性があると論ずる専門家が現れたならそのときは心から陳謝したい。

恋が始まり進み終わっていく過程は、こと枠組みに関していえば人類共通である。そして、愛と呼ばれる恋よりもずっと難解で曖昧な領域が、どうやら恋と隣接しているらしいことも明らかである。
両者の関係性や隔絶をどう見るかは人それぞれにせよ、隣接していることは確かだろう。誰もが「恋愛」というワードを疑いなく使っているし、「恋と愛ってどう違うの?」なんてことをしょっちゅう考えている。そのことからして明らかではないか。お前ら「集積回路とマグロってどう違うの?」とか考えたことないだろ。つまりはそういうことである。

恋と愛とを並置ないし対置して語るとき、僕たちは言うなればひょうたんのようにつながった一つの物事を問題にしているのだ。
別物でありながら、微妙な一部分においてつながっている二つ。
違うといえば違うし、一つといえば一つと言える。そんななんとも小賢しい形をしているのが、恋愛なのではないかと僕は思う。

曖昧さは僕たちを眠れぬ夜に誘い、境界線をめぐる終わりない議論を生ましめていく。なるほど19歳のチェリーボーイと四十路おばぁでは永遠に話が通じないわけである。線引きの仕方が違うから。そして、線引きの違いをもたらすのはそれぞれが歩み積み重ねてきた人生の違いだから。
でも、彼らが対象としている物事そのものに差があるのかといえば、おそらくそれは違うはずだ。

僕たちは、恋と愛が別モノでありながら分かちがたく結びついていることを知っている。そして、歩んできた道のりと現在見ている風景から得た判断をもとに、この両者の間に何らかの境界を引いたり引かなかったりする。
そこに客観的な正しさや必然性はない。でも、人それぞれの合理性は存在する。恋を揺るぎないものとすべく愛へと読み替えることも、自分を裏切り続けた恋を見限って愛と切り離すことも、大切な我が身を守るために必要な手段だ。
しばしば遺伝子の継承が命がけの営みであるように、恋愛だって時に生きるか死ぬかの大問題に発展する。僕たちはかけがえのないものを守るために、そして命に関わる傷を負わないために、都合よく恋と愛の定義を読み替えているのだ。

「恋と愛とは違うんですか?」という問いは、おそらく次のように改められなくてはならない。すなわち、「私にとって、恋と愛とは違うものなのだろうか」と。
僕が「違います」と言ったところで、僕の隣人は「違いません」と言うかもしれない。
どちらを信じるかは、結局のところ、あなたが何を信じたいかに拠るほかない。


価値観とは、歩みそのものだ。

信じたいものを信じればいい、とは便利な言葉だ。いいことを言ったふうを簡単に装える。

しかしそれは、裏を返せば卑怯だともいえる。いいことを言ったふうを装って内実何も言っていないという茶番を、実にお手軽に演じうるからだ。
こと今回のテーマにおいて、「信じたいものを信じろ」とは、無責任にすぎるかもしれない。

そもそも僕たちは、恋愛という領域の大部分において、自分の意志を働かせることができない。先にも述べたことだが、僕たちは自然と惹かれる相手を選べないではないか。付き合い方にしたって結局は感情の問題だ。LINEの頻度は一日これこれ、おうちデートはマンネリに繋がるからほどほどに。ノウハウらしいノウハウは転がっているが、あなたの心が「違うなぁ」と首をひねればそれは「違う」のである。

僕たちの信念は僕たちの意志によってのみ決まるものではない。
それどころか、僕たちの信念は僕たちがこの世に生まれ落ちてからの歩みによって大部分を形作られ、その形を僕たちの手で選ぶことはほとんどできない。
誰のもとに生まれ、どのように愛され、どんな人やものに囲まれ、物心ついて誰と出会い、どんな関係を取り結び、多分に偶然が介入する環境の中でその関係はどのような帰結をもたらし、それらがあなたの心にどのような気づきと傷をもたらしたか。信念(価値観と読み替えてもいいだろう)は、このような歩みの産物としてもたらされる。
意志らしい意志が入り込む余地は、上記の過程の中にどれほどあっただろうか? 思った以上に少ないはずである。疑うのなら最初から辿りなおしてみるといい。選べるのはせいぜい、出会った誰がしかとどのような関係を築いていくかのところくらいだろう。
それとて、より以前の軌跡をどのように歩んだかによって大部分が規定されてしまうし、意志したところで思い通りにうまくいくという保証は皆無だ。

そんな半ば暴力的とも言っていい境遇にさらされて、時に僕たちは自分自身や恋する(ないし愛する)誰かの思いや価値観を疑わずにはいられなかったりする。恋とは何で、愛とは何だ、と問うとき、その問いかけの向こうにあるのは結局のところ、「この不確かなわけのわからない人生の中で、どうにか幸せになりたい」という切なる想いだろう。信じたいものを信じていいのかさえわからないこの世界。今日「愛している」と言ったあの人を、私は明日も明後日も愛していられるだろうか? 確信が永遠に持てないからこそ、僕たちは少しでも信じられる答えを探し求める。

「恋と愛とは違うんですか?」と尋ねてくださったどこかの誰かが、どんなつもりでこの問いを投げてこられたのかを知る由はない。しかし、あくまで推測の域を出はしないけれども、おそらく、おそらくである、彼か彼女かはきっと、最終的に自分は幸せになれるのかという不安、どうにか幸せになりたいという思いを、胸のどこかに秘めているのではあるまいか。人生においてたえずちらつく不確さに対して、ぬぐいきれない心細さを感じているのではあるまいか。

そんなゆらぎから投げかけられた問いに対して、「信じたいものを信じろ、以上」と返しても、何も言ったことにならないだろう。
便利な言葉に頼ってそれらしく文章を締めることもできるかもしれないが、それで何事かを書いた気になるのは、ものを書く者の端くれとして恥ずべき行為とすら思える。
あくまで僕は誠意をもって文章を書いていたい。ということで、最後に少しだけ僕自身の話をしてこの文章を終わりたいと思う。それが誠意の表れとして十全に機能してくれることを願いつつ。

恋にできることはまだあるかい

つい先日、彼女と付き合い始めて2年半を迎えた。

2年半とは微妙な期間である。関係性について何事かを判断するのに十分に長いとはお世辞にも言い切れない。かといって短すぎるかといえばそれも違う。
いや増す相手への好意と感謝が単なる恋情なのか愛情なのか、断言することは不可能に近い。

ただ、僕は始まりが恋だったこの2年半の歩みを経て、彼女に対して深甚の感謝と尊敬を抱くにいたっている。その気持ちは確固として疑いようがない。
それに比べれば、いま僕が抱いている好意に付けるべきが愛なのか恋なのかなどは、問題になりすらしないと思う。少なくとも僕はそうだ。
皆さんはどうお考えになるだろうか、解釈はそれぞれに委ねたい。


   *


もともと僕は根っから自分自身に対して自信がなく、やることなすこと生きていくこと何においても覚束なさを感じてきた人間だ。
失敗すること、否定されること、嫌われること、いなくてもいい存在に成り下がること……どれをとっても恐怖でしかなく、存在の根拠は希薄だった。
未来を切り開く気力にも乏しかった。明日何をしていたいかを考えるのではなく、どうしたら明日したいことのある人間になれるかばかり考えていた。

彼女にはずいぶん迷惑をかけたと思う。僕はつねづね、愛されているという実感に飢えていた。自分が愛されるに足る根拠もわからなかったし、いつ見捨てられても何らおかしくないという気分が長らく抜けなかった。
わけのわからないわがままも、ずいぶん言ったと記憶している。聞き入れる気もないくせに愛してほしいとせがんだことで、どれだけ相手を困らせたか知れない。

どんなに気持ちを伝えたところで、相手に響かないなら壁に向かって喋りかけているのと同じだ。
「愛している」に何度となく「本当に?」と疑義を突きつけた僕。
壁と付き合った覚えはないと片頬をはたかれても、おかしくなかったと今なら思う。

しかし、それでも彼女は懲りずに僕と向き合いつづけてくれた。やめずに気持ちを伝えてくれた。
僕が彼女を見失いそうになるたびに、何度でも「ここにいるよ」と教えてくれた。そのことは、人生に対する僕の身構えを決定的に変えたように思う。

2年近くにのぼる時間をかけて、彼女の声はしだいに僕の耳に届くようになった。
僕は理由がなくとも人は人を好きになるものだということをようやく納得し、人が存在し生きていくことに理由などいらないのだと知った。

笑われようと嫌われようと、失敗しようと量産型に終わろうと、人は自分を捨てて生きることはできない。
けれども、そんな自分を許し受け入れることさえできれば、人は笑われたり嫌われたりしながら、前を向いて生きていける。
僕は自分を受け入れて、自分なりの人生を生きていく決心を固めたのである。
そしてそれは、彼女が恋から始まった関係の中で、つねに隣に立って手を貸しつづけてくれたからに他ならない。

それを愛と呼ぶべきかどうかは、僕には半ばどうでもいいことだ。
でも、恋から始まったプロセスは、僕の人生にとってかけがえのない何かをもたらしてくれた。そのことだけは絶対に確かだ。
恋と愛は別モノかもしれないし、地続きの一つかもしれない。しかしそんなことはどうでもいい。愛だか何だかわからないが、何かをもたらす恋もきっとある。
徒花に終わるだけがすべてではない。

言うまでもなく、これはたった28年間しか生きていない青二才の暫定的な結論にすぎない。
それでも、裏切れない信念であるという意味で、この結論は一つの真実だ。
解釈は読む人の数だけあるだろう。少しでも考えの足しになれば幸いに思う。

おわりに

もはや付け足すことは何もない。この記事を書き上げるのに、僕は今までにないくらい頭をひねり、言葉を絞り、ベッドの上でのたうち回った。それくらい難しいテーマだった。かけた時間も、これまでに書いたどの記事よりも長い。

それでも、書き上げた今となっては、向き合って損はなかったなとしみじみ思う。向き合いがたく言葉にしづらいテーマだったからこそ、文章にする過程でいろんなことに気づけたように思う。

恋愛論は客観性をもちづらい。かといって最低限の客観性がなければ、人に読ませるに値する記事にはならない。
きわめて主観的な感情の問題をどれだけ客観性のある「読める」文章に落とし込めるか。最も苦労したのはそこだった。
自身の遍歴を披露するこっぱずかしさなど、それに比べれば屁でもなかったような気がする。

「恋と愛とは違うものか」、きっと一生わかりっこないテーマだろう。
ただ、わかりっこないものと付き合うのが人生、というところもある。
その側面に気づいて受け入れられるかどうかが人生を楽しめるかどうかの分かれ道かもしれないよ、ということだけ最後に述べて、ひとまずこの記事は締めくくりたいと思う。


    *


引き続き、「宿題」を募集しています。


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