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「問いの精緻化」という技術:上手に悩むために

問いは精緻化されなくてはならない

先日、こんな記事を書きました。

この記事は、ある読者の方からいただいた相談に対する回答として書いたものです。
ご覧いただけるとわかるように、僕はこの記事の前半部分において、相談をくださった方にいくつか逆質問を行い、問いそのものをブラッシュアップするという試みをしました。

この「問いの精緻化」という作業は、相談事に限らず、ある問題に対する回答を出すあらゆるプロセスにおいてとても重要なものです。
たとえば大学などでは研究の第一歩として「仮説の立て方」を学びますが、これもまさに問いの精緻化にほかなりません。
また、昨今「デザイン思考」なんて言葉も流行っていますが、蓋を開ければ何ということはない、「デザイン思考」とはまさしく「問いの精緻化を重視する構え」の言い換えです。

しかし、問いを精緻化していくうえでの基本的な心構えをきちんと押さえている人は、意外とまれなように思います。

議論のためにする議論を繰り返したり、いつまでも同じことで悩んだりするのは、問いを精緻化しないまま回答「らしきもの」を出して満足してしまうからであり、またその解が実効的な解決に結びついていないからにほかなりません。
モヤモヤ感を一刻も早く払拭したい、さっさと疑問を解消してすっきりしたい、という焦りはよく理解できるものの、先走って問題のブラッシュアップをおろそかにしてしまうと、結局遠回りをすることになります。

アカデミックな世界には「いい仮説を立てれば自ずといい研究に結びつく」といった考え方がありますが、それと同じく、問題設定をクリアにすることこそが、アイデアを出すうえでは最も大切なステップの一つなのです。

ということで今回は、「問いの精緻化」という作業において僕が大切だと思う心構えを、3つほどに分けてご紹介したいと思います。
いつまでも同じことで悩んで私バカみたい!なんて悩める乙女から、新商品のマーケティング戦略がてんで思い浮かばないどうしよう!と頭を抱える企業の宣伝部長さんまで、幅広い方々にご参考いただけるはずです。
心当たりの方は、どうぞお付き合いください。

(1) 問題の「主役」をはっきりさせる

困った状況、悩ましい状況があったとして、その中で「一番なんとかしなきゃいけない主体=主役」のは誰なのか。
問題をクリアにする上で、これをはっきりさせるのはきわめて重要です。

たとえば、「とある部下の遅刻グセがひどくて困っている」という問題があったとしましょう。
このとき、一も二もなく解決策を案出するフェーズへと突っ走り、「どんなふうに部下を教育するのがいいんだろう」「遅刻させないためにどんな方法があるだろう」といった問いを被せていってしまうのは、僕に言わせれば悪手でしかありません。

それより先に行うべきことは何か。
一つは、その部下の遅刻によって本当に困っているのは誰なのかをはっきりさせることです。

ひきつづき例に即して考えましょう。
たしかに、遅刻という行為は社会的に見て良くないことですし、部下その人の評判や仕事の質を落とす原因になってしまうかもしれません。
しかし、それによって最も実害を被っている(と、問題意識を持っているあなた自身が評価している)のは、いったい誰なのでしょうか。

部下の遅刻が生じさせる作業の遅れや雰囲気の悪さによって、不必要に進行が妨げられているプロジェクトのチームが、最大の被害者かもしれない。
あるいは、部下のマネジメントが行き届いていない不出来な中間管理職と見られるリスクを負うあなた自身が、一番不利益を受けているかもしれない。
いやそうではなく、非常識な振る舞いによって自分自身の将来をつぶしている部下自身が、最も損をしているのかもしれないーー。
こうした問題の広がりは、「部下の遅刻に困っている」という言葉の表面だけをなぞっていてはなかなか見えてきません。

あえてこの作業の重要性を強調するのは、それだけ「ある人に起因する問題を別の誰かに帰してしまう」という取り違えはざらにあることだからです。
感情や先入観、常識などに判断が歪められて、「この場合、悪いのは明らかに〇〇だ」といった安易な判断を下してしまうことは、けっして珍しいことではありません。
相手にも非がある問題なのに自分を責めすぎてしまったり、声を大にして争っている人たちに目が向きやすいばかりに一番傷ついている被害者が無視されてしまったり、そういう状況というのはいろんな場面で見られます。
問題の主役は誰なのかーーいろんな視点で考えてみると、問題を解きほぐすうえでのヒントがたくさん得られるでしょう。


(2) 言葉をときほぐす

僕のnoteをまめに読んでくださっている方(いつもありがとうございます)はおわかりかと思うのですが、僕はよく記事の冒頭付近において、「そもそも〇〇とは何だろうか」という自問自答を行います。
「また出たよ『そもそも』笑」とひそかにいじってる人とかいるんじゃないかと思いながらもやらずにいられないのですが、それだけこの問いかけは僕にとっては重要な作業なのです。

冒頭に掲げた「宿題」の記事は、「信頼」「他人を頼る」というテーマについて書いたものです。
この「信頼」や「頼る」という言葉にしてもそうですが、ある言葉やフレーズがつねに同じ含みをもつというのは実はきわめてまれことです。
厳密に定義されているはずの専門用語などでさえ、使用者によって微妙に意図するニュアンスが異なったりするものですから、まして僕たちがなんとなく使っている言葉が、あらゆる場面で同じ意味をあらわすなどと、安直に考えていいはずはありません。
「信頼」「頼る」と一言でまとめているけど、ここでいう「信頼」とはなんだろう? 他人に何か物事を一任することか、それとも「この人は絶対裏切らない」という確信をもつことなのか?
言葉の解釈が一つずれただけで、問題の中身も解決のための道筋も、まるっきり変わってくるものなのです。

ですから、問いを立てるために使われた言葉のニュアンスは、問いの解決に着手する前にきちんと再確認しておくことが重要です。
「ここで使った『○○』という言葉に、自分はどういう意味合いを込めたんだっけ?」と、ちょっと立ち止まって考える。
それだけで、ほとんどの問いの見通しはぐっとよくなります。

それでは逆に、言葉の意味合いをあいまいにしたままズルズルと考えてしまうとどうなるか。
色々な危険があるとは思いますが、とりわけ厄介なのが、本来割り切れるところの割り切りがつかなくなるという事態が生じることです。

たまたま例としてわかりやすいので、ここでもひきつづき「人を信頼する」という言葉を取り上げてみましょう。

ある人が「他人を信頼できない」という悩みを抱えていたとします。
このとき、そもそも「信頼」とはどういう意味かを無視してあれこれ考えてしまうと何が起きるでしょう。

僕が最大の問題だと考えるのは、言葉をあいまいなままにしたせいで、違ったレベルの問題を一緒くたに扱うハメになってしまいかねないということです。

繰り返しになりますが、「信頼する」という言葉は、「この人は裏切らない」という確信をもつことや、仕事を一任することなど、色んな信頼・信用のあり方をカバーしている言葉です。
そういう多義的な言葉を、問いの中でどういう意図で用いたのかをあいまいなままにしてしまうと、これらの色んな信頼・信用のあり方そのものの区別がうまくできなくなってしまうのです。

たとえば、「信頼できない相手に仕事を任せるべきではない」という意見がを誰かが述べたとします。
極端な話、「信頼」の語の定義が判然としない以上、その意味はいかようにも受け取ることが可能です。
それゆえ、「この意見に込められた真意は【心を許せる真の友でない限り、一切仕事を任せてはいけない】ということである」といったような、窮屈で偏った解釈も許されてしまいます(もちろんその解釈を心から信じる人もいるかもしれませんが)。

言葉の定義のあいまいさは、そのまま誤解や曲解を許す余地になるのです。
なるべく問題をクリアに考えるために、あいまいな言葉はあいまいなままにせず、意味を明確にすべきだと僕は考えます。
問いの解釈の違いがそのまま問題解決の方針の違いにつながってしまうというのは、厄介であるもののけっして珍しいことではありません。

(3) 「もう答えが出ている部分」は洗い出す

いよいよ最後の一つです。

相談の心得を語るうえでよく登場する原則の一つに、「悩みを相談する人は『解決法』を求めているのではない、本当はすでに答えを受け入れるための後押しを求めているのだ」というものがあります。
本人はもうどうしたらいいかわかっているのだけれど、自分では決心がつけられないから相談して背中を押してもらおうとしているのだーー。
なるほど確かにそうだと思えるところがあります。

本当の意味で未解明の問題に答えを出すといった場合ならいざ知らず、僕たちの悩みなどというものはたいていの場合、既存のアイデアの組み合わせですっきりと整理できてしまうものです。
そして実際のところ、僕たち自身そのことに気づいていないわけではないのです。
何かを問うときに大事なのは、この「すでに知っている答え」の片鱗を見逃さず、それを容赦なく引きずり出すことだと僕は思います。

たとえばの話、あなたがあることに悩んでいるとすれば、そのとき一つだけ絶対に確かなことがあります。
それは、「あなたが現状に対してなにがしか否定的な感情を抱いている」ということです。
そう、悩みの構造や理由はどうあれ、あなたが悩み苦しんでいるという点は絶対に揺らがないのです。

この時点で、あなたが追求すべきゴールの一つはなかば自動的に、「現状がもたらす否定的な感情から解放されること」に決定します。
この指針が得られるだけで、検討すべき選択肢はかなり絞り込まれるのです。
悩みや問題の多くははっきりいって答えありきのものです。
まったく新しい答えを探すことにこだわらず、すでに見えている「絶対にここだけは譲れそうにない」ポイントを丁寧に拾い出していけば、問題を解決する糸口はかなり見えやすくなります。

ただし、この作業には注意すべき点もあります。それは、本来捨てるべきものに固執したりして、解決が遅れたりしてしまうことは避けなくてはならないということです。
時代遅れの慣習やその場の感情にこだわって判断が曇るのはまさしくこのパターンですが、なかなか自分では気づけないぶん回避するのも難しくなります。

とはいえ、最も疑いようのない部分をはっきりさせ、そこから逆算して問いの方向性を浮かび上がらせるという手法はやはり重要ですし、致命的な誤りを避けるうえで非常に役立ちます
たとえば、平等や公平の問題を考えるうえで、「人権の定義をどう捉えるかはさておき、すべての人の人権が担保されなくてはならないことだけは否定できない」との前提を据えておけば、人権を認められるべき者と認められるべきでない者の境界を設ける議論へと陥っていくことはほぼ確実に避けられるでしょう。
「これを問ううえで、ここだけは結論から外せない」というポイントを洗い出しておくことは、問うべき内容をクリアにするうえで大変役に立つのです。

問題解決の質は8割がた問題設定の時点で決まる、多分

以上、ここまで3点見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
何かを悩むにもそれなりに使える技術というのはある(と、僕は思っています)。そして、その技術をいかに駆使するかが、悩みの質を高め、今日より良い明日を実現できるか否かのカギになるのです。
「問題設定が8割」はぶっちゃけ適当なのであまりあてにしないほうが無難かと思いますが、そう言ってもいいくらいに問いの精緻化という作業は重要であると、僕自身は考えています。

これからもいろんなことについて書いていきたいですし、いろんな方々からお寄せいただいた「宿題」に答えさせていただきたいと心から思っています。
今日の記事で紹介してきた「問いの精緻化」の技法は、これからの僕の取り組みにもきっと役立ちつづけるだろうし、文章を書くなかでますます磨かれていくだろうと確信しています。

やや硬いテイストの文章でしたが、最後までお付き合いくださりありがとうございました。
それでは、今日はこのへんで!

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