ちひろ

二十二歳。アメリカの片田舎での生活の断片。

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二十二歳。アメリカの片田舎での生活の断片。

最近の記事

深き淵の底からのオープンレター

「De Profundis」 日本語にすると 『深き淵の底から』 詩篇130からの一節で、これはさらに、こう続く。 『深き淵の底から、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください.嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。』 旧約聖書の中では、とりわけ好きな読み物に入るんですが、なんだか最近この一節について考えている。そして、この仰々しい経典の言葉も私たちからそう遠い存在ではないのかもしれない、としばしば物思いに耽りながら夜の街を歩く。   私がまだ退屈や惰性

    • 私に吐き気を催させる事柄、その総和と研究

       2024年ももうすでに20%が過ぎ去ったと頭の中で勘定しては、先日シャワーを浴びながら勝手に一人で戦慄していました。時間の流れが早い。どこを切り取ってもイマイチ冴えない習慣と、なかなか断ち切れない惰性に飲み込まれるようにして、冬の終わりは排水溝へと流れていった。初霜、初雪、霰、雹、あの夜の雪も、あの家のつららも、一度溶けてしまったら、どれだけ思い出そうとしても、とりとめのない水の流れる音だけがそこに響く。自分は、一体何をしているんだ。因みにそこのあなたもです。  さて、こ

      • 雑記 今年の終わり編

        「みんなで楽しく読んでもらえる、ほのぼのした文章を書いていきたいな。」なんて腑抜けたこと口走るようになったのは今年になってのことでした。ぬるい。生き方がぬるい。社会に対する感性と態度がぬるい。羽のついた豚みたいにあちこち駆け回っては、炭酸の抜けた常温のサイダーで喉を潤す。そんな完全でも清浄でもない日々の生活の連続の中に、何か新鮮なまま保ち続ける価値のある光彩、あの無言のまま列をなして窓の外を通り過ぎてゆく暖かい光、を見つけられるのだろうか。 答えはNoです。Noでした。本当

        • Adagio 1

          I like the word “Adagio”, denoting that the passage ought to be played rather slowly, leisurely, and gracefully. If my life were a music, I have always hoped it would be “adagio molto cantabile e dolce." Anyway, here are some adagios, or

        深き淵の底からのオープンレター

          勝手に和訳シリーズ②ランボー

           私が文学者の卵として最も影響を受け、今なお愛してやまない異端の詩人、アルチュール・ランボー(1854-1891)がわずか18歳にして書いた後期韻文詩から特に好きなもの。ランボーは16歳から20歳になるまでの間に仏文学だけでなく、世界中の詩の伝統をひっくり返した後、残りの生涯で二度と筆を取らなかった奇才です。私が古代ギリシャから近世フランス文学にいたる文学史を研究することに決めたのも、ひとえに彼のおかげ?です。 一文目に現れる« retrouver »という動詞は、「無くし

          勝手に和訳シリーズ②ランボー

          勝手に和訳シリーズ1 『黄昏のなかに』

          ドイツ屈指の抒情詩人アイヒェンドルフの作品。 1948年に最晩年のR•シュトラウスによって、「4つの最後の歌」中でオーケストラ伴奏付きで歌曲化された。長い激動の人生を噛み締めるような静謐さ、憧れに満ちた哀しげな旋律、そして何よりも、淡い回想に浸りながら喜びも苦しみもその全てを受け入れて、すぐそこに迫り来る自らの死を、後ずさりせずに見つめ続ける彼の魂の強さが浮かび上がる。  原文では四行連のうちにababと見事な韻律が通っています。 以下原文ドイツ語に続き、和訳掲載。 «

          勝手に和訳シリーズ1 『黄昏のなかに』

          汽車に乗ること。

                   第一章 「出発」 何かの本で読んだ「アメリカとは、野蛮から文明を経ずに退廃へと移行した国だ。」という一節を、私は折に触れて思い出す。しかし、その文言に血を通わせ、それが具体的に何を意味するのかを確信を持って説教するには、私が目にしてきた世界はあまりにも窮屈すぎる。   その代わりに、私は今までに訪れた先々のあらゆる街角で見聞きした、その不注意さゆえの粒の細かさと夥しい数量を持って文字に起こされることから逃れようとする、あの限りなく小さな風景や小話の集合の中

          汽車に乗ること。

          カマキリと鴨について(抜粋と英語から翻訳)

          土曜日の夜は、おそろしいほど静まり返っていて、耳をそう澄まさなくとも、庭を湿らすスプリンクラーの涼しそうな音が聞こえてくる。三日月の絹のような光が窓から差し込んでくる。考えることなど、フランス語の文法や、銀行の書類のことなどひどくつまらないものしか浮かんでこない。しばらく談話室の暖炉のそばの小さなソファーで、午後に図書館から借りて来たレイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」を読んでいたが、ちょうど面白い展開が開けそうなところで飽きが来てしまった。三発の銃弾を打ち込まれ、仰

          カマキリと鴨について(抜粋と英語から翻訳)

          雑念1

             まともな人間であるには、人はそれなりに孤独でなくてはいけない。  自己と徹底的に向き合い、その反省をすること。向き合うことから逃げ、振り切れない怠惰の中から星たちを憧憬すること。 他人がその辺をうろうろしてたんじゃこういう事はできないのだと知覚している。群れる事でもはや「向き合うことから逃げている」という感覚すら忘れている。   私の敬愛する詩人、中原中也。なんて醜く生き、美しく散っていった男だろう。中学時代、国語の資料集の端っこにその作品を認めてから、一気に彼

          小さなノート1

          個人的に気に入った一説を書き留めておく試み。その1。 Salman Rushdie, "Imaginary Homelands" より "There's a beautiful image in Saul Bellow's latest novel, The Dean's December. The central character, the Dean, Corde, hears a dog barking wildly somewhere. He imagines t

          小さなノート1

          鎌倉

          先日、鎌倉の方へ下ってきた。これといって目的も無かったのだが、ふと電車に乗ってどこか遠くへ行きたくなる。平日の車内はがらんどうで、吊り下がった週刊誌の広告がエアコンの風に静かに揺れている。前に訪れた時もこんなぐずったような灰色の天気であったかと回想しつつ、持ってきた本を読み始める。ジャック・ケルアックの「路上」。時は1950年代半ば、ベトナム反戦運動の高まりとともに新大陸の若者たちをヒッピー文化一色に染め上げ、今なお青春のビートニクバイブルとして引き継がれているこの名作。照り