雑念1

 

 まともな人間であるには、人はそれなりに孤独でなくてはいけない。

 自己と徹底的に向き合い、その反省をすること。向き合うことから逃げ、振り切れない怠惰の中から星たちを憧憬すること。

他人がその辺をうろうろしてたんじゃこういう事はできないのだと知覚している。群れる事でもはや「向き合うことから逃げている」という感覚すら忘れている。

  私の敬愛する詩人、中原中也。なんて醜く生き、美しく散っていった男だろう。中学時代、国語の資料集の端っこにその作品を認めてから、一気に彼の廃退的で、根底に悲しみを秘めた淡く不安定な世界観に引き込まれた。あれ以来、ランボーやホーフマンスタールなど名だたる象徴派をそれなりに読み漁ったがどうも詩の本質への道は遠く見えてゆくばかり。

それでもなんとか詩を作ることは、ただ響きのよい言葉を羅列するだけではないのだと理解する。

私はそれを、自己を確立する道具だと言いたい。何が私のもので、何がそうでないのか。ガラクタで溢れた私自身をどう整理すればよいのか。

例えば、私の「怠惰」は唯一私のものだと宣言できる。

己には美の本質を理解する才能があるのだと無遠慮に信じて憚らない、脆くて無根拠な自尊心と、その天賦の才がどれほどのものなのかと向き合うことからひたすらに逃げ続ける弱さを、私は私のものとして高らかに宣言するのです。私は客体を、白紙の上に言葉を用いて描き続けることで、自らの内なる毒と弱さ、醜さ、その全てと堂々と対峙をし、ほんのすぐそこにある世界の輝かしく儚い美と主体の距離、まるで色彩の淡い青に立迷う白雲にふと手を伸ばしてみるように、捉えきれないものを受け入れ、真っ暗な絶望と、孤独と自己愛に満ちた高揚感の間をなんども行ったり来たりする、そんな哀れな日々を愛してやまないのだ。

苦悶と狂気に素手で触れなければ、自ら光を出すような作品は作れない。肉体と精神を完全に自己認識する事。痛みと苦悩。

黄金色のまん丸な月と、遠く小さく瞬く星だったら、僕はずっと後者に憧れる。輝いて見えるものはこの世界にたくさんあるけれど、独りでずっと命尽きるまで光ってゆけるのは、一体どれだけあるだろう。

 ランボーは詩人になるには、"理性的な狂乱化”が必要だといった。

「お前が知ろうとするものは存在し、お前が知ろうとしないものは存在しない。お前はまだお前自身を知らない。」   ピエル・パゾリーニ

  私はこれからもっともっと勉強しなければならない。


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