カマキリと鴨について(抜粋と英語から翻訳)

 土曜日の夜は、おそろしいほど静まり返っていて、耳をそう澄まさなくとも、庭を湿らすスプリンクラーの涼しそうな音が聞こえてくる。三日月の絹のような光が窓から差し込んでくる。考えることなど、フランス語の文法や、銀行の書類のことなどひどくつまらないものしか浮かんでこない。しばらく談話室の暖炉のそばの小さなソファーで、午後に図書館から借りて来たレイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」を読んでいたが、ちょうど面白い展開が開けそうなところで飽きが来てしまった。三発の銃弾を打ち込まれ、仰向けに寝転がる死体と、椅子に腰掛けたまま、大きなイアリング以外に何も身につけていない裸の少女。シュールな光景だ。仕方がないので、本を抱えたまま玄関から外の闇へと歩いていった。灯りの落ちた食堂の裏には、川が走っている。コンクリートで両岸を舗装された、それなりに細く激しい人工の流れだ。夜空には幾つか星が輝いていた。少し先にある街の方を見やると、喧騒のネオンが漏れ出していて、上にかかる空をほんのりと白い紫色に染めたりしている。夜を形容する色は、黒じゃないんだ、紫なのだといつにも増して思う。名の知れぬ針葉木の枝垂れた葉が、気だるい不気味さに華を添える。グリム童話の魔女の家は、きっとこんな森の中にあっただろう。
 心地よい夜風に打たれながら、記念堂の方まで歩いていると小さなカマキリを足元に認めた。アスファルトのど真ん中にいて、周りには何もない。その細い体躯にはほとんど見合わぬような鎌をもたげて、私の靴の前でじっと固まっていた。その若草色の生き物は、しばらくそうして最大級の警戒を保持したまま、ピクリとも動きそうになかった。普段は虫など親の仇のように嫌っているが、不思議と嫌悪感は湧き上がってこなかった。少し頭を下げて、彼をじっとみてみる。そのギョロッとした目はどこを見つめているのか分からない。薄い羽の下に、幾つかの細い足が突き出ていた。
 この瞬間に彼は、闇にそびえる素顔も知らぬ巨大な敵の存在に、己が持てるだけの精一杯の武器を掲げてみたものの、ずっと静止しているより他はないのである。この小さな生き物に対する憐れみに似た愛着が、一瞬私の心をよぎった。道端の草むらへとスッと翔び去るわけにもいかず、私の革靴にその鎌を振り上げるわけにもいかない、そんな彼の心情を思った。
 宿命というものは必ず、頭蓋骨の背後より侵入するなんて言説を何かしらの評論で目にしたが、これに関して私は少し違うと思いたい。折に触れて考えるに、それは夜の闇の向こう側から歩いてやってくる。少し冷える宵の風が、西から東へと流れ、木々を揺さぶる様を目で追っている束の間に、すでに我々の正面に現れている。どこから来たのか知れぬが、もう既に眼前に立ち塞がっている。その屈強な足元しか我々の目は捉えることができない。それが私たちを踏みつけ、ペチャンコにし、アスファルトの染みの一つとなり、吐き捨てられたガムと同じ道を辿るのか、あるいはただ音もなく私たちの頭上を通り過ぎてゆくのか、我々には悪い方の結末を生々しく想像し、恐れと後悔の念を内に硬直しながら、最大限にタフに構えていることしかできないのではないか。生きることは、そんな恐ろしい瞬間の連続なのではないかと考えたりした。私たちは、どうしようもならない事柄については、タフに構えていかねばならないのだ。
  しばらく窓辺から漏れる明かりにそって、芝生の方へ歩いてゆき、ぐるりとキャンパスを回って帰路に着いた。寮の裏手の橋を渡りながら、股の下を走る流れに、一羽の鴨が頭を突っ込んでいるのをみた。少し痩せ気味の焦げ茶色の鴨である。橋下の灯台の光が届き、三等席から眺める舞台の主役のようにぼんやりと浮かび上がって見える。水が下流へと急ぐのに、水面下で足を動かしながら必死に逆らって小魚やらへんぴな虫やらを探っている。その一生懸命な様は、愛らしくもあったが、滑稽を通り越して、私は少し悲しくなったりした。また戻って来て橋を反対から渡っている最中にも、彼はずっとそうしていた。顔を沈めては、しばらくすると呼吸を整えるように橋の下の暗いところを見つめ、すぐに再び同じことのを繰り返す。すぐそばの穏やかな渓流には、もっといい獲物がうんといるのにもかかわらず。
 言葉が通じるのなら、伝えてやりたい。残念だが、水中の耳にその声は届かない。その橋の上を、賑やかな連中がおしゃべりしながら渡ってゆく。大半は鴨なんかに目もくれないが、稀に彼を指差して、楽しそうに話の引き合いに出すものもいる。が、鳥が水面から顔を上げる頃には、そんな薄っぺらい興味など、既に風とともにどこかに流れてしまっている。これもまた私たちの大半が抱え込む人生と似たようなものである。努力の虚しさの根幹もそう違わない。そんな風なことを思い、なんだか嫌になってしまって、帰ってそのまま床に入った。朝になればまた乾ききる大地に、夜通し水をまくような宿命もある。スプリンクラーが庭で回り続ける音が響いてくる。私は一匹のカマキリと一羽の鴨ことを考えながら眠った。そんな静かな夜更けだった。

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  夕暮れの空

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