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汽車に乗ること。

         第一章 「出発」

 何かの本で読んだ「アメリカとは、野蛮から文明を経ずに退廃へと移行した国だ。」という一節を、私は折に触れて思い出す。しかし、その文言に血を通わせ、それが具体的に何を意味するのかを確信を持って説教するには、私が目にしてきた世界はあまりにも窮屈すぎる。

  その代わりに、私は今までに訪れた先々のあらゆる街角で見聞きした、その不注意さゆえの粒の細かさと夥しい数量を持って文字に起こされることから逃れようとする、あの限りなく小さな風景や小話の集合の中に、殆どしかめ面をしながら手を突っ込み、何かを意味のある組み合わせを選び出してここに提示しようと思う。この感傷的なまでに後ろ向きな作業は、何の脈絡もなさそうな時に限って、私のこめかみに近いところを強く叩き始める。本来なら最も丁寧な努力をあてがえられなければならない思考の列に、無理やり割り込んでまでして主張をするあの警告的な色みを帯びた使命感に、私はこうしてまた従わねばならない。この突発的で派手な衝動は、時と場所を選ばず、そして、その瞬間にわたしの中に浸りきっている感情とはほとんど無関係にやってくる。
 ある時は柔らかい春の雨が降るアスファルトの上で。ある時は地下鉄の窓の向こうに浮かび上がる色さまざまの広告を眺めながら。そしてある時は、かつてある地点からもう一つの場所にふらふらと流されるように旅をすることが、私をこれ以上ないほどに熱狂に落とし込んだあの遠い時代のことを思い出しながら。
 
 
 あの日のシアトルもいつものように暗く冷たい雨が降っていて、私は人気もまばらな空港から乗った数量編成のモノレールの中で、道をゆく自転車の数をあてもなく数えていた。重たい荷物を抱えながら空港の薄暗い駐車場をしばらく歩いてゆくと、閑散としたモノレール乗り場へと辿り着く。地上3階建ての小高いところに立つホームには、雨つぶが容赦無く吹き込んでいて、あちこちに散らばる色とりどりのスーツケースに憂鬱な水滴を残していった。厚い雲へと消えてゆく飛行機を眺めながら、私は薄いコートの中で小さく身震いをした。


夜遅くのシアトル空港

 朝九時の街はずれは寝ぼけ眼で、蛍光色の小型車と像のような色形をしたトラックが市街地へと慌ただしく走って行った。そして、無人運転のモノレールは規則正しくやってくる。蛍光灯で明るく照らされた車内はお世辞にも清潔とは言い難いが、この新大陸の独特の衛生基準に照らし合わせれば、およそ文句は言えないほどには手入れされていた。出勤の人の波も収まりつつあるこの昼下がりのしじまに、人々はそれぞれ色とりどりの鞄や水筒、明らかに市街地を走るには似つかわしくない自転車などを持ち込んで、およそ皆他人と目を合わせることも、当たり障りのない会話をすることもなしに、手元のスマートフォンをじっと見つめていた。穏やかな銀色をしたピュージェット湾から青灰色の丘陵に向かって虫食い状に広がる市街地を、十二月の湿気を纏った重そうな広葉樹の林が縫うようにして装飾するのが見える。 

私は一つの大きなスーツケースを両足で挟むようにして、壁に寄りかかっていた。異邦人がこの国にやってきて初めに学ぶことの一つは、ほとんどの公共交通機関においては座っているより立っている方がはるかに安全であるということだった。この法則は、大都市を切り裂くようにして走る電車の中でも、田舎の病院と町役場とを結ぶ小さなバスの中でも等しく適用された。”Dodgy”である光景に出くわさない方が珍しい。運さえ良ければ、ちょっと離れた立ち見席からの方がはるかによく見える、奇妙なある種の謝肉祭の模様さえ呈し始める。そして、あらゆるものからすぐに距離を取れる体勢のありがたみを、各個人は各々の速さで学んでゆく。
 
 たった三ドルの乗車券。私のような貧乏学生にとって、「公共」名のつく全ての施設はありがたいものであるが、同時にそれはこの国で最も卑下されている肩書きの一つでもある。そして、それを帰納法的に指摘するのは、少し周りを見渡しさえすれば、いとも容易いことのように思われる。ある存在が進行方向とは反対側の車内の壁に寄りかかっていた。紺色の傘を二つ、それぞれ通路と窓側の方に向けて広げ、その真ん中には髭面の若い男が座っている。半ば座ることを強いられていたという方が正確かもしれない。彼は視覚よりも聴覚に訴えかけてきた。手元の画面を見つめる他の乗客も間違いなく気がついていただろう。なぜなら、薬物の熱っぽい快楽にうなされた、どこまでも苦しげで哀れみを抱かずにはいられない彼の声は、波のようにして車両全体に響いてくるのだったから。皆、意地でも目を合わせまいと顔すらそちらに向けなかった。
 およそ六分間隔で車体が駅に止まり、扉が開くたびに、「俺はここに住むんだぜ。」とほとんど絞り出すようにして繰り返した。私は、擦り切れた彼の薄いパーカーと、泥一つついていない彼のスニーカーの対比を思った。
 
 そんな私の正面には、アジア系らしい顔立ちをした中年の女性が座っていた。あちらこちらを薄笑いを浮かべながら見渡し、手当たり次第乗客に声をかけては、その甲高い声でケラケラと笑った。周りも苦笑いを浮かべながら、適当に相槌を打っているか、忙しそうなふりをしていた。彼女は何か金色のラベルが貼ってあるアルミ缶を震える手の中に握りしめて、まだ日も上りきらない時間なのに不自然なまでに顔が赤かった。やがて、車両が高架から路面を走るようになった頃、彼女は
「お前は、どこ行くんだ。」とぶっきらぼうな口調で、少し離れたところに立つ私にも話しかけてきた。
「街の大きな駅までです。」
「一人で?まだ若いのに?」
「ええ。」
「ああ、そうなのかい。いいね。いいね。うん。」
それっきり俯いてしまった。
 私はそれからヘッドホンをつけて、ほとんど耽けるようにして窓の外を眺めていたが、何か騒ぎが車内を沸かしていると気が付いた時には、目的地まであと二駅のところだった。紺色のキャップをかぶった背の高い白人の男が鋭く声を荒げた。女の方は、まだ薄ら笑いを浮かべて何かを言い返している。私はヘッドホンを外して二人のやりとりに注意深く耳を傾けた。どうやら彼女は普段通り接する乗客を間違えたらしかった。男が立ち上がって、女の短い髪に掴みかかった。女はその手を解こうとジダバタしていて、電車がホームへと滑り込むために速度を落とし始めると、二人揃ってバランスを崩して床に崩れ込んだ。私を含めた周囲の男性たちが仲裁に入る間も無く、電車の扉が開く。緊急ベルが短くなって、乗り込んできた数人の黄色いベストの職員に二人して仲良く引きづり降ろされていった。ここまでほんの十秒ともかからなかった。
 再び揺れ始めた床の上で、私はしばらく呆気に取られていた。誰かが彼女のことを通報していたのであろうか。今目撃したいざこざのあまりに人間臭い印象よりも、私は非人間的なまでの精密さを持ってそれが処理されることに、異様な不気味さを覚えずにはいられなかった。だが、そうしてまた世界は静かになった。私は荷物をまとめてそこから離れた。


私は暗澹とした気分で駅を出て、雨のそぼ降る街を歩いていった。このみぞれのような不快な水分はいつかのロンドンの排水の匂いと重なる。悲痛な叫び声をあげて薄暗いビルの隙間を通り抜ける風も、これまた大都市の世紀末的なレチタティーヴォを修飾する。
 ロンドン、東京、ロサンジェルスといった東西のメトロポリタンに共通する、あの気怠げで、油断すれば思わず吐き気すら催す人間的な危うさ、土地のない人間たちと人間のいない土地の間で、あらゆる道に吐き廃られたガムと不可解な足取りで橋を渡る若者。駅の広場の前で横になる人間。眩しいまでに輝くネオンの広告。周りに高くそびえたビルが多ければ多いほど、最も先進的なはずの国で、乱雑と棚に並ぶ赤や黄の香辛料。あまりの暑さにぐったりとした角の丸い牛。異臭を放つ乳香。奇妙な形をした果実など、その旧世界のトルコ市の喧騒を想起させるようなちぐはぐな印象を一層強いものにする。ヨーロッパ文明と新世界の汚点、窮乏と乱脈とを折衷し、受け取ることよりも与えることに善の真実が眠っていると信じてきた新大陸の大国。それこそ社会の底に比較的良心的な価格で、ほとんど悪意のある気前の良さを持って与えられたものは、規制されることのない拳銃、酒、快楽物質であって、このアメリカという若い病人の青白い頬の内側において、私たち異邦人はそれらを養分にした菌の増殖を間近で眺めることになる。一度喉の内側に落ち込んでしまった言葉は、もう二度と帰ってはこない。

私は、雨と下水の匂いが混ざった冷たい風を受けながら足早に駅庁舎へと入っていった。キングストリート駅のイタリア趣味を押し出した新古典主義的な影響は、堀深く切り出された大理石のような印象の中に明確であった。赤っぽい木のベンチが平行にいくつか並んでいて、私は駅の待合室で、小さなサンドイッチを買った。
「どこまで行くんだい?」と訊いた。
私は「シカゴまで。」と言った。「随分と大きな荷物だね。」
黒い瞳は私の姿形をじっと眺めた。
「遠いよ。三日はかかる。」
「ええ、でも一番安かったものですから。」
私はシアトルからシカゴへと至る寝台列車に乗って、古い友人に会いに行くのであった。この北東部の、湿気と苔の緑に満ち溢れた領域の最も充溢した部分から、私は今新大陸において最も渇いた孤独な大地を横切って、これまた西洋文明における最も混乱した音と光に満ち溢れた都会へと向かおうとしていた。
この数千キロの旅は、言って見ればアメリカという国の奏でる変奏曲であり、都市で展開されたこの鈍重で、根本において影と不協和音とを孕んだ唯一つの短調の主題が、赤土の砂の上で、また、ロッキー山脈の柔らかい雪のきらめきに包まれながら、時には冗長で感傷的なアリアを、あるいは緊密で内省的なフーガを展開することを全身で予感していた。



列車

 その音楽に耳を傾けながら、少しだけこの国について考えてみる良い機会だとも思われた。都会と田舎、北と南、リベラルと保守、世俗と宗教。あらゆる二項対立に埋め尽くされている。そしてその醜いせめぎ合いを覗き見て、心底嫌な気分になるのは実に簡単なことで、これはネットで検索さえすれば湧くように出てくる。
アメリカというのは、決して暮らしやすい国ではない。マイノリティに寛容だという噂話も、私の目にしてきた世界では当てはまらないように思われる。あのアルコール中毒患者を取り巻くようにして座っていた乗客はみな手元の画面に視線を落とし、ときおり興味深そうにチラチラと横目で覗き見る他は、見ざる・聞かざるの鎧を脱ごうとはしなかった。しかし、あの女性こそがマイノリティではないのか。おそらく頼りになる家族も友人もそう多くないはずだ。そして、そういった人間をどう扱うかに、国家としての底が見てとれる。

面白いことに、そのどこかよそよそしい行動規範も東アジアのそれと対して変わりがない。例えば東武東上線や丸ノ内線の車内で彼女が同じように座っていたとしても、周囲はほとんど似たような態度をとったであろう。もし、誰もそこから早足で離れていかなければの話であるが。

大学のキャンパス



このぎこちないよそよそしさと他人に対する屈折した距離感は、大学においても顕著である。およそ都市部の大半の若者は、白人志向の均一化された文化を消費している。そして、肌の色や出自に関係なく、ある程度同じような音楽を、同じような衣装を身にまとい、同じような考え方をする。あたかもそれが多様性の最も豊富な要素を含んでいて、粗野で陰湿な空気に浸った田舎の性質から自分をはっきりと区別してくれる何かをもたらしてくれるとでもいうように。
 そういった集団が、各地から大学という閉鎖的な空間の中に流れ込んでくる。入り乱れた彼らの文化は、連鎖的な化学反応を経て質において変化するのではなく、ただ結合しあい、量においてカサ増しされる。インディやヒップホップを好み、週末には酒の力を借りて踊り明かし、火曜の夕方ごろになって急に思い出したように社会問題について語り始める。直線と調性、そして淡い色合いよりも、曲線と原色と不協和音から構成される芸術を好む。幸運なことに、そこに溶け込みたいと願うものには、こういった従うべき独自のルールがある。大半の個性とは、ちょうど惑星が太陽からの距離によって区別されるように、その規範にどれだけ接近するかによって定義されていて、それはちょっとキャンパスを見渡しさえすればすぐに見て取れる。それは柄の長いギターの持ち方に、周りの目にカジュアルに映るように注意深く計算された衣服の組み合わせに、そして、群れの中にいるときにだけ見せるあの最もみずみずしい笑顔の中に、誇らしげに隠されている。

 こういった理由で、マイノリティが暮らしやすいという言説も、決して間違いではないが、誇張され伝わっているとため息をつかずにはいられない。この見かけの生きやすさは、社会の大半を占める側がとりわけ寛容だからではなく、ただ端っこに追いやられた「傾奇者」たちが互いに口をききやすいからというだけの話である。変人は裏できちんと変人として扱われているし、陰湿な噂だって絶えることがない。私は、西海岸のリベラルアーツカレッジには珍しく、きちんと襟のある服を着て、英国訛りで喋り、スケートボードを乗り回すより、道端のツツジや豆の花に見入りながら呑気に歩くのが好んだ。そして、時に、人はそれを馬鹿にし、中には面と向かって「異国人だ。」と言うものもあった。最初の半年、私は社会の端っこで随分とこの無言の圧力に苦しめられた。そして、この自分に固有の習慣を何ヶ月もの時間をかけて変えねばならない焦りを心から綺麗さっぱり捨て去り、他人の目線に挑発的な目線を持って応えることを止めるのには、いくつかの効果的な幻滅を必要とした。彼らにありのままを受け入れてもらおうなどという夢想は道半ばで諦めてしまった。

 そんな私には、他人を求めるか、他人を拒むか、そのどちらかしか選べなかっただろうか?いいや、そんなことはなかった。私は葛藤の末に、内では彼らの大半に幻滅しながらも、表面上では仮面を握りしめ、友愛を標榜することを選んだ。そして、この仮面こそが私の個性に他ならないとの結論を下した。私にしか選べない、そして、決して多くはないけれど、私にしか被れない仮面の存在をみた。それはジッドを読み、モーツァルトに感嘆する自分のことではない。むしろ、そこからどこまで離れた性格を、すなわち自分らしくない自分を、生き生きと愉快に演じられるかである。結局、真に「個性が豊かな」人間はあらゆる色と形の仮面を使い分けることができ、お陰でその気になりさえすれば大半なは「いい奴だ」と認知される。そんな言葉に何の意味もないことを知りながら、これでとりあえず詮索されずやっと独りになれる、と胸を撫で下ろす。一方、救いようのないほど没個性な人間は自分以外の何にもなれない。そもそも自分の顔すらないからだ。
そして、そんな「ユニークな」アメリカ人と交流する中で、意外なことに、やがて最も深い関係を持つ友人をも何人か得た。彼らの口から語られた、何か生きることについて意味ありげな話すら耳にした。そして、そこに至るまでの精神的な旅は、私が人生で成し遂げた最も実践的な試みの一つであったのだった。
 
 そして、あの日、私は仮面を外し、一人で旅をする方を選んだ。私は荷物を預けて、二階の席に座った。雨は降り止んだ。太陽はほとんど沈みかけていて、西の方、もっとも、熟れすぎた柑橘類のような色味を帯びた重苦しい雲の切れ間なしに方角を知る術などないのであったが、電車が出るころには視界には何も残らなかった。

 やがて、高い金管の咆哮とともに電車が止まった。チケットを係に見せると、男は何も言わずに二階の方を指差した。雨は降り止んでいた。太陽はほとんど沈みかけていて、西方の大気には、もっとも、熟れすぎた柑橘類のような色味を帯びた重苦しい雲の切れ間なしに方角を知る術などないのであったが、電車のエンジンがかかる頃には夜のほかには何も残らなかった。
私に割り当てられたのは車両の前方の席で、周囲には一列間隔に人が座っていた。私は鞄を隣に置いて、サンドイッチを食べた。ペットボトルの水はいつもより甘く感じられた。


 昔から私にとって旅とはこういうものだったし、おそらくそのような意味を持ち続ける限り私の青春はどこにもいかないであろうと思われる。旅とは、折に触れて思い出してはその体験をミメーシス(皮肉にも詩人追放論を唱えたプラトン的な意味で。)し、そこに私という一個人のイデアの影を読み取ろうとする行為なのだった。そして、注意深くなされる粗探しと反省。すなわち、追憶を通した自己批判という贅沢な行為そのものであった。そして、今の私にはそれが必要なのだと思う。ようやく重い腰を上げ、それ自身のために何かの意味を探し始めた記憶の集合、やっと額縁の方へためらいがちな一歩を踏み出した曲線的で緊張を孕んだ彼らのコントラポストを、これから旅のおぼろげな詳細とともに描写していこうと思う。学生としてここに何かを書き連ねるのも、あとこの三部作で終わりだと思われる。そして、私は決別を夢見る。死んだものに最も近い場所は決して高い山の上ではなく、むしろ蔦の絡まった薄暗い墓場なのであるから、まだ温かみを失わない過去の亡骸の前に、私は至る所から特権的に、そして限りなく恣意的に摘み取った美しい花々を添えようと思う。

 眠りにつこうとしているシアトルの港町に、ほとんど太陽の記憶はなかった。窓の外には柔らかい砂漠に生きる硬い植物のように、濃紺色のビル群の輪郭は向こうの方で互いを温めあっていた。私は柔らかい靴の中で足が心地よく痺れてゆくのを感じた。電車はゆっくりと動き出した。並行して走る街道には、霧のかかったような車のヘッドライトがぼんやりと見えた。機体の揺れる付点リズムと警笛からなる旅の序奏が、微かな湿気と油の匂いの中で、小さく延々と続いていた。暗くなった車内の光の下で、誰も何も喋らなかった。私は、吐息の霜と都市のおぼろげな光がかつてないほどの憂いの靄の向こうから、こちらに向かって弱々しく手を振るのを眺めているだけだった。軽く窓にもたれかかった頭は、小刻みに心地よく揺れる。その揺れだけが私が未だ前に進んでいる証拠であった。光が後方へ消えてゆくと、やがてガラスはただの薄く冷たい鉱石へと変わった。カーテンを閉めると、「次の停車駅は、スポケーン。」と車掌は言った。私は眠った。


空港までの道。


         第二章 「停滞」


不思議なものだった。その日の早朝に目覚めた時には、あたり一面には石鹸色の柔らかい雪が積もっていた。空に浮かぶ雲は微かな紫色を帯びて、白く染まった街路樹の松の葉に砂糖のような甘い情感を与え、朝陽の下の石鹸色の柔らかい雪は、最もいとけない白に溺れていた。朝七時ごろ、ホワイトフィッシュという山間の小さな駅に汽車は止まる。駅舎は、オーストリアの山間部に居るような錯覚さえ抱かせる可愛らしい装飾の建物だった。寝ぼけ眼のプラットホームには、帽子をかぶったいくつかの顔がぼんやりと浮かんでいる。大きな荷物をそれぞれ駅員に手渡すと、皆冷たそうな手をこすりながら乗り込んできた。向こうの方に見える山脈の鉱石色の尾根を、薄明るい光が切り取り始めていた。わずか10分ほどのことで、再び車体は滑るように動き出す。時計を確認するとまだ、7時にもなっていない。私はカーテンを閉め、ヘッドフォンをつけ、微睡みへと帰っていった。
モーツァルトのピアノ協奏曲27番の第一楽章で私は二度目の朝日を受け入れた。布地の隙間から漏れる光にただならぬ神々しさを感じ取り、私はカーテンを大きく開けた。それは私が目にした中で最も美しい光景であった。雪と針葉樹。そして悩みひとつ見えない伸びやかな白雲の顔立ち。柔らかそうな雪がプリズムのように淡い虹色を帯び、その震えるような大気の中で、青白い山脈と幸福な湖とが、列車が丘に沿って曲がるに連れて、後方へと少しずつ後ずさりながらその姿を表した。私は、しばらくその一枚の水彩画に見入っていた。穏やかな湖水はほとんど黒に近く、山の傾斜が掘り出す険しい表情と威厳さと対比で、より一層しなやかに、そして私たちの手の届かないあのnonchalantとな笑みを浮かべていた。


モンタナ


やがて耳元の音楽は第二楽章へと移る。セルが指揮する実にモーツァルトの晩年らしい静謐で透き通った音楽を背景に、カーソンは包み込むようなゆったりとしたテンポで弾いてゆく。あれは耳で聴く細雪だ。
その恍惚も決して長くは続かなかった。あらゆる喜びと同じように、それはやがて訪れる終わりの唐突さによって、回想に伴う自らの愛おしさを大きくする。連なる丘の上に敷かれた線路は、時折天に近づいては、湖面をなぶるように接近し、それらの美しさが時間とともに増してゆくほど、そこから締め出され、その中に混じり、戯れることさえ許されず、ただ硝子のこちら側から指をくわえて居ることしかできない私を、孤独と嫌悪感とが肩を組み、そっと足先から体内を駆け巡るようにして、どこにも逃げられない私を苛ますのだった。私はその行き場のない哀しみの中に思い出すのであった。電車というものが昔から苦手であったことを。
行く場所は決まって居る。通るべき場所と到着せねばならぬ時刻も正確に定められて居る。そこには個性も自由もない。彼に残された選択肢は、それに忠実に従うが、失敗するかのどちらだけ。勤勉な列車と怠惰な列車だけがあり、その中間は決して存在しない。およそこんな風な概念を持って、私は汽車を恐れ、そして案の定、どこまで記憶を遡っても、私はいつも怠惰な学生であったのだった。
およそ自我というものが内側に芽生えて以来、私は自らに巣食う虚無感を、反抗という手段で埋め合わせようとしていた。覆されるべき最初の体制は親であり、それがなくなると、教師たち、そして彼らにも相手にされなくなると、私はついぞ一人ぽっちになった。与えられた十年の年月と輝かしい機会の連続を無駄にしながら、風船を砂で膨らませるような人生を歩んできた。気が付いた時に出来上がったものは名前すらつかない異形の、限りなく人間に似た別の何かであった。そして今この瞬間も、そんなハリボテの身体を背負い、私は私の青春を二つの対極を往来するようにして過ごしている。東と西、富と貧困。嘘と真実。

 私は思い返すたびに、情けなくなるほど豪奢な自己のあり方を享受してきたと反省せずにはいられない。あらかじめ定められたものを信念ゆえに拒絶するのでもなく、かと云って、その定められた世界に同化しようと努める素ぶりさえも見せず、それでいて、上の方から落ちてくる危険や幸運のかけらを泥臭く拾い集めるわけでもない。私が何か憧憬を抱き続けていたものがもしも名前を持つに値するのならば、それはあたかも私がこの世界の一員をなしていないかのごとく、外側から目に映るすべてのものを判断し続けることなのだった。何事にも積極的には責任を負わず、そのくせ自らの物語を進めるためには大小あらゆる大きさの奇跡、(それもどこまでも他人任せで、矛盾だらけの法外な特権すら要求するもの)を必要とし、それでいて自らの立ち位置だけは特別なものように見せる魔法の靄。

 私は、その中に身を隠すようにして生きていた。まるで私の実際の輪郭と表情を他人に把握されることを心底恐れていたかのように。どれだけ記憶の底を掬っても、自分で勝ち取った成功などほとんど無かったように思われる瞬間がある。何かに情熱を傾け、私たちの頭上に常に吹き荒れる運命の気流に、勝利の旗も敗北の白旗もやりきったという満足感とともに振りかざしたことなど一度もなかったのだった。そして、アメリカという国はこの種の人間にも寛容だった。何もかもありのままで受け入れるリベラルな学風の大学は、私から「変わらねばならない」という切迫した緊張感まで奪っていった。


もう一つの「サンタフェ」



 そんな私に、唯一続いたのは、ラテン語やギリシャ語の文法であった。私が、大学への進学の際に大きく躓いた頃、(その詳細は後で書き留めるが)いつかヘッセも言ったように、私は故郷を精神の国に求めることに決めた。その決意は途中幾度か途切れ、私の視界から流され、小さくなったり、大きくなったりすることを繰り返しながらも、私の中に受け継がれている。
カーテンをしめ、頭上の読書灯をつけると、鞄から文法書を引っ張りだし、いくつかの動詞の活用を紙の上に書き出した。私はこの不定詞という概念が好きだ。それ自体では時間について何も語らず、ゆえに永遠の曖昧さを宿した一つの世界。この規則性が、まるで同じ音型を繰り返す子守唄のように、私の心をなだめ、静める。そして、頭の片隅ではぼんやりと反省の営みは続く。高校でも、そして大学における大半の科目でも、私は手を抜き、最低限の努力でそれなりの結果を出すことに取り憑かれていた。しかし、それがどういう風にして致命的な傷を私に負わせたのかは、また後で語ることにしよう。

やがて湖に背を向けながら電車は雪山を抜け、寒々しく口を開けた中西部へと下ってゆく。白雪は厚さを失い、やがて虫食いのように覗く地面は、かさぶたのような赤黒さを虫食いのように露呈していた。私は、思い出したように食事を求め、隣の車両へと移った。固いパンとハムとチーズとを買った。そして、あまり気持ち良い熟れ方をしていない苺もつまんだ。
 
 決して止むことのない不愉快な横揺れで長い午睡から目を覚ました時、電車はモンタナの西の果ての小さな炭鉱の町に背を向けていた。寝ぼけ眼でよく眺めると、採掘場は煙に満ちて、色の薄い空は暇そうな雲をまとっている。太陽は限りなく遠く、陽の光はまるで勝手に持ち上がろうとする地表を押し込めるかのように粗く降り注いだ。ときおり私の左手には、薄い雪化粧をまとった小麦畑の先に、カナダとの国境を走る刺々しい山脈が顔を覗かせる。赤茶色の枯れ草の海がどこまでも広がって、時たま忘れた頃に凍った河がやってきては、外界の冬の厳しさを思い出させた。遠景は、乾いた草木や掘っ立て小屋に遮られながらも、ただまっすぐなだけの道が斜辺を描くように、ねっとりとした午後の大地に広がっている。やがて、日は沈んでゆく。大気はだんだんと赤みを増し、細い糸のように波を描いた雲は紅色に染まる。闇がそろそろと迫ってくるのがわかる。いつかの夢で見た火星の砂ような世界。日本がいくつも入ってしまう広大な土地に、人影はまばらで、かろうじて調性を保つ半音階のように、色彩の変化もゆっくりとしたもので、十分前に見た景色と、いま目の前に広がるものとを結びつけるのは、それらが私に思い起こさせる感情の類似性だけだった。そうして、車輪は人間の世界へと帰ってゆく。
 

電車の中


 私は、新世界のこのカーニヴァル的な葛藤が好きだ。煙たい空気。葡萄酒の匂い。持たざる者は、私も含め、皆騒々しく、無遠慮で、およそ俗悪とも見分けのつかない手を握ってでも、泥の回覧板に名前を刻み込もうと慌ただしく飛び回っている。一方、上に立つ者にとっては、自らを厚程度の経済的な地位に留め置く足場は柔らかく、ますます頼りない。我々にとっての天井の脆さは、彼らの足元の危うさを意味し、私たちの期待と、彼らの不安とが音もなく入り混じるあの不穏で不吉で混乱した場所。私がアメリカで与えられた「大学」という名の居場所では、私が英国でひしひしと感じていた階層の重みは、幾ばくか弱く薄いように思われた。そして、そこで家族からの圧力と自分のやりたいことの狭間で迷う一行を楽しげに眺める私に芽生える罪悪感は、彼らの大半が限りなく金持ちである事実によって、その度に軽減されるのだった。

あゝこの葛藤!闘争を予感させる火薬の匂い!宙づりのまま生暖かい水に浸っているより、はるかに心地よいものだと思われた。あの歴史上湧いては消えていった革命家たちがすべからず後になって専政を敷く流れは、およそあの肩に重くのしかかっていた濃厚なガスに火をつけることの快感のうちに辿って行けるのだろう。彼らは、別に建物に火を放つことを目的にしていたわけではないのだから。なんというカタルシスであろう!なんという解放のミメーシスであろう!もしあなたが努力さえできるのであれば。もしあなたに努力さえできたのであったなら。
私は、そして、その心地よさと開放感の跡は自分の中にはなかったことを思い出す。それとともに、あの小汚いツタの絡まりを。あの不良の溜まり場になっていた小さな駅の喫煙所を。あの朽ちかけた倒木を。小径を歩く鉱山の働き手を。あの意味ありげに夕暮れの闇に浮かんだ黄色いヘルメットの集団を。

名もない草原の夕日


 
この汽車に乗ることは、距離だけでなく、時間をも水平に旅することをも意味した。そして、今回はクリスマスの訪れをも意味する。最も暗く寒い夜が、一年で最も明るく暖かい晩になり得るという、その優しく、全身を包み込むような、想像にすがるように浸ったまま、青銅色の空に星を見ようとした。後方には、四方がガラス張りになった展覧席がある。私は、そこに歩いてった。適当な席を探して深く腰掛けた。しかし、照明の光が室内に何重にも反射し、己の間抜けな顔しか映らなかった。誰かと話そうとも思ったが、車内で私は一人ぽっちだった。仕方なしにヘッドホンをつける。バッハを聴く。

シカゴの駅のクリスマス



そういえば、二日前、私は最寄りの空港へと向かうバスを逃したのだった。朝早かったのと雪のあまりに深かったので、すっかり手間取ってしまった。運よく、親しい友人が送ってくれた。彼女と私は車の中で、一緒にバッハのミサ曲を聴いた。バッハとは、危険な音楽である。実に危なかしい情緒に私を放り込む。そこで、映りすぎて行く時間の流れとは独立したものの中に、しばしば永遠に下降してゆくように思える社会の動きとも距離を取り、持続的で閉鎖的な灯台、象牙の塔、の上に自らを閉じ込めてしまう。

キリエの重々しい合唱の中にふと気がつく。私は子供っぽい世界へ別れをいうすべをまだ見つけていない。私は、目を閉じて、心の中で1、2、と数を数える。ゆったりと呼吸を続けながら、穏やかな息を吐き出しながら、3まで行くとゆっくり目を開ける。まるでそこに何か見過ごしてたものの在り処が示されてでもいるかのように。また目を閉じる。1、2、3。オルガンの響き渡る低音の中に重たい瞼を開ける。窓の外にはあまりにも深い夜の闇があった。そして、その中を手探りで進んでゆく汽車のその微かな揺れの中に、私は二重に定められた無力さを知る。私たちを囲い込み、非難し、痛めつけ、回帰的な反省まで要求する、そのあまりに気高い深遠のために、そして、かつては幸せそうにこの目に映った星々でさえあまりに遠く、冷たく、無関心であるがゆえに、私たちの孤独な旅について、誰も、何ひとつ確信を持って語ることはできない。哀しいことに、それが永遠に続くことを運命づけられているか否かについてさえも。

         第三章 

 
私が19歳だった時、私の魂は死ぬことを求めていた。それは今も記憶の中に、似通った灰色の感情の重々しい連続として何度も何度も蘇ってくる。あの日々は単調であったようでいて、心は大海の波に飲まれていたように思われる。私は一日のほとんどを横になって天井を眺めながら過ごした。まるで指ひとつでも動かせば全身の骨が砕けてしまうとでもいうように、私を満たす蒸し暑いガスのような不快感に心底満足しながら、何かより明るい気分に浸ることを拒むようにして、悲劇的なコーダを何度も何度も頭の中で演奏していた。音ひとつ立てず、恥じ入りながら、微笑を浮かべながら視線は酔うように宙を舞い、明日にでも肺結核に襲われ、週末には真っ赤な血を吐き、翌月には赤らめた頬とともに死んでゆくことを夢見ていた。彼は自分が夭折することに何か天啓を感じ取っている。未完成であることに、そして自分が未完成のまま死んでいくことに、まるで彼が生み出したあらゆる物事より美しい鉱物の一片にでも見入るような、そんな魔力を持って引き寄せられていた。

「未完の美」

これは、私が高校生だった時冗談として振り回していた言葉であった。そして、あの数ヶ月間は、古い校舎の外れの三階にある美術室の中で、アンリー・ルソーの『眠るジプシー女』という一枚の絵画に吸い込まれるように虜になっていた時期でもあった。


眠るジプシー女

私は、美術の模写の授業でその幻想的な油絵をキャンバスの上に再現することにした。私は、あの虚ろな夜空と乳白色に瞬く星から描き始めた。乏しい知識と経験をもとに、いくつかの暗い絵の具を混ぜ合わせる。筆を左右に動かして、大雑把に下地を作る。次に、獅子の胴体。そして寂しく横たわるマンダリン。およそ数週間、何度かそこに通っては作業を続けた。私は、結局のところ、それを完成させられなかった。なぜだかは、今でもわからない。心の中の大きな部分が、完成を目指す地道な努力というものを疑い、罵り、否定するのだった。途中で乾いた筆とまた絵の具の残ったパレットを放り出し、私は都合の良い言い訳を探し始めた。
「未完の美」という言葉に出会ったのもその頃で、私は、あの時、「この模写が一級の模造品として称賛されたかもしれない一抹の可能性」を抱きしめたように思っていた。それが真実から程遠いことを学ぶには何年もの時間が必要であった。実際のところ、私は、それ以外の全ての可能性をすっかり放棄していたのだった。そして、その未完成への執着にも似るほどに、なんども繰り返される帰結は今になっても続いている。

そして、戦いは始まった。自分自身との長く、暗い、戦争であった。これは狭まってゆく可能性が、甘美な夢たちが、あらゆる色彩と幻想をたたえた未来の麗しい影が、卑屈で冷たく匂いや色味にかけた現実の前に、引き裂かれ、縮小され、叩きのめされるのを、どうにかして先伸ばしにしようとする試みの始まりなのであった。自己憐憫で自らを満たし、無用な出血と痛みだけを伴う戦い。負けることなど、おそらくずっと知っていたのだと思う。ただ、負けたと知らされる瞬間までは負けていなかった。そう信じていたかった。私は、あれだけの汚染と土砂を詰め込んだ退廃をあの震える白い指の間に抱え込んでいたことに、時折感嘆せずにはいられない。
 


 つい昨年の夏に至るまで、この病は私を蝕んでいた。目に映るもの全てが、責めるような眼差しを向け、私という個人をひたすら下降してゆく敗者の世界に、貧困と後悔とそしてやがて訪れる完全なる下劣への解放の世界に、未来永久に留め置かれることを示唆して居るように思われた。私の神経は不健康に高ぶり、不穏な象徴の全てを恐れた。リスが栗の木に登ってゆく音や、小川が苔を撫でる様、あるいは、どんなに優しげな響きを伴ったノックでさえ、あらゆるものが私の人生を終末を意味していた。生きているのが、何よりも辛く苦しかった。そして、それは私が自分で作り出した苦役だという事実によって幾重にも増幅させられた。

 そのとき、私に手を差し伸べてくれた(ように思えた)のは、今でも変わらず敬愛している詩人たちであった。とりわけ中原中也とランボーの二人。彼らは弱い。そしてその弱さの中に自分の影を認めた。


ランボー


彼らの詩は、曖昧で、現実的で、それでいて何よりも儚く美しい。まるで病人の足音のように。それらは、私を取り巻く現実の醜さと悪臭に対比するように、神々しい光を帯びて私の心に染み入った。そして今になってよく分かる。私をあの詩人たちに引き寄せたのは、私にもかつてあったはずの実際的な知性を蝕むように汚し、裁断し、そして倦怠の火の投げ込んだ、彼らの生活圏の弱さであった。あの行き場のない、最も人間らしい弱さ。対話を拒み、「なぜ」や「どうして」の質問を拒絶し続ける、永久に閉じた世界の住人たち。

彼らは、言って見れば永遠のビー玉であって、それは球体でしかありえない。彼らの詩には角がない。世界から自らの実態を切り出すはずの直線がない。こちらに語りかけることをせずに、その彼の希薄な生活の生々しい色彩だけを見せてくる。なのに、百年以上の時が経っても未だに読み継がれる何かがある。そして、その矛盾を可能にしたのは、ひとえに彼らの「うた」の才能であると私は思う。

私は、全身で彼らに憧れた。自分で甘ったるく、感傷的な詩まで作ってみた。それなりにまとまったものは作れたはずだった。およそ人並み以上の詩の才能は、私を何者にも変えなかった。生活圏に目を背け、狂気に接近し続けるあの「見者(ヴォアイヤン)」になり、そうあり続けるだけの覚悟も実際的基盤も私にはなかった。

朝焼けがミネアポリスの街を包んでいる。白や燻んだ赤色のコンテナの間を汽車は進んでゆく。朝早くにもかかわらず、大河のほとりの駅では多くの人間が乗り込んできた。ちなみに、私はこのミネソタ、ウィスコンシンの人たちの訛りが嫌いではない。彼らの口から漏れるあの鼻にかかって間延びしたような母音が、どことなくイングランド西部の会話を思い出させる。アメリカは、そのイングランドとは比べものにならない国土の大きさを考えると、やはり土地による訛りの変種の数は少ないのではないかと思ったりする。特に西海岸は、どこも同じような喋り方をするが、これはバーミンガムとヨークシャーの人間が互いに意思疎通するときの、あの愛らしいぎこちなさと対比されるように思う。電車が動き出してからしばらくの間は、会話があちこちで生まれては消えた。そしてまた静かになった。  


ミネアポリスの朝


  
シカゴでは、英国時代からの大親友に会う予定になっていた。そこを数日間散策し、また小さな列車に乗って彼女の大学があるミシガンへと向かう。二人で縁の厚いピザを食べ、美術館でスーラの絵画を見る。私は、彼女ほど素晴らしい人間を他に知らない。というのも、彼女の魂の一番高潔なところは、その知性や生き方にだけでなく、この質問への答え方に現れている。
「何が好きで、何が嫌いなんですか。あなたにも苛々する時がありますか。どんな希望を持って、もしも夢のようなものがあるのなら、一体どんなものでしょう?あなたの心を特に動かしているのはなんでしょう。」
そんな彼女の答えに耳を傾けられることは、私の最も尊い特権の一つである。

やがて詩の世界に恐れをなした私の創作意欲は小説へと移った。数年をかけて生み出した作品群は、それなりの読書量と天性の小賢しさゆえに、小説として崩壊せず成り立つ程度には、それなりの形式と体裁は整えてある。しかし、何処までも感傷的で未熟であって、決別を夢見るための小説には程遠い。そんな未熟な作品でも、自己弁明のようですあるが、自分の力でなんとか完成させたのには違わなかった。それを書き終えたあの日の午後、私は自分を囲っていた檻が音を立てて崩れてゆくのが分かり、再び生きる力が湧いてくるのを感じた。希望という音楽が聞こえた。

先ほど、「私は決別を夢見る。」と書いた。決別が現実的なものになったあの日以来、理想の自分として夢見てきたのは、まさにこの旅の終点にあるものであった。

右手で受け取った機会を、左手で握り潰すような生活をしていた私を、叱責してくれるのは彼女だけだった。私よりも立派な読書家である彼女の視線。それは、私がここ数年恐れていたそのあまりに人間的なものの醜さと美しさを正しく判別する知性と、泥臭く生きてゆく日々を、価値あるものへ変えるようとするの大いなる覚悟に満ちている。

夜ふけのプラットホームで私は木の椅子に腰掛ける。電燈が照らす空間の外側には、建物だか車だかわからないものが星の代わりに瞬いていた。眉毛や指先が少しずつ凍ってゆくのがわかる。車掌は十分で戻ってこいと言った。あまりの寒さに死ぬからだ、私は手をこすり合わせながら、電車のそばで煙草を喫む一人の中年男をみた。伸びかけた髭が顎の影にみえた。広くなりつつある額には、苦労にも似たシワが刻まれていた。何重にもコートを着込んだ彼の指先で燃える弱々しい火を、私はなんとはなしに思い出す。彼は一体どこへ向かっていたのだろう。そして、いまどこにいるのだろう。

紙と鉛筆だけで美しいものを想像し、大衆がそれらを積極的に読み、解釈しようとする時代はもう死にかけて居る。時折、そう悲観的な思いが雨のようにふる午後を生きる。私は生まれるのがおよそ百年間遅かったのだと意味のない想像に囚われて、物憂げに頬づえをつきながら書物のページをめくる。ロマン派のように気取って何も生み出さない私は、あの柄の長いギターを小さな手で不恰好にいじる西海岸の若者と大差がない。

ランボーの最も高名な韻文詩「酔いどれ船」は、古代から続く英雄譚の構造にそのあらすじを似せている。主人公が困難に満ちた冒険を経て、故郷へと帰還する。この詩人の場合、故郷などない結末は崩壊し、彼はか弱い自己へと回帰する。私は、あの存在しない故郷を、存在しない幸福を、原色を用いて描こうとする絶望的な試みが好きだ。およそ、私たちの旅も似たようなものであると、何度目も読み直すたびに確信は強くなる。

なんども読んだ一節


そして、私の最後の小説は、そういったものを書きたいと思う。それさえ、終われば私は学問の道をゆく。しばらく小説は書かないつもりだし、かけないと思う。苦しい日々の中で私は何に気が付いたのか。私には勉強が足りないのだということが一つ。ゆえに、もっと幅広く学び、興味を深く探求し、よりたくさんの本を読まねばならないということが二つ。最後に、私という個人は、完成したその瞬間に、時代遅れの遺物へと成り果てることを運命づけられているように思う。そして、それはそれでいいのだ。そういう透明で不安定な軌道を私は進む。私はそれを受け入れる覚悟がある。これで三つ。
私は、息も絶え絶えなモラトリアムの前にこれを捧げる。未来の故郷を精神の国に据えるために。いつかまた、汽車の窓から眺め、回想するに足るだけの生き方を身につけるために。

春の太陽の下で、青い草原はてらてらと光ってる。窓の外には大きな一本の木が見えてくる。何もない丘の真ん中にポツンと一人立っている。
 
 梢の影の暗い部分に私は見る。まだそこに在ってほしいと願うものの幻影を。そして、強く、硬い緑色をたたえたあの豊かな小麦畑を思い出す。大地の髪を優しく撫でた、あの澄み切った風の香り。馬小屋のあの錆びた赤黒いトタン屋根。道は上下に畝り、愚直なまでにどこまでも続いてる。空と地平線とを別ける向こうに見える暗い険しい山脈に、私は心地よい恐れを抱くかな。しかし、今の私を満たすのは、あの胸を刺すような不安でも、全てを約束しはするが、幾千とあってもそれ自体では何も与えてくれないような希望でもない。それは、ただ一つの信仰だ。あの道をただまっすぐに、振り返ることもせずに歩き続ける忍耐だ。そして、いつの日か帰りたいと思わせる場所を作りあげる信念なのだ。あのなんだか幸せそうに思えた昼寝の後のような、ちっぽけで空っぽな気分に浸り、私は今日も窓から見える錆びついた自転車を眺めながら、それだけが懐かしく思える。旅とは、きっと、まだ見ぬ故郷へと帰ることだ。それは私を辛抱強く待ち続け、そして私はそこに帰ろうと思う。


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