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私に吐き気を催させる事柄、その総和と研究

 2024年ももうすでに20%が過ぎ去ったと頭の中で勘定しては、先日シャワーを浴びながら勝手に一人で戦慄していました。時間の流れが早い。どこを切り取ってもイマイチ冴えない習慣と、なかなか断ち切れない惰性に飲み込まれるようにして、冬の終わりは排水溝へと流れていった。初霜、初雪、霰、雹、あの夜の雪も、あの家のつららも、一度溶けてしまったら、どれだけ思い出そうとしても、とりとめのない水の流れる音だけがそこに響く。自分は、一体何をしているんだ。因みにそこのあなたもです。

 さて、こないだ友人が『ありがたいものリスト?』(Gratitude Journal)なるものについて語っていて、なんという代物だろうと感嘆してたんですけどね。自分が普段から感謝している事柄を(人でもモノでもなんでもいいから)毎日紙に書き出してみよう、といった端から端までヒッピーじみた企画なんですが、耳にした瞬間に、「まあ、なんて憎たらしい発想なんだろう。」といった感情しか湧いてきませんでした。

 幸せを取り繕っているのが、ちょっとイラっとくる。そのジャーナルやらに書き留めるに値するものを目を凝らして探し回って、迷い込んだジャングルで見つけた果実みたいに、「なんて幸福なんだろう」と自己憐憫の延長としてありがたがって、今日もせっせと現状肯定の道具にする。ヘドが出る。

 そもそも幸福なんてそのへんにドングリのように散らかってる代物であるべきで、「ちょっと僕にはこの歳にもなってドングリを真面目な顔で拾い集めるなんてあまりに野暮です。」くらいの態度で肩を切ってスカしながら生きていたいんですよ。もしそんな生き方が可能であるのであれば。ありがたいものを血眼になって探して、紙に書き留めておこうなんて態度は卑屈だと思います。
 
 まあこんなこと言うと、「じゃあ、お前は一体何をしているんだ。」というお叱りの声が聞こえて来るんですが、うるせえ。

 なので、『私を今年イラッとさせたものリスト』をアンチテーゼとしてここに提出したいと思います。それでもやっぱりネガティブなことばっかりは書きたくないので、一応明るい方向で結ぶ予定ですね。


1.果物ヘゲモニーと昼寝ホラー

僕は果物があんまり好きじゃない。あのケバケバしい見た目と酸味、そして声高に宣伝されるほど甘くもないという、上っ面と中身が一致してない認知的不調和がどうしても苦手。そして、よく分からない食感と「あ、自分ちょっと特別なんで。」みたいに斜に構えた味わいとも折り合いがつかない。

 イチゴやらバナナやらの比較的誠実で、奇を衒わない果物とはまだやっていける。あいつらは飾らなくて性格がいい。見た目がのび太で、味ものび太だから信用できる。だが、もはやマンゴーとアボカドといったヘソの曲がった奴らとなるとすっかりお手上げだ。あれは見た目が出木杉くんで、中身がしっかりジャイアン母子なので厳しい。

 留学6年目を迎え、今、私はとりわけマイノリティであることに積極的に向き合おうと思う。アメリカ西海岸のリベラルアーツの大学。
人種差別?
留学生あるある?
いや、そんな内容ならネットに星の数ほどあるからね。
 
 ここで取り上げたいのは、果物ヘゲモニーのことだ。マンゴーとアボカドが嫌いであると公言することは、このヒッピー・ヴィーガン・リベラルトロピカーナ王国においては、およそ殉教に近いものを意味する。

 なんということだろう。友人たちから浴びせられる、「アボカドと不仲になることは人間としてありえない。(humanly immposible)」やら「マンゴーが嫌いな奴は味覚が死んでいる。(dead palette)」やら「まず亜熱帯のどっかで飢えてからほざけ。」などの罵詈雑言の数々。
名前を出すのも畏れ多いが、ヒュパティアやらこのあと登場するルソーに少しばかり同情したくもなる。

 この異文化排除の傾向はこんなくだらない内容から、もっと重大な政治的関心まで多岐にわたる。まあ、所詮は西海岸に住むリッチな白人家庭の子女はすべからず似たような文化を消費してるくせに、一向にそれに気がつかないで、自分たちはなぜかとてつもなくユニークだと思っている傾向がある。

A.O ScottっていうNY Timesに映画の批評を書いてた人がEEAOへの低評価で去年炎上してたけど、彼の指摘したRelatable(共感できる様)のコンセプトの蔓延り方は流石にもっと危機感を抱かれるべきなのではと感じることもある。 


撃たれる若きソフィアコッポラと悲しむ父。共感できないね。

 結局、InstagramやTikTokは「共感できるコンテンツ」を主軸に展開しているので、自分の価値観やらを似たようなもので厚塗りしていく作業になりがちでしょう。世代として、「自分にはよく共感できないけれど、間違いなくそこにあるものと向き合う態度」を無意識に倦厭しがちなのだ。実際、映画や文学ってそういう普段の自分なら経験し得ないような感覚や感性へのアクセスを求めて消費する側面も大切だと思うので。ゴッドファーザー3の白昼夢のような悲壮感あふれるエンディング、あのカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲が流れる哀愁漂うシーンとか、そもそもマフィア映画なので全く共感できないのに、どうしてだか感情移入してしまいそうになるあの心の風景。


 僕は、マンゴーやらアボカドのあのケバケバしい色彩にもそういうものを少しでも感じ取ってほしいだけなのだ。

 
まあ、ここまでrelatableを批判しておいて、今度は昼寝ホラーの方へ。僕は昼寝が好きだ。というより、寝ること全般が好きで、昼にも堂々と寝かせてもらえることが好きだ、という方が正確かもしれない。
時々、しみじみと思う。
「私が昼寝を取るのではないのだ。向こうの方が私をとって喰うんだ。
"I don't take naps; naps take me."」

 もう十年近く、同じミスを繰り返している。あの恐怖の昼寝と目があうのがわかる。急かされるようにして目覚める。青ざめた夢。ひどい寝汗。割れるような頭痛。昼食のニンジンを齧っていた頃には満タンに近かったはずのスマホの充電もなぜかもう死にかけている。窓の外はどこまでも暗く、時刻は決まって午後18:51か早朝4:02のどちらか。胸を押しつぶす罪悪感と不快感。太陽と一緒に可能性まで地平の向こうに沈んでしまって、今や私の上には悲痛な表情を浮かべた星たちが瞬いているだけ。


厳しいぜ。


ということで、ここで昼寝廃止令を出すことに決めました。伝統の終わり。さらば、我が昼寝。もうカッコつけて言い訳とか作ってるの厳しい年齢ですから。じゃあ、空いた時間で代わりに何をするかって?

2. 就活


まあ、頼みもしないのにいろんな人間に会うんですが、なんかイラっとする質問(多分、本人たちは本質をついた質問をしていると悦に浸っているのだと思うけれど)をされるたびに「一体誰なんだ、お前は。」と思ってしまう。あの資本主義の競争に慣れ親しんだゲスな感性が大嫌いで、あの種の大企業の人間たちは、青空だって売れるもんなら、諸手を挙げて切り売りし始めるでしょうにね。

 それはいいとして、なんという恐ろしい作業だろう。可能性をどんどんと縮めていくようなものじゃないか。

 かつてはきらびやかに、壮大にこの目に写っていたはずの星座たちが、宇宙の両端からまるで一つになろうとするように近づいて来る。88音の鍵盤。右手と左手が両端から一つ一つ、ポツリポツリと音を出しながら中央へと迫ってくる。やがて死んだ惑星の核みたいに、味気のない一つの、不可逆で最終的に解決されたsingularityだけがそこに遺る。それはきっとF minorの音。そういえば、グレン・グールドもこの音階について似たようなこと言ってたな。

「かなり陰鬱としていて、複雑さと安定にまたがるように、生真面目さと淫らさの真ん中で、灰色と濃い迷彩の間を彷徨うような、そういったある種の曖昧さがある。」

     

グールドよ。お前がバッハを弾くのと同じやうに、
私も本を読んで鳥と花だけを眺めていたいのだよ。


 こういう心持ちで、こういう就活しているとやっぱり心の衛生上よろしくない。時間とoppotunityは私を通り過ぎてゆく。精神の深いところを穿つ動揺だけなら飽きもせずに運んで来るくせに、納得や信頼といった表情などこれっぽっちも見せないままに。己の義務を軽蔑して放棄することもないが、進んでそれを認識するようなこともないが故に、とにかくうわの空で行き当たりばったりになりがちで。

ルソーの「孤独な散歩者の夢想」とかいう、ぐらついた希望と悲観的な疑惑をどうにかして乗り越えようと書かれた晩年の日記文学があるんですが、痛ましいまでに引き伸ばされた「あ、私はもう吹っ切れたんで。」宣言が非常に読み応えがあるのでオススメです。孤独と迫害に苦しんだ人生の黄昏において、彼は一体どうやって平穏を保とうとしたのか。

お前、なんでそんなに余裕ありそうな顔してるんだ。

『迫害者を撃退する行動に出るわけでもなく、彼らの攻撃を受けっぱなしで、次節の妄想に耽ってなどいるより、彼らの説を採用することによって同様の武器をふりかざし、彼らと一戦交えたほうがましではなかったろうか?
僕は自分を賢者だと思っている。とんでもない、僕はつまらぬ誤謬に引っかかっただけのことだ。その犠牲者であり、その受難者であるに過ぎないのだ。』

平穏な生活がある程度保証されていたが故に、それが妨害されると随分と卑屈な態度だけが前面に押し出されがちだから、僕はルソーとは袂を分かって、あいつらの説を採用してて同様の武器を振りかざし、奴らと一戦交えないといけないと思っている。

 「本当の自分」とやらの胡散臭い真実を、自分の足にぴったりと合う革靴を探し求めるような気分で探し回って、軽いノリとテンションで生きるのに嫌気がさして、今年は、そういう生き方を克服するって、前の投稿にも書いたかもしれないけれど。


最近はこういうものの捉え方をするようになった。陳腐でもよっぽど心に優しい。


 別に目新しい脅威が電柱の陰から立ち上ってきたわけでもない。まだ冴えていたはずの理性や、瑞々しかったはずの感性が当時からすでにやがて訪れる危機として認識していたはずのものを、今こうして苦しんでいる。でも、「これから先、もっと分かれ目が広がるじゃないか。」って信じるようにした。そういう種類の信仰も大切だと思うから。

ルソーからの一つの引用をここに。

”Magnanima menzogna, or quando è il vero. Si bello, che si possa a te preporre?”
 「義侠的なる虚言よ!いかに真理の美しからんとも、汝より優りたるものあらんや。」

3. トルストイの本

"Writing a novel is pretty much about giving an answer to a question no body is asking." 「小説を書くことなんて、訊かれてもいない質問への回答をこしらえているようなものだ。」

僕が言った言葉なので、好きに引用してください()

「イヴァン・イリッチの死」っていうトルストイの短編を読んだんですが、              感傷を排して淡々と描写される死の過程と精神的悶絶が想像以上に怖かった。そんな恐ろしいこと、マジで全然訊いてなかった質問なんですけど。友達に勧められて、本まで貸されてしまったので読むしかなかったのです。


ミケランジェロの彫刻「瀕死の奴隷」
なんて静謐で美しいのだろう。ラオコーン像とはまた違った種類の死の描写。

 やっぱり、ああいうのを読むと考え込んでしまうのが僕の悪い癖で、今後の人生で、私は何度一から白紙に戻って立ちなおならければならないのかという予測よりも、すっかりやり直すだけの勇気と気力が抜けていってしまうことの恐怖。人生はコントラポストか片足立ちか。こういったものに過度に神経をすり減らさて、せっかくの冬の終わりが随分と殺気立ってしまった。冬が終わってしまうというだけで、だいぶイライラするものなのに。

音楽や文学が支給してくれる美しい慰藉の中にあって、私はブラームスの『ドイツ・レクイエム』は最高のものであると信じている。

 彼らしい重たく堂々としたオーケストレーション。分厚い雲間から差し込む淡い光。歌詞は聖書のいろんな部分から切り貼りしたものですが、

ああ、なんと空しいことか、全ての人は、
die doch so sicher leben.
確かに生きているとしても。
Sie gehen daher wie ein Schemen,
さまようこと影のように、
und machen ihnen viel vergebliche Unruhe;
そして無意味なことに騒ぐ;
sie sammeln und wissen nicht,
集め蓄えるけれども、知らないのだ、
wer es kriegen wird.
誰の手にそれが収まるのかを。
Nun Herr, wes soll ich mich trösten?
では主よ、何をわが慰めとすれば?
Ich hoffe auf dich.
わが望みは、あなたにある。(詩篇 39:4-7)
Der Gerechten Seelen sind in Gottes Hand
正しいものの魂は神の手にあり
und keine Qual rühret sie an.
そしていかなる苦痛も届くことはない。(知恵の書3:1)

いい歌だなぁ、と素直に思える。これさえあれば、ロシア文学も怖くないね。あなたも、私も、もうドストエフスキーを読まない言い訳ないからね。


3、やたらと長いリーディング。

 まあ、きっと学術機関ならどこもそうなんだけど、課された膨大なリーディングの割に、授業ではその中の一部しか扱わないというね。まあ、「残りは勝手に質問しにくるか、自己満足のためにハッスルしとけ」ってことなんでしょうけれど。
 このアカデミアの風潮にはここ数年イライラさせられていたのに、最近はその有り難みがわかるようになってきた。

やっぱり本当に質のいいものを作るには、インプットって大事なんだと。
(なんだ、この胡散臭いビジネス本のような結論)
やっぱり好き好んで論文読み漁ってるようなド変態にはなかなか勝てない。
「抽象概念と多義的な主張を大量に取り込んで、そこから概要を捻出する」っていう行為は、(自分で言うのもなんですけど)なかなか得意な方なのを嫌な感じで自覚しつつ、今まではそれを都合のいい道具にしながら、締め切り間近に一気に追い込みをかける方針できたんですが、もう流石に限界が見えつつある。

 今は、論文のために、ルカヌスという古代ローマ屈指の天才詩人が遺した叙事詩「ファルサリア」を読んでいます。皇帝ネロの元で、権力側の怒りに触れるか触れないかのギリギリのラインを攻めながら独裁政治を暗に非難する内容をものすごい速筆で書き上げました。

  まあ、幼い頃から英才教育を受けてきたルカヌス本人の衒学趣味も手伝ってか、ギリシア古典やら当時の風俗や習慣から幅広く引用してみたりするので、こっちは読むのに非常に時間がかかる。でも、まさしくその理由ゆえに二千年の時を経ても、読み継がれる価値がある。

 私たち凡人の神経を逆なでし、イライラさせるものは、優れた作品の証左でもあるのかもしれない。ランボーの散文詩もメンデルスゾーンの室内楽もたまにちょっとイラっとくるでしょう?圧倒的なセンスと技巧で磨き抜かれた完成度だったり、予測もつかない角度でうねる感性の潮流であったりね。

もともと皇帝ネロの権力にケツ舐めしてたルカヌス。最終的に不和になって、クーデター未遂からの25歳で自殺を強制させられた男。シビれるぜ(?)


終わり:嫌いなものの総和とその研究

皆さんは、"Trainspotting”という映画見たことありますか。スコットランドを舞台にしたユアン・マクレガーのデビュー作で、堕落した青年たちがヘロインとセックスに明け暮れながら、めちゃくちゃ生きているという奇妙なお話。


ウヒー。

 まあ、長くないし、結構オモシロいカットの中で展開は速いので観た方がいい。あんまりこういうカルチャーに慣れてないと気が持たないかもだけど。

  友人たちと一緒に観ていて、どうしても納得のいかない感じが腹の底にあった。マクレガーが完全にキマってるシーンを傍目に、何がこんなに不快なのだろうと考えていた。
別に、ドラッグや貧困の描写が苦しいのではない。まあ、画面の向こうの腐った性根をした悪影響以外の何物でもない友人たちが憎いのでもない。

そうして、気がつく。この抜け出せない薬物地獄で、友人らとなあなあで延々とのたうち回っている現実が胸に刺さるのだ。

 自分に似ているものを無意識に嫌悪する、みたいな心理学の傾向聞いたことがあるけど、まさにそれなんだと思った。

その感覚は、映画の最後のシーンで頂点に達する。
 
"I'm going to change… I'm cleaning up, and moving on, going to straight to choosing life." 「俺は変わるんだ。すっかり縁を切って、もう振り返らずに、「人生」だけを選ぶんだ。」

 この一分間のモノローグに、あまりに現実的な「人生」が詰まっている。なんて下世話で、俗物的で、どこまでも美しいのだろうと感動に浸っていると、


 「この笑顔だ。」

僕は突然そう気がついた。
これが僕の嫌いなものの総和なのだと。
希望に満ちてはいるが一切信用ならないあの笑顔の、繊細で正確な肖像画。

こいつ、本当に変わるのか?変われるのか?

まともなサイズのエゴ、ちょうど体重60キロに林檎一つ分くらいのエゴ、を持った人間なら、鏡に向かって自分の姿をじっと見つめているなんて、どうしようもなく不快な行為なはずなんだ。

「俺は、変わるんだ。」と何かに言い聞かせるように繰り返す彼の姿に、僕は随分あっさりと説得させられてしまった。

これが今の僕なんだ、と。

「俺は、変わるぜ。ああ、もうキッパリ断ち切ってね。もう怠惰も頽廃もゴメンさ。」

ランボーも「地獄の季節」の最後の方で歌っている。

”Moi ! moi qui me suis dit mage ou ange, dispensé de toute morale, je suis rendu au sol, avec un devoir à chercher, et la réalité rugueuse à étreindre ! Paysan!"

 「この私が、あらゆる倫理・道徳から免除され、天使とも賢者とも自称したこの私が、探されるべき義務とゴツゴツとした現実と共に土に還される!百姓なのだ!」

もうすっかり常連ですね。アルチュール・ランボー君。

 だから、私はあの笑顔を時折思い出す。
ベニントン湖の、樹木や岩肌が水際近くまで迫っているあのロマンあふれる湖畔の風景の輪郭を歩きながら。葡萄畑の連なるあの静かなる丘の上で。あるいは、窓と窓とをつなぐ暖かい街灯の火の下で。浮世の幸福から目を背けがちなあの一つの夢想が、私の固い決意、詩論に抵抗しながら現実の寒空の下で生きるという反省を誘惑し、弁解しようと私に語りかける時はきまって、私はのっぴきならないあの笑顔を、ひとり浮かべてみるのである。


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