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深き淵の底からのオープンレター



「De Profundis

日本語にすると
『深き淵の底から』

詩篇130からの一節で、これはさらに、こう続く。
深き淵の底から、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください.嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。』

旧約聖書の中では、とりわけ好きな読み物に入るんですが、なんだか最近この一節について考えている。そして、この仰々しい経典の言葉も私たちからそう遠い存在ではないのかもしれない、としばしば物思いに耽りながら夜の街を歩く。
 
 私がまだ退屈や惰性というものに夢見がちな期待を抱いていた頃にはどこを探しても見つからなかった、あのいかにも意味ありげで遊戯的な刺激の断片を、私は疲れた肩と目を持って歩く家路に降り注ぐ街灯の火、そのまっすぐな光の中に見つけたりする。

 「もう遅すぎるんだよ。」

この後に及んでは青臭さと同一視することで遠い過去の一部にしたいと願っているあの怠惰な己の性質。それを見栄っ張りな勤勉さにどうにか置き換えようと熱を上げ、自分のためになると思って設定した身の丈に合わない習慣の味気なさにだんだんと心をすり減らし、ささやかで実際的な享楽の前に、遠くに見えるあの夢とか理想とかふわふわした玉色のものを犠牲にしがちな、真面目でつまらなくて恐ろしいほどに重要らしいあの態度を持ってして、私は自販機の隣のベンチに腰掛ける。

 空は曇っていて、星ひとつ見えやしない。ヘッドフォンから流れるのはJudy and Maryの『そばかす』からあの印象的なフレーズ。

『想い出はいつも キレイだけど
それだけじゃ おなかがすくの
本当は せつない夜なのに
どうしてかしら?
あの人の涙も思い出せないの

思いだせないの
どうしてなの?』

90年代の日本のポップスは、どうしてか油断ならない。小沢健二もそうだけれど、最大瞬間火力においてヘッセやネルーダの作品にも匹敵する詩情と生々しさを無邪気に振りまいてくる。 
ボーカルのYukiの表現力は、どのアルバム聴いても卓越してるとしみじみと思う。エリーザベト・シュヴァルツコップのオペラみたいに。夏の夜の雨が心に刻むあのざわめきを待ちわびながら、そろそろ新しい傘を買おうなんてそう思いながら、私は今宵も帰路につく。

Golden Age Fallacy

 
 こないだ24歳になった。意外にもアメリカで過ごした初めての誕生日だった。午前には近くの川に行って釣りをして、少し泳いだ。お昼ご飯の後には、葡萄酒を飲みに出かけ、雲ひとつない藍色の空に浮かんだ刺すような太陽が、夏の始まりを私の白い頬や首元に刻み込む。丘の上まで出ると、暖かい風にうねる小麦畑がてらてらとどこまでも光っていた。あとちょっと高く背伸びさえすれば世界の端まで見渡せそうな、そういう夏の午後だった。
 日が沈んで星が高く登ると、友人たちが作ってくれた長方形のレモンケーキには、ちょうど18本のキャンドルが燃えていた。
 わかる、僕は24年間生きてきたのではなく、おそらく18歳を6年間生きてきたのか、あるいは、3歳児を21年間やっているのかもしれない。少し硬くて、酸っぱいケーキ。

 人は、きっとこのくらいの年齢で死ぬのだと私は思う。ただ土に埋められるのが50年先の話なだけで。

長々と言っているけれど、翻訳するのならば「未来、マジで怖い」に尽きる。そして、これはもうどこにも行きそうにない。

東京に戻ってすぐ、新宿の小さな映画館で、Wody Allen の『ミッドナイトインパリス』を観た。

構成の陳腐さはともかく、難しくない楽しい映画

まあ、もちろんフィッツジェラルド夫妻は当然のことだけど、僕の崇拝している作家やら画家がパリの街並みに次々と出てきて、久々にワクワクしながらスクリーンを凝視してたんですが、確かにこの種の芸術に興味がない人にはあんまり響かないのかもしれない。(そして驚くほど白人しか出てこない。よくないぜ。)
 およそあの1920年代のパリ、そしてガートルード・スタインのサロンに出入りした錚々たる顔ぶれに憧れを抱く人間は、その熱狂に比例するように、過去への憧憬に囚われた人間へのアンチテーゼの重みを受け取ることになる。

『あの時代は、この醜くてキツイだけの今現在よりはるかに素晴らしかったんだ。』

 そういう風にして、いつの時代にも「ここではない何処か、今ではない別の時代」に休むことのないパセティックな憧れを抱き続ける羽目になる。

 映画が終わって、しばらくその場に座っていたいと思った。以前には私を苛立たせ、周囲から孤立させ、内なるものを表現することを強く要求していたものと全く同じ力が、いま私に立ち止まることを、点検することを、節約された情熱の中で現実を眺めることとを求めていた。

 新宿の駅前に出てくれば、分かる。みんなすごいことしてるからね。周りと自己を見比べるのではなくて、過去の自分と戦わなくちゃ。過去の怠惰な自分に想いを馳せれば、その時点でもうシード戦なのだ。

 山手線のホームで見かける酔っ払いと、気高い戦士とは勇敢さではあまり変わらないのかもしれない。

 1920年には抗生物質なんてなかった、だから人はあっさりコロッと死んだ、なんて冗談が映画で出てきた。確かにそうだ。懐古の念に浸っていても、時々そうやって我に帰るから長続きしない。このご時世、私たちに課された最も難しいことは、せいぜい自分をあまり嫌いにならないでいてやることだけ。

夜中に天井を見上げながら、もうすっかり閉じてしまった左耳のピアスの穴を意味もなく触ってみる。この微かなくぼみの中に、そして、まぶたの裏に浮かぶ明暗の中に、私は全ての過ぎ去ったものの影を認めながら、衰弱の間をおいて、ためらいがちに、戦いながら、まるで誰かがすぐそばにいるように息をひそめながら呟く。
「De Profundis
どうやってここまで生きてきたのか、思い出せない。
「De Profundis
私がこれからどこへ向かうのか、見えそうにもない。
De Profundis
その暗い子音の響きは、その中に火照るような恋も、積もりに積もった恨みもなく、単調に、蜜の混ざった海のように、重く、悲しく、朗らかに、どこまでも続いてから、儚く消えた。

私の好きな詩人にしてフランス文学者、多田智満子さん(1930-2003)

「私から生まれ私を生みつづけるこの花
色彩の音階をふみしめながら螺旋階段をたどるとき
私の髪のくさむらからはおびただしい蝶が飛び立ち
眼はあまりの香気に盲いる。」

『薔薇宇宙』より
かっこいい。

この人の初期作品は、なんという鮮やかさを放っているのだろう。薔薇の赤色一つ取っても、これはヒトの身体から流れる血の色なのか、あるいは虹の一部なのか、案の定LSDを服用した経験に基づいていると知って納得した。これは常人には届き得ない心象世界だもの。そして、この詩はこう終わる。

『復元された日常のなかでも
あらゆる断片は繧繝彩色がほどこされてある
夢はいくたびもの破裂に耐える
私の骨は薔薇で飾られるだろう』

   

『薔薇宇宙』より

さあ、あと何度破裂させよう、私の夢。


卒論を書くということ。

さあ、ついにこのお時間がやって来ました。論文です。
博士課程に行くにしても、誰もが予想していた通り、専門以外の成績が芳しいわけじゃないから、代わりに論文が優秀じゃないといけないというね。

まあ、自分の大好きな内容のことを書けるので毎日、ワクワクしながらリサーチしている。テーマは、「共和政ローマにおけるネオテリック派詩人と、19世紀フランスの退廃主義運動における詩論と個性の確立に対する、実存主義的観点からの比較」

 年間800万円近い奨学金をタダでもらいながら、こんなニッチなことを研究できる背徳感も無きにしも非ず。難しいことを言っててもしょうがないので、ある一枚の絵を持って紹介したい。

 ローレンス・アルマ=タデマっていう19世紀後半にイギリスで活躍した画家がいて、彼の最も有名な作品の一つが『ヘリオガバルスの薔薇』です。

なんという生々しい色彩感だろう。
この人たちは、薔薇の花びらで窒息死しているというのに。

   

 西洋の歴史において、美貌とその性的奔放さ、そして短く終わった治世での破天荒ぶりで、あまりにインパクトが強いこのローマ皇帝。たった18歳で死にました。ここに描かれているのは、彼が天井から大量の薔薇の花びらを振りまき、宴会を楽しむ客人が窒息する様を眺めて楽しんでいる様子。

 この”道徳心”のかけらもなさそうな皇帝は、19世紀のデカダンス芸術家の間でちょっとした話題になりました。画家アルマ=タデマも、当時のヴィクトリア朝に典型的な価値観を持つ層からは、批判をしっかり浴びせられる。
せっかく古代地中海世界を題材に絵を描くのならば、ローマの美徳とか、国に奉仕する愛国心やら模倣できることが沢山ありそうなものを、どうしてわざわざ好き好んでこんな『退廃』をとりあげるのか?

 同じような優等生らしい質問が、文学にも投げかけられる訳で、あの『罪の聖書』こと頽廃の限りを尽くした詩集『悪の華』を書いたボードレールが文学上にて展開した悪について、わたしは論文の中で考える。

 めまぐるしい速度で産業化が進み、自由よりも習慣を、個性よりも均一性を求める都会の雰囲気に争うようにして誕生したこの頽廃主義ですけれど、反逆的な美と形式、華やかな色彩に煌びやかな物質、そして化粧や装飾をもとに達成されたされた肉体的な美しさ、そして、何よりも束縛を拒否して、それらを眺める自分を観察する自己を表現することにこだわりました。タイプミスじゃなくて、本当にそこまで誇大化した自意識を都会の隅々にまで行き渡らせるってこと。


末恐ろしい男だ。

 そこにバタイユやらサルトルやらの実存主義的なアプローチを持ってして、古代ローマの都会派恋愛詩人たちと比較しようっていうことです、はい。

 ちょっと面白くないので、彼の『悪の華』より
『深き淵の底から呼びぬ』から一節を引用したい

「神よ、私が愛する唯一のものよ、私の魂が陥った
この暗い淵の底から、あなたの情けを乞うのです。
ここは見渡す限り鉛色で埋め尽くされた荒涼とした世界、
夜更けに漂う畏怖と冒涜
熱を失った太陽はもう半年も頭上にある
残りの六ヶ月は夜だけが地上を支配する。
。。。(略

冬眠という名の麻酔をかけられる
あの下等動物たちが羨ましくなるほどに
時の流れはあまりに遅い!』

この前後の詩では、彼は肉欲やら死やら吸血鬼やらについて唄っているので、まあこの唐突で神経質なまでの信仰の切迫感すらパロディに思えてくるのですけどね。

マーラーの6番について(これは広告です。)

別に書かなくても良かったんだけど、たまたまプレイリストから流れてきたkらね。
僕はマーラー推しでは決してない。そして、当分彼の作品を理解できることもないと思う。「あの人の音楽が好きなんです。」って公言して憚らないような人間は信用してはいけない気がする。(偏見)

古典派と前期ロマン派あたりの美的感覚で育ってきてるので、ツィムリンスキーやらマーラーの爛熟した混沌世界はあまりに難しい。そもそも無関係の動機があちらこちらから飛んでくるので、集中して聴かないと何が何だか分からなくなってしまう。

でも、マーラーってほんとうに涙が出てくるほどに美しい緩徐楽章を作るんです。四番も、五番も、九番もいいけれど、やっぱりカラヤンがベルリンフィルを率いてパリで演奏したこの交響曲六番のライブ。序盤から金管が若干やらかしていて、おっかなくなるんですが、

それにしても、ああ、この第三楽章!

紺碧の雲に跳ね返りながら、永遠に増幅し続ける波。

忙しい人はぜひこの三分間だけでも聴いてほしい。絶対後悔しない。

私はもう天国にでもいるような気分になって、この圧倒的な音の洪水の中で身動きが取れなくなってしまう。

芸術ってこんなことが出来るのか。こういったものを経験するたびに、文学研究なんて捨てて、創作で修士号でも取ろうかしらと思えてくる。

今読んでるもの

『響きと怒り』 言うまでもなくアメリカ文学の金字塔ですけれど、おそらくドストエフスキーの作品群に匹敵できるのは、新大陸ではフォークナーくらいしかいないのではと思ったりする。

とりあえず発想が変態的。あんな構成どうやって思いつくの。

  第一部が特に読んでてつらい。英語の問題じゃなくて、『意識の流れ』を多用するせいで文脈なしに時間軸が飛び続けるので、なかなか追えない。
ドストエフスキーの『白痴』もそうだったけど、あちらは纏まりごとに往復してたので、まだマシだった気がする。
 ある南部の家庭が没落してゆく様を描いて、なかなかにツラい。キリスト教や人種差別、経済格差、などもう全部入ってる。


”It's not when you realise that nothing can help you - religion, pride, anything - it's when you realise that you don't need any aid.”  

The Sound and the Fury

こんな言葉、深き淵の底に以外にどこにいたら絞りだせるのだろう。

書きたいもの・書いているもの。


去年の10月7日以来、アメリカのキャンパスは大荒れでした。まともな人間の大多数と同じように、私もパレスチナが過去80年近く苦しんできた占領政策に同情的なんですが、留学生としての身分上、あまり大胆なことは出来ないのがとても悔しかった。

彼らの直面するあまりの現実の酷さに、そして、アメリカ政府、さらには大学側の不誠実で偏った態度にどうしても納得がいかないし、西岸地区出身の友達に「How are you doing?」って尋ねることすらもう億劫で。

彼らは薄ら笑いで答えてくれます。
"I'm doing alright." 
かつての友の墓にでもひとり話しかけるように。

 自分勝手なまでに正直であるのなら、私の中には、無限とか永遠とか、夏の日の熱い砂浜とか、溶けてゆくような夕焼けとか、瑠璃色の花々、川辺で戯れるアオカケスの尾羽とか、そういうものだけを読んで、愛でて、書いていたいという夢見がちな欲望があって、ロマン派の甘美な詩歌に魂のそこまで魅了されたことのある少し壊れた人間になら、きっと理解されるものだと思う。

 でも、そういったものから意図的に離れなくてはいけないのだと実感した一年だった。だから、私は、大学側や体制側の不誠実な態度や圧力の連続を文字に起こして書き残そうとする大きな努力の集合に片足を突っ込んでいる。

深き淵の底から、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください.嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。』

 哀しいのは、その声に耳を一切傾けない人間が腐るほどいることだ。腹立たしいのは、彼らがギラギラした目で諦めていることだ。
またいつかそれについては書こうと思う。

とりあえず、今年の残り半分(!!もうそんな時間が経つの!)は院の勉強と、論文書きと、執筆に費やされるということで、私はまだ夏の盛りにはアメリカに戻ります。書き物は評価されても、それだけで食べていくのは難しいね。アカデミアに残るならもっと頑張らなくちゃいけない。大変だ。

人は行き場所が分からなくても、ただ透明な軌道の上をそれでも歩き続けなきゃならないらしい。それが、深き淵の底からの出口に通づるものだと健気にひとりぼっちで信じ込んでね。今日も太陽が熱い。
みんなも健康には気をつけて生きませう。

『昏睡』  中原中也

亡びてしまったのは
僕の心であったらうか
亡びてしまったのは
僕の夢であったらうか

記憶といふものが
もうまるでない
往来を歩きながら
めまいがするやう

何ももう要求がないといふことは
もう生きてゐては悪いといふとことのやうな気もする
それかと云って生きてゐたくはある
それかと云って却に死にたくなんぞはない

あゝそれにしても、
諸君は何とか云ってたものだ
僕はボンヤリ思ひ出す
諸君は実に何かかか云ってゐたっけ

(1934/4/22)

中原中也未完詩篇





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