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怒られることに関するカイエ

 コンサルに就職した友人とこないだ海を見にいったのだが、湖面のように風波一つ見当たらない青い海岸を走る電車の中、彼は「謝り方」に関する本を見せてくれた。午後になってのそのそと動き出した我々の背中を、ぎらぎらした西日が照らしている。どうやらコンサルという業界では、しばしば怒られては、定型どうりの謝り方をするのが、日常茶飯事らしいのだ。

 それ以来、「人が怒られ、そして、謝る」という、しばしば儀式的にすら私の目に映る、形式的なはずのになぜかいつも手探りなやりとりについて、断続的に考えていた。私も鈍臭さ故に日々怒られが発生するので、経験値だけならプロ級だと思ってる。ここでは、カイエとして書くから、30分くらいでざっと言葉にしてみる。気楽に書くのもたまにはいいね。いつもならここらで、主題を二声から三声に増やしてみたり、陰影に富んだ装飾を加えたり、のちに帰結するであろうある一つの意味ありげな比喩を盛り込んでみたりする。今日は時間がないのでやりません。ウェーイ。



 
 まず記憶に蘇ってくるのは、こないだ投げかけられた強烈なちくちく言葉。一応その場では当たり障りのない微笑を浮かべて受け取ったはいいものの、あんまり美しくないし、かさばるし、置き場所に困るけれど、忘れ去るのも忍びないということで、ここに書き残しておこうと思う。

 『お前は、いつもニヤニヤしているのが気に食わん。何を考えているか分からんから気味が悪い』

 ここからしばらく続くのはソクラテス並みの弁明なんですけれど、まず私が漠然と意識してきた「原則」の言語化から始めてみるべきなのかなぁ。

ソクラテスちゃん。ちなみに、Apologyは
語源的にもともと「謝罪」みたいな意味は薄いよね。「反論」の方が近いかな。

 他人が不機嫌であるとか、イライラしているとか、そういったものは、基本的に向こうの責任で処理してほしいと思っている。自分の機嫌くらい自分でとってほしい。そして、もちろんのこと、その原則を自分にも厳格に適用している。だから、私はごく稀に機嫌が悪くなっても、まず表には出さないし、態度も変えない。

 例えば、上の立場の人に叱られたり、助言をもらう際に、私の中では、向こうが怒っているとか、不機嫌であるとかをほとんど勘定に入れてなくて、ただ相手が言っている内容だけに集中し、そこから改善点や役に立ちそうな情報を取捨選択をするという作業をしていると思うの。

 だから、怒られてても、話を聞いていないとか、馬耳東風だとかでは一切ない。学び続け、改善しようという意欲はしっかりある。
 ただ、単純な原則が私を貫いているだけ。向こうが真っ赤な怒りに震えていようが、或いは、優しく語りかけるような声色で私の方を向いていようが、どちらの場合も私は大抵全く同じように対応する。だから、感情の起伏が狭いのだ、とレッテルを貼られる。

 私のやった行い、或いは、やらなかったことに、至極当然の怒りが向けられている場合、もちろん、私は反省しているし、そして、常識に照らし合わせても、怒りは当然のものだと思う。だから、トーンポリシングとも違う。感情を抑制してください、とも頼んでない。
怒ってもらって全然いいけれど、それによってこちらが傷つき、心がしおれ、元気を失うという結果までを要求され、こちらも社会通念上それを入念に演じきり、それを立派な「反省」であるとラベル付けすることに抵抗があるだけ。
 私は、他人の目の前で人間的な感情を出すのが好きじゃない。怒りも、悲しみも、弱みも、喜びも。だから代わりに、自己表現する場としての文章力を磨いてきた。忍耐とか献身も、そう言ったプライヴェートな領域で行われる。
 
 知らんけど、これが先ほどの言葉、『気に食わない。気味が悪い』を引き起こしてるのかも。 でも、別に昨日今日でこうなったわけでもない。

 小さい頃から、とりわけ、学校では驚くほど怒られてきた。私のために負荷がかかった脳の血管の数ゆえに、教員の全国平均寿命を数ヶ月は減らしたといっても過言ではないかもしれない。授業中に立ち歩いては廊下に立たされたり、その場に似つかわしくない私語や姿勢で何百回と叱られ、挙げ句の果てに、「一生懸命さ」が見られないとかいうひどく主観的な裁断すら生き延びてきた。(今でも)忘れ物もひどい。うっかりミスが多い。余計な一言がある。通知表の所見欄に幾度となく書かれる似たような言葉。そして、お勉強だけはいつも優秀だったので、それがさらに教員の癪に触る。
 (そうです、もう気がついた通り、重度のADHD)

 さすがに私語や衝動性については、人並みにまでなったものの、集中力と細部への注意力の欠如は、未だに解決されるべき問題であることを自覚している。基本的に黙っていれば、余計な発言で周りを傷つけずにすむ。

 そして、この何百回という「怒られタイム」での思索を経て、私がたどり着いたのは、『もう不機嫌を向けられるとか、怒りが降ってくるとか、そういったものは全て自然現象の一部だと思う方が楽だ』という結論。(要するに、「人を小馬鹿にしてるんだろ?」と思った人、結構違うんだ。お互いの平和を保つためのマインドセットなんだ。)

 急に夕立に降られたり、電車が遅延していて、確かに面倒だなと思うけれど、それに心底怒ったりしないでしょ?「なんで雨なんて降ってんだよ!」なんてツッコミも入れない、普通。
 対人関係のイライラも大抵それで処理できる。「あ〜、またプンプンしてるなー。」くらいの見方。でも、もちろんそこに論理性や有用性がある言葉があるのなら、しっかり覚えておく。だから、怒られても、叱られても、傷つくことはないし、しおれることもない。土砂降りの時と、小雨の時で、別に傘の差し方を変えたりしないでしょ?

 ただ、向こうは、「いや〜、しこたま怒ってやったぜ、そろそろダメージが効いているといいな〜。」の感覚で私を見ているので、それは当然噛み合わないわけだ。

 さっきも言ったけど、原則は自分自身にも当てはめないと、ただのワガママになってしまう。私はその虚しさを人一倍知っているが故に、他人に怒らないし、不機嫌も、悲しみも向けない。他人の前では、いつも感情のホメオスタシスを保とうと努力してる。その代わり、苦手な人との交流は一切絶つだけの話。もし、一緒に仕事をしなくてはいけなくなっても、やはり自然現象だと思えば、別にイライラもしない。

 私は、暇さえあれば本を読んできたおかげで、大半のぎこちないシナリオについて、小説の中の登場人物がどういう風に対応して、どういう結果になったのかを、おおよそ把握している。打ち明けられた悲しみ、投げかけられた疑い、向けられた敵意や怒り、およそあらゆる場面で、読書体験が私を助けてくれる。(でもそれが最善だとは限らないから、こうして問題になっているのだけど。)
 あらゆる小説は「こうすれば、多分こうなる」みたいなシミュレーションとしても読めるわけだし、人間の感情についてあらゆる偉大な先人たちの言語化を吸収してきた。それを持ってしても上手くいかない状況ならば、むしろ新たな人間の一部を垣間見えた自分の知性の蓄えになるわけ。がっかりや残念や醜さにも、様々なスペクトラムとバリエーションがあるのよね。

 自分でも言語化は比較的得意だと思う。故に、自分だけのナラティブを作り上げる方が楽だ。そして、あらゆる暖かい小説と同じように、怒ってばっかりいる人たちは、大抵エンディングにたどり着くまでに物語から姿を消している。だから、私はマニュアル通りに謝ることについて、全く抵抗がない。別に雨が降ったら、傘を差すのと同じ要領だと思ってる。トルストイの登場人物に出来て上手くいくのなら、私にだってできるはず。

 最後に、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の中で取り上げられていた、北アメリカのとある平原に住む先住民族について、私が死ぬほど陶酔的だと思った部分を残したい。
その民族は、食人文化を残しながらも、組織的な警察組織を持っていた稀少な集団で、罪と贖罪の点で彼らと私たちを分けるのは、犯罪者を社会から完全に隔離しないということだった。(一方、私たちは、罪人とのあらゆる社会的な絆を断ち切り、誰も見えない牢獄の中に閉じ込めておく。これをアントロペミー〜人間を吐き出すこと〜とこの人類学者は呼んでいる。)

 この民族は、罪人の家と財産の一切(馬とテント)を破壊し、それと同時に、警察は、この罪人が今しがた受けた被害を共同で償うことを先導する。集団のみんなで、この犯罪者の家と財産とを補助して、また立て直してやる。そうすると、彼は今度は周囲に贈り物をして、感謝の気持ちを表明しなくてはいけない。でも、その贈り物自体を手に入れるようになれたのも、元は周りのおかげであるから、再び関係が逆転する。こうして『贈り物と返礼の長々しい遣り取りの果てに、前の無秩序が消えて、最初の秩序が回復されるまで続くのである。』(レヴィ=ストロース 悲しき熱帯Ⅱ 川田順造訳)

 実に健全な人間関係というのは、日常のミクロ視点からもこういったものであるべきなのでは、と私は思う。そして、そこにニヤニヤした顔と、怒りではち切れそうな表情は一体どの割合で存在するのか、未だに電車の中で考えてみたりする。


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