雑記 今年の終わり編
「みんなで楽しく読んでもらえる、ほのぼのした文章を書いていきたいな。」なんて腑抜けたこと口走るようになったのは今年になってのことでした。ぬるい。生き方がぬるい。社会に対する感性と態度がぬるい。羽のついた豚みたいにあちこち駆け回っては、炭酸の抜けた常温のサイダーで喉を潤す。そんな完全でも清浄でもない日々の生活の連続の中に、何か新鮮なまま保ち続ける価値のある光彩、あの無言のまま列をなして窓の外を通り過ぎてゆく暖かい光、を見つけられるのだろうか。
答えはNoです。Noでした。本当に。
(てか、2021年の記憶ある人います?まじで何一つ覚えてないんですけど。)
私の目標が小説家になることだったら、それは今年で無事解決されたことになるでしょう。多分、昔、私言いました。私は赦されたくて書いているのだと。(これ、宣伝も兼ねて。)
心変わりとは少し違いますが、今となっては、むしろ癒えるたびに書いてるのだと思います。その方がよっぽど正確な捉え方です。
デーヴィッド・ボウイがあるインタビューで語った内容をはっきりと覚えている。
「いつも覚えていなきゃならないんだ。そもそもその作品に取り掛かった理由ってのは、もしこれをどうにかして表現できたのならば、自分自身について、そして、社会とどう共存できるのかについてより深く理解できるようになると、自分の内側にあるものがそう感じたからなんだってことを。アーティストが他人の期待に応えようとするのはひどく危険なことなんだ。だいたい質の悪いものしか生まれてこない。」
実際に美術史を学ぶと、芸術を自己表現の道具として従えるような主観主義的な発想はかなり新しく、まだかなり若い現代の代物なのだとツッコミたくなるけど、まあ、モダニズムってそういうことだから。そういうの云々考え始めるとエンタメ楽しめないから。それがモダンだから(圧
今年まで拙いながらも三冊の中編小説といくつかの短編を書いてきたのですが、これも全部ある種の根本的な不満から出発している気がする。
三冊も書いたけど、やっぱりどれも未熟です。正直、志向するもの古臭いというか、感性として19世紀の情けないロマン派的な感傷が好きなので、(これは甘ったるいクラシック音楽の聴きすぎにも一因がある気もする。)なかなか立派で厚みのあるものが書けない。大正時代に生まれてたらきっと今頃売れっ子天才作家だった。知らんけど。
自分の作風として「ゴリゴリの奇想天外ライトノベル」みたいな発想も文体も持ち合わせていないけれど、甘美さとかを一切捨てて徹底したリアリズムに振り切れるほどの度胸も力量もないので、結局いつものふんわりと幻想的だけどイマイチ煮え切らないものが生まれるんですね。まあ、書きながら偉そうな気分に浸ってる時が、一番人生のふちを裸足で歩いてる気分になって好きなんですけどね。これはほぼもうドラッグです。
何か満たされない欲求をぶちまけるように書いて(ほとんど庭に水を撒くような感じで)、その後に内側に残ったのは漠然とした燃えかすだけ。肩の荷が降りたというか、ある種の目の前の現実に対する諦め、それと代わるようにして、未来に対する希望が湧いてきたというか。そういうのって大事ですよね。ショーペンハウアーやカミュやら読み漁っても、いくらラテン語やギリシャ語の活用を暗記しても得られなかった、自己に対する自己についての証明みたいなものがやっと目の前に現れてきたという感じ。多分、そう言うことです。もっと時間が立って振り返らないと、まだはっきりしてこない。
尊敬する大好きな作家にヘルマン・ヘッセってドイツ人がいるんですけど、心の柔らかいところに刺さる内容をとっても品が良くて、みずみずしい文章で書く人です。そんな彼の「シッダールタ」っていう仏教をテーマにした小説に、川がモチーフとして出てきます。自殺未遂や苦悩を経て、人生はこの水の流れそのものなんだと、主人公は悟ります。未来、過去、そして現在は決して区切られた別々の存在ではなく、それら全てが同時にここに存在している。罪も赦しも、成功も失敗も、影で仕切られているだけで、それらは同時に寄り添って今ここにある。そして、ついに全ては海に流れ出し、その名前を失う。
こういう川が近くを流れているわけなんですが、そんなようなことをふと思い出した。家から車を30分も飛ばせばこういった場所に出る。いいとこだぜ、何もない田舎だけど。
足元の岩の隙間に生えたまだ柔らかい苔をむしって、雲に向かって、そしてその向こうの夕方の星に向かって投げてみる。当然、何も起こらない。何かを期待していたわけじゃないけれど、それでも少しがっかりする。
昔、自分の人生を「風船を砂で膨らませるような生き方をしてきた。」と反省したことがあった。あれからしばらく経って、今はちょっと違うんじゃないかと思う。
先ほどのデーヴィッド・ボウイのインタビューで僕の好きな場面があるのですが、もうちょっと考えるためにまたここでも引用したい。(私で訳してるので、口調がイメージと合わなかったらごめん)
”Often we (artists) feel as though we have the key to something. I do not think we do at all. I just think we dwell on it more. (略)… For many people, just getting through life is enough. That's a big enough task, and let alone having to look at the world and the universe, and say "Now, if I had my way…"
「僕たちアーティストは、よく勘違いするんだ。自分たちが何か大事なものへと繋がる鍵を持っているってね。でも、僕は全然そうは思わない。ただそこにより多くの時間をかけて悩んでいるだけなんだ。(中略) 大半の人間にとっては、人生ってのはやり過ごすだけで十分なんだよ。それだけで手に余る一苦労なんだ。ましてや世界や宇宙を見渡して、『うーん、僕だったらこうするのに。』なんてぼやかないよ。」
おそらく、私がかつて抱いていた漠然とした不満は、この人生のやり過ごし方における下手くそさに一因があったのでしょう。およそ、自分でももうはっきり分かっているんですが、生きるのが絶望的に下手くそです。ひたすらに怠け者で、そのくせ澄み切った努力の気持ちをメタ的な小賢しさが邪魔をする。メランコリックな性質なのに、本ばかり読んでるから病む。この終わりのない悪循環。
だから、"Well, now, if I had my way…"を考えてないとやっていけない。その問いを通してじゃないと、冷たい現実と対峙していくことができない。およそ書き続けることで、私を取り巻くあらゆるものを噛み砕き、どうにかこの世界での小さな居場所を確保しようともがいている。そうやって社会との共存の仕方を考え続ける。そして、ものを書く手を止めてしまったら、その空白の重さに私は耐えられない。
チェルビダッケがいいこと言ってたんです。去年観たインタビューです。今、探して観たらちょっと元の動画が見つからないんですが、代わりにここにうまく文字起こししてある記事を貼っときます。フランス語なんですが、読めない人は翻訳機にかけて頑張ってください。結構面白いこと言ってます。
さっきのインタビューはドイツ語だったんですが、この別の機会ではフランス語で答えてます。ルーマニア人でしたけど、英、独、仏、全部上手い。早くああなりたい。めちゃくちゃ興味深い音楽哲学を繰り広げてるので、ぜひ暇な人は聴いて観てください。
指揮者としては、全てのフレーズを重々しく引き延ばす独特の解釈が個人的にあまり好きじゃないのですが、彼のブルックナーだけは圧倒的に美しい。金管も弦楽合奏も、偉大な人生の賛歌のように神々しくまっすぐに響きます。そして、このアダジオ。ここでは、まだ晩年の異常なまでのテンポの遅さはありません。ちょうど12分過ぎあたりから、じわじわと盛り上がるクライマックス。この哀しみと憧れの満ちた音の洪水を、僕は『追憶の重さ』という言葉を持ってでしか形容できません。
彼のブルックナーの7番は毎回、気がついたら涙が出てるのですが、チェリビダッケがさっき引き合いに出したインタビューで、『芸術は真実へのBait』だって語っていて、とても記憶に残ってます。。芸術は真実に肉薄するために餌にすぎない。そこには理屈ではたどり着けないし、ただそれを経験するしかない。
みんなコンピュータ・サイエンスやら経済学に汗水たらしてるのに、僕が西洋古典を選んだ理由もそこにあるんだと思う。統計と定量化を絶対信仰する世間の風潮と、人類の進化を国内総生産を持って推し量ろうとする態度を僕はあまり受け入れられない。文学や音楽、芸術だけが、言葉を持って陳腐な形に閉じ込めてしまうことすら躊躇われる、あの恐れを、あの喜びを、あの哀しみを、あの憧れを、あの後悔を、そして、そっと胸の奥に抱え込みたいと願う全ての希望を表現できると信じている。
ただこうした発想が、押し寄せる現実の前にはあまりにか弱いものであると自覚しなければならないのも確かで、(白波寄せる砂浜に木の枝で書いた信仰宣言みたいに。)そのことを誕生日を迎えるたびに強く実感させられる。
ルイ・マル監督(ちなみに彼の『死刑台のエレベーター』はオススメ)が晩年に撮ったアメリカ映画があります。今年なんとなく観た映画なんですが、まあ色々と考えさせられる作品だった。
"My Dinner with Andre"
ちなみに字幕も吹き替えも日本語訳は出てないっぽいです。監督はフランス人ですが、全編英語です。
中年の売れない貧乏劇作家が、久々に再会した昔の友人のスピリチュアルな体験から、旅行のこと、芸術のことなどを場面転換など無しにひたすら聴き続けるというなかなか攻めた映画。最後のシーンは素敵だけれど。
ミッドライフ・クライシスって、まだ二十代前半なんですが既にその影が自分に巣食ってる気がする。冒頭がなかなか暗くて悲しくなる。待ち合わせのレストランに向かう地下鉄を待ちながら、主人公がこんなことをぼやく。
「若い頃は、考えることといえば芸術と音楽のことばかりだった。今となっては、頭に浮かぶのはお金のことだけだ。」
刺さる。非常に刺さる。Parce que c'est la vie. そして、この痛みを心の柔らかさとか、普段は隠してる根本の明るさみたいなので誤魔化し続けるのに嫌気が刺し始めたのが今年でした。
とりあえず、大学から脱出して、アカデミアにいく選択肢を残しつつ、小説に一度ピリオドを打ったのもそういうことからだったんですけどね。勉学も鳴かず飛ばずというか、かつて都会の端っこで天才扱いされてたはずだったんですが、まっとうな努力の仕方を知らないで育った若干地頭が良かっただけの人間はすべからく苦労しますね。二十歳超えたら、未だに苦手なことに全く取り組めないだけの社会不適合者に昇格するだけです(ヤッタ~! イエ━━٩(*´ᗜ`)ㅅ(ˊᗜˋ*)و━━イ)。そこにADHDが加わると本当の悲劇。まあ、このトピックあんま面白くないから次行こう。
さあ、大風呂敷を広げたところで、作家でなかったら、一体何になりたいのか、私にはまだ分かりません。来年の目標はそれを見定めることにしようと思います。就職も普通にすることになると思うんですが、まだ何も分かってないです。でも、それを何もしない言い訳にしないのが大人だって聞いたんで、大人しく従おうと思います。あたたかい陽の光をどうしても捕まえたくて、窓辺の鳥かごをひたすら見つめてるだけのような生活は終わりにしないといけません。
そもそも一年やそこらで偉大な作品が書けるとは思ってないというか、傲慢な態度だなと思い始めた今日この頃。ブラームスがあのニ短調のピアノ協奏曲を書いたのも25歳の時で推敲に数年はかかってます。にしてもいいよね、あの音楽。制御できてない仄暗い情熱が好き。ちょっと小慣れてない暑苦しい展開部もいい。アダジオも不器用でロマンチックで好き。
でも、何も書かないと頭が腐りそうなので、このページに本当に片手に仕上げるブログらしい「みんなで楽しく読んでもらえる、ほのぼのした文章を書いていきたいな。」
そう少しずつ思い始めたのでした。敢えて推敲なしにごっちゃ混ぜの文章もたまにはいいじゃない。まあ、元からそこまで捻くれた文章を書く人間でもないんですが、ちょっとブローティガン的な脈絡の無さと、ライトなタッチの練習がてらにね。仕事と勉強で忙しくなりそうですが、不思議と怖くはありません。なぜですかね。
"The horrors persist, but so do I."
また来年から気の向いた時にでも書こうかしら。
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