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「自分には無理です」と言って辞めた若い教師 反省文の害⑧

「この春で辞めます」

謝恩会のために三年ぶりに前任校を訪れた時だった。卒業生担任の若い教師が他に聞こえない声で私に告げた。
そして彼は「僕は『子どもがして欲しいと思うようにしたい』のですが、それではダメでしょうか」と続けた。
私は何のことか分からないまま「それが一番いいんじゃないのかな。どうして?」と答えたが、彼は「自分には無理です」と言って力なく微笑むと他の来賓教師へと挨拶に行った。
私は、彼の後ろ姿を見ながら「自分には無理です」の意味を考え続けた。

彼の学級には、長期欠席(不登校)気味のコジロウくんがいた。
私は、そのコジロウくんを低学年で担任していた。コジロウくんは、友達と笑って元気に遊ぶ子で、地域の少年サッカークラブにも所属していた。学習面では通知表で言うなら「よい」が並ぶような子だ。
しかし、コジロウくんには家庭の事情があった。私は深く立ち入ることはしなかったが、コジロウ母が話すことを望んだ時には全力で聞くというスタンスでいた。私と話す時のコジロウ母は、ハンカチを目に押し当てながら泣いていた。コジロウ母は、抑鬱症状で通院し、服薬をしていた。
3年生担任には「コジロウ母を支えて欲しい」と引き継いだ。
コジロウくんが4年生になる年、私はその学校を異動した。
その後、コジロウくんに少しずつ欠席が増えたらしい。高学年になった頃には欠席が目立つ子になり始めたと聞く。具体的な理由は分からない。私は、コジロウくんが成長とともに何かを感じ始めたのではないかと想像していた。調子が悪い母に寄り添おうとしていたのかもしれない。
高学年で担任となった彼も、コジロウくんが抱えている何かに気づいていたと思う。もしかしたら私がそうであったように、コジロウ母から話を聞いていたのかもしれない。運動会に訪れた時、曖昧なままに「コジロウくん、精一杯に頑張る子ですね」そんな言葉を彼から聞いた。

彼は、コジロウくんにとって、登校は小学生として精一杯に頑張っている時間であり、欠席は母と過ごす大切な時間だと考えていたのだと思う。
だから、登校した時はごく普通に迎え入れ、子どもが休んでいる時は静かに「何もせずに見守る」を選んでいた気がする。

「気がする」と書いたのは、その学校を離れていた私はこの件で彼と話し合ったことはなく、ただ「彼ならそうしただろう」と思うからだ。

しかし、一般的には「休みがちな児童には登校を働きかける」という対応がされる。長期欠席している子どもをそのままにしては次第に学校との関係が薄れ、子どもが「孤立感をもってしまう」「学校に行きにくくなってしまう」と考えられている。
だから、そうならぬよう学校から「どうしている?(気にしているよ、心配しているよ)」と声をかけ「待っているよ」というメッセージを送り続けるのが休みがちな子どもへの配慮だとされる。そのため管理職からも長期欠席の児童がいる担任に対しては「放課後に電話したか」「休みが続いているなら、訪問して来い」「友達にプリントを届けさせるといい」などの促しがある。
だが、コジロウくんのような場合、それは問題外だ。それはコジロウくんばかりでなく、コジロウ母をも追い詰める行為だ。

もしかしたら、彼は「コジロウくんにもっと働きかけよ」という指導を受けていたのではないか。それで彼は、私に「僕は『子ども(コジロウくん)がして欲しいと思うようにしたい』のですが、それではダメでしょうか」と尋ねたのではないか。
でも、全て想像に過ぎない。それを確かめることもできないまま、長い時間が過ぎた。

私は、この「休みがちな児童には登校を働きかける」という対応には懐疑的で慎重な立場を取る。

例えば、治癒が見込まれる怪我や病気による欠席と、いつ治るか分からない欠席とでは「どうしている?」「待っているよ」の意味が違ってくる。「学校に行く日を楽しみに待っている子ども」と「学校に行ける日が来るかどうかを不安に思っている子ども」とでは送られた言葉の意味は全く違ってくる。

前者には安心や期待を与えるが、後者には不安や焦りを与える可能性がある。

もしも「学校に行かなければいけないと思いながらも行けずにいる子ども」であれば、それらの言葉は「まだ来ないの」「いつまで休むの」と責められているように聞こえるかもしれない。それでは《できない》で困っている子どもに「やりなさい」と言っているのと同じだ。
そのような相手の状態を考えない一律な対応は配慮ではない。

《子ども一人ひとりに配慮する》とは《一人だけできない》でいる子を教師が受け入れることだ。
一旦作ったシステムをその子のために作り変えることだ。

これは前回の記事で書いた言葉だ。
この言葉は「休みがちな児童には登校を働きかける」という長期欠席児童への対応システムにも当てはまる。
働きかけない方がいい場合がある。「今は、ゆっくり休もう」と欠席を認めて、何もしない。そんな無条件な待ち方もあると思う。登校とは違う、その子に《できる》何かを探す方法もあると思う。

「自分には無理です」

あの時の彼が何を言っていたのかは分からない。
でも、彼ならコジロウくんに「どうしている?」「待っているよ」と繰り返し言うはずがない。それでも他から「やりなさい(コジロウくんに働きかけ続けなさい)」と強いられたら、彼は学校を辞める。そういう教師だった気がしてならない。

今回は、ここまで。


(補1)
コジロウくんは、今、元気です。社会人として働いていると卒業生から聞いています。
学校を辞めた若い教師(今はもう若くないけど)は、様々な困難を抱えた子どものための学習塾を始めて、頑張っているようです。

(補2)
「反省文の害①」以来、長く続いたこのシリーズ。どこが「反省文の害」なのかという疑問の声が聞こえてきそうなので、言い訳します。
このシリーズで示す「反省文の害」とは、大雑把に言って次の通りです。
〈「やりなさい」と言えば問題が解決されるという間違った考えに基づく害〉
それを事例の紹介とともに考えようとしています。

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