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2022 読書この一年

※2022年12月31日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 今年の読了冊数は98冊でした。映画熱の高まりにより読書活動は退潮気味で、読む本も仕事に関係のある、雇用、社会保障関係の本に比重が傾きました。


『雇用か賃金か 日本の選択』

 あえて今年一番おもしろかった本を挙げるとすれば、首藤若菜著『雇用か賃金か 日本の選択』(筑摩選書、10月発売、11月13日読了)です。生産が縮小した際に、賃金を下げても雇用を維持するか、希望退職等により雇用を解消するかという二つの選択肢について、前者はコロナ禍のANAグループの、後者は構造不況業種の百貨店のそれぞれの実例をレポートすることにより、日本の雇用調整の内実を探っています。

 コロナ禍での需要蒸発に対し、欧米の航空会社では、賃金カットの提案を組合側が拒み、予め決まっているリスト(勤続年数の短い順)によって機械的に一時解雇することで対応したようです。需要回復後の再雇用のルールも明確化されていますが、今回のコロナ禍での一時解雇の際には、他業種へ転職した等の理由で再雇用できない例も多く、需要回復後のサービス回復が困難になったこともありました。

 一方、ANAグループにおける賃金カットについては、単なる賃金カットだけでなく、サバティカル制度や客室乗務員の勤務体系の柔軟化、グループ企業への在籍出向などが、労使交渉の末に実現しています。しかしこのようなスタイルの雇用調整の場合、賃金水準は簡単に下がってしまい停滞しやすくなってしまいます。

 百貨店の場合は短期的な雇用調整とは異なり、長期衰退的構造を背景とした雇用調整となるため希望退職等で雇用を解消する選択が取られます。もともと意に沿わない配転・出向が前提となる長期雇用を慣行としてきたこともあり、レポートされた百貨店の取り組みでは退職後の再就職先の確保についても、正社員だけでなく無期契約のパートタイマーも含めて会社が責任を持って奔走しました。

 著者はこうした、どんな仕事かを問わず会社が雇用の場を提供し続ける長期雇用のあり方を「本籍主義」と命名しています。そしてこうした長期雇用慣行においては、出向等で社外に真っ先に排出されるのは中高年の男性正社員ということになります。

 失業率には現れない、雇用調整によって起こる賃金水準や職務内容のミスマッチへの注目という視点の重要性を、実例をもとにして説いた好著でした。

『貧困・介護・育児の政治』

 宮本太郎著『貧困・介護・育児の政治 ベーシックアセットの福祉国家へ』(朝日選書、2021年発売、1月1日読了)は、介護保険制度等、社会保障政策の画期が、政治的な「例外状況」下で起こるのが日本の特徴だと指摘しました。行政による規制・保護、企業による男性稼ぎ主と扶養家族の所得保障、家庭による性別役割分業の三重構造を基本とした日本の社会保障の前提が崩れていく中で、普遍主義的な社会民主主義、選別主義的な新自由主義、家族による自助を強調する保守主義の3つの相異なる立場がせめぎ合います。

 自民党体制が動揺する時期に社会民主主義的な政策は実現し、しかし程なくして「磁力としての新自由主義」が幅を利かせる。著者が示す日本の社会保障を巡る現代政治の見取り図がなるほど明快ですし、この磁力の強さをどうすれば弱めることができるのか、正直、先はかなり思いやられると感じます。

『給料はあなたの価値なのか』

 ジェイク・ローゼンフェルド著、川添節子訳『給料はあなたの価値なのか 賃金と経済にまつわる神話を解く』(みすず書房、2月発売、4月16日読了)は、自由主義的なアメリカでさえ、労働市場は労働生産性と賃金の需給のみによって成立はしておらず、「成果主義」の美名のもとに、成果以外のさまざまな要因によって企業側の独占力が効いていることを明らかにしています。自身の給与を他の従業員に明かさない守秘義務や、同業転職を禁じる契約などが思いの外、賃金水準に影響をもたらしていることなどが興味深く感じました。薄々分かっていたけども、こうやって改めて明らかにされると、やはりそうだったのか!という納得感がありました。

 こうしたことから著者は取締役会への従業員代表の参加や年功賃金など、従業員の脱商品化的な賃金制度を支持していますが、果たして私たちは自分を「脱商品化」したいのかどうか?という問題があるように思います。この辺りは前掲書にあった「磁力としての新自由主義」と共通する部分があると思います。

『物価とは何か』『世界インフレの謎』

 渡辺努著『物価とは何か』(講談社選書メチエ、1月発売、5月3日読了)は、簡単に言えば「インフレが起こるのはみんながインフレが起こると思うからだ」ということを、基本的なところからわかりやすく解説した、これ以上ない一般向けの教科書と言えるでしょう。同じく渡辺努著世界インフレの謎』(講談社現代新書、10月発売、12月15日読了)は今年の物価高が、ロシアのウクライナ侵攻によるものではなく、コロナ禍による行動変容によるものであるとの見立てを示します。

 著者は特に『世界インフレの謎』で「賃金が上がらないかわりに物価も上がらない」という停滞状況から、「賃金も上がるし物価も上がる」経済への転換を説き、著者は政府による旗振りを唱えます。ただ、そのためには私たち一人ひとりが、賃金を決めること、政府に関与していくことといった社会参加への主体性を持つ必要があるのではないかと思います。これは本書の主張を超えますが、市井の経済財政論議が、MMTやリフレ論といった主体なき議論から、どのように社会を形成していくかといった方向に向いていってほしいものだと思いを新たにしました。

『奴隷会計』

 ケイトリン・ローゼンタール著、川添節子訳『奴隷会計 支配とマネジメント』(みすず書房、8月発売、12月18日読了)は、のちにテイラーの科学的管理法や近代的マネジメントなどと呼ばれることになる、先進的な経営手法が、18世紀の黒人奴隷管理においてすでに使われていたことを指摘した研究です。

 奴隷を時価評価し、減価償却までしていたという事実にはあまりの衝撃を受けました。数々の帳簿からは、奴隷を、利益を生み出す資本として捉える眼差しが見え、現在の「人的資本の開示」と共通するものを感じました。

『資本主義だけ残った』

 ブランコ・ミラノヴィッチ著、西川美樹訳『資本主義だけ残った 世界を制するシステムの未来』(みすず書房、2021年発売、2月19日読了)は、現在の世界を、アメリカを代表とする「リベラル能力資本主義」と、中国を代表とする「政治的資本主義」との競演として見立てます。ユニークなのは、資本主義の矛盾が社会主義をもたらすというマルクス的史観とは異なり、中国のような新興国が資本主義的な経済発展を実現するために社会主義革命を必要としたという史観を示すところです。

 リベラル能力資本主義と政治的資本主義は、かつての資本主義VS社会主義のようにそれぞれ閉じられているわけではなく、グローバルチェーンによって有機的に結び付いていると本書は指摘しますが、この点はコロナ禍を受けてだいぶ状況が変わってきつつあるようにも感じます。

『アフター・アベノミクス』

 軽部謙介著『アフター・アベノミクス 異形の経済政策はいかに変質したのか』(岩波新書、12月発売、12月30日読了)は、アベノミクスの政策決定過程を追ったルポシリーズの完結篇です。第1作『官僚たちのアベノミクス 異形の経済政策はいかに作られたか』でアベノミクス政策誕生の過程を描き、第2作『ドキュメント 強権の経済政策 官僚たちのアベノミクス2』で分配政策へのシフトを捉えていましたが、本作の主題は金融政策から財政政策への転換の舞台裏です。

 党内異端派だったはずの西田昌司らが党内議論の中心へ移り、国債発行による財政出動の強調論が増大しています。かつては官邸内のやりとりに割かれた紙幅は、本書では主に自民党内の議論がメインになっています。やはり首相が変わっても、舞台回しは安倍晋三だったということでしょう。

 一方、本書でもうひとつ強調されるのは財務省と日銀の発言力低下です。日銀の低金利政策が、財務省の予算編成を助けるというぬるま湯の利害一致は、度重なる不祥事も加わって、財政出動論に対する財務省の抵抗力を削いでいます。

 膨大になった日銀のバランスシートをいかに縮小させていくかという難問に、利上げが迫られつつある状況が到来している中で、アベノミクスはいよいよ本格的に総括される時期に来ています。

『陰謀論』

 秦正樹著『陰謀論 民主主義を揺るがすメカニズム』(中公新書、10月発売、12月11日読了)は、「重要な出来事の裏では、一般人には見えない力がうごめいている」と考える思考様式を「陰謀論」と定義し、こうした陰謀論を誰が受容するのか、実証分析した労作です。

 ツイッターの利用頻度が高いと陰謀論を信じやすいということはない、政治的関心の高い層ほど陰謀論を信じやすい、など興味深い分析結果を多数読んでいるだけでも収穫が多く、「自分の中の正しさを過剰に求めすぎない」という結論も納得です。まあこれができれば話は早いのですが。

『記者がひもとく「少年」事件史』

 川名壮志著『記者がひもとく「少年」事件史 少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す』(岩波新書、9月発売、12月4日読了)は、少年犯罪をマスコミがどのように報じてきたかをめぐる戦後史を、事件記者の視点でまとめています。

 少年法の少年犯罪を「親子」「教育」問題と絡めて語る型が確立する1970年代。そうした「親子」「教育」という型にはまらないために、適切な視座をなかなか持てないまま報道が手を余した1980年代後半。家庭裁判所による審判が、刑事司法並みの制度を持ち合わせないアンフェアな制度であることが露呈したバブル前後。そうした少年法制のシステムの欠陥・不備に対する不信感が醸成される中で、相次ぐ重大事件を経て、それまでの「加害者の親の代わりに少年を保護する」という国親思想から、被害者視点に立った厳罰主義へと転換されていく平成初期。そして精神鑑定や発達障害への着目により、環境ではなく少年個人に原因を見出そうとする傾向が高まる21世紀を迎えます。

 2010年代、著者によれば少年事件の報道は、量も減り、視点も遺族の声一辺倒になって、加害少年の生い立ちを掘り下げたり、少年を取り巻く環境を伝えたりする内容が消えているといいます。少年事件の報じ方は「大人」を映す鏡であると訴える著者は、現在の少年事件報道の退潮は、少年であっても大人同様に個人に責任を帰せられ、もはや見放されていることを示唆していると主張しますが、うなずけるものがあると思います。

 こうした切れ味の良い整理は、ジャーナリストの手による新書ならではのものでしょう。


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