これはキンタナ星人が書いたシナリオなのか?
【あらすじ】
平凡な製造工チャンク。週末の彼はストリートで小銭を稼ぐイマイチ微妙なジャズギタリストだった。そんな彼がキンタナ星人ヤマダに拉致されて、キンタナ星の動物園で暮らすようになったが・・・。
テーマは幸せ、愛情、宿命、そして死生観について。
【本編】
しがないジャズギタリストの僕。
ジャズクラブにいくら売り込んでも全く相手にされないので、金山駅南口の広場が僕のステージだった。ジャズクラブではお客さんとしてジャムセッションデーの日にプレイしていた。工場の仕事が休みの時だけのウィークエンド・パートタイム・ストリート・ミュージシャン。寂しい自己満足でしかなかないことは分かっていた。まぁ、僕の実力から言うとこんなもんだろう。15人くらいのファンがいるだけで御の字だ、雀の涙ほどではあるが、一応お金は稼げるし。
その日、カイゼル髭をはやし、鼈甲の丸メガネをかけた初老の紳士が、5・6人の見慣れた顔たちに紛れていて、食い入るように僕を見ていた。身長は180くらいで、少し太っていた。軽く笑ってしまうくらい顔立ちが三船敏郎に似ていた。真夏なのにグレーのダブルのスーツに薄い水色のシャツにエンジの蝶ネクタイ。黒い山高帽。でも汗一つ書いていない。ステッキを持っていた。
一通り弾き終えて一息ついていると「月一くらいな感じでキンタナでやらない?ちょっと遠いところだけど送り迎えもしてあげるから」と誘われた。しゃがれた女の声だった。キンタナなんて聞いたことのないジャズクラブだな、と思って「オープニングっすか?」と聞いたところ、紳士は「うふふ。まあ、そんなところかしら」と答えた。「ワンステージいくらなんすか?」と返したところ「3万円じゃ足らないかしら?」と返されたので、本当は”こんないい話ありえない”と思いつつ、見栄を張って「3万5千円」と、ぽそっと伝えた。「ディール」と彼は静かに言った。「失礼。喉が乾いてるんで」と言って、僕は紙パックに入ったリプトンのミルクティーを一口飲んだ。額からにじむ汗を右腕で拭った。
「契約金を前払いするわ。これからヤマダって呼んでね、私のこと」と言って彼は15万円くれた。「あなたのことはなんて呼べばいいかしら?」と聞かれたので「チャンク」と答えた。
セミがミンミン鳴いていた。
「じゃあ、チャンクさん。確か、あなたの家って見晴台が近いわよね。そこに明日の夜9時頃に迎えに行くから正式な契約をしましょう。詳しい話はその時するわ」と言われた。”なんで僕んちの場所がわかったんだろう?それに条件が良すぎるし、ポーンと15万もくれるなんて、改めて考えてみると少し気味が悪い”と疑念が膨らんできたが、大金を受け取ってしまった手前もあり後には引けなかった。僕なんかに大金を払ってくれる謎めいたヤマダと、「キンタナ」というクラブに興味津々でもあった。とりあえず行くだけ行って、不味い事になったらダッシュで逃げればいいと思った。僕は好奇心に全く歯が立たないタイプの人間だ。そして、逃げ足だけは早い。
次の日、自宅から5分ほどテクテク歩いて約束の時間にそこで待ってると頭上からクラクションが聞こえた。空を見るとほのかな光のベールに包まれた70年代物と思われる黒のリンカーンコンチネンタルが闇夜にゆらゆらと浮かんでいて、ゆっくりと僕の目の前に着地した。近くに咲いていたひまわりがかすかに揺れていた。
「おいおい勘弁してくれよ、宇宙人か。正しかったのは大槻教授じゃなくて韮澤さんじゃん・・・・・」と思わず小さな声を漏らして一目散に逃げようとしたけどなぜか足が全く動かない。大声をだそうにも出ない。
ヤマダは運転席のウインドウを開けて、「さぁ、チャンクさん乗って」と静かに言った。
自分の意思に反して僕の身体はリンカーンの中に入ってしまった。
リンカーンのふかふかな助手席に身を埋めた僕は、怖くて泣きそうになりながら「ヤマダさん、これどういうことですか?」と声を振り絞って訊いた。
「私はキンタナ星人。250億光年地球から離れたところに私たちの住む世界があるの。でも安心してちょうだい。こいつでいけばすぐに到着するわ。大気圏を抜けたら四次元空間を使って時間をゴマかすことできるから」とヤマダはハンドルを握りながら得意げに言った。
外に目をやると、NASAの写真で見慣れた地球が見える。
「これから四次元に入るわよ」とヤマダが言うと、窓の外は透明感のある黄色になり、細かい泡がぶくぶくとしていた。ビールの中にいるみたいだ。
「私はキンタナ星の動物園の支配人をしているの。動物園にはたくさんの地球人がいるわ。でも普通の地球人だけじゃ飽きられるのよね。だから私たちの胸を踊らせるような、ハッとさせるような、ワクワクさせるような才能で破裂しそうなタレントをいつも探しているの。そして、あなたを見つけたというわけ。動物園ではギターを弾いてもらうわ。欲しい機材があればいつでも言ってね。お望みのものは全てすぐに調達できるから。それと共演したい人がいたら遠慮なく教えてね。全力を尽くして確保するから。もう死んじゃった人ならほぼ確実に確保できるわ、有名人だったら。食べたいものや、飲みたいお酒はどんなものでも用意するわ」とヤマダは言った。僕は頭が混乱して固唾を飲んだ。
「なんで僕なんですか?ヤマダさん。僕はテクニックには多少自信があるけど、それほど才能があるわけじゃないんだ。地元のジャズクラブのステージに立てるほどの実力すらない。客としてならセッションデーでプレイできるけど。センスがズレてるんだよ。自分でもわかるんだ。こんなギターじゃ絶対にウケないって。僕には才能がないって心底自覚しているんだ」と捲し立てると、「地球人はホンモノに気がついていないのよ。あなたは秀逸なアーティストよ。理由はそれだけ」とヤマダは答えた。「そしてこれは宿命なのよ」と付け加えた。
「あの中にあなたのステージがあるわ」とビールのような空間に浮かぶたくさんのナゴヤドームのような建造物の内の一つを指差して、ヤマダは言った。
「あれが動物園よ。建物が宙に浮いてるなんて不思議に思うでしょう。あなたたちの世界のように物質だけでできた世界からきたものたちのために特別に用意したものよ。私たちの世界は物質だけで成り立っているわけじゃないの、星も人も。私たちの体は、あなたたちの感覚でいうと気体のようなものと言った方がイメージしやすいかしら。だから私のこの体も実は私の体じゃないのよ。地球人を構成する有機組織をそっくりそのままコピーしたものよ。そしてそれを私が操っている」とヤマダは呟くように言った。
ドームの中には石造りの建物がたくさんあった。その雰囲気は、昔住んでいたニューオリンズのフレンチクォーターを思い出させ、懐かしさに浸る。八百屋では客が大きな声でキュウリを値切ろうとしていた。香辛料の匂いがかすかにした。
建物のうちの一つに案内されると、そこにはステージがあった。キャパは200人といったところか。ピアノの椅子に座って漫画「ゴルゴ13」を読んでいたセロニアス・モンクが僕らに気づき、僕を迎えてくれた。「おおチャンクか。君のことはヤマダから聞いてるよ。なんでも俺のピアノみたいなギター弾くんだって?はっはっは、待ってたよ」と彼は大声で言った。「光栄です、ミスター・セロニアス・モンク。あなたのフレーズはたくさんコピーしました」と返した。直立不動になった僕は、感激して足が震えていた。背中に一筋の汗が流れた。「じゃぁ、手始めにちょっとやるか。どんな機材が欲しい?」と聞かれたので、「ギターは1952年のテレキャスター。一度弾いてみたかった憧れのギターなんですよ。アンプは1953年のアンペグM12。できれば、アンプは僕の家から持ってきてくれないですか?エフェクターと一緒に。なんてね」と答えると、すぐさまそれが全てステージに現れた。もう、何も驚かなくなった。「曲は?」と聞かれたので「ブルー・モンクでお願いします、ミスターモンク」と返したところ「こんなクソみたいな曲を?はっは」とモンクはニンマリと笑顔。
モンクがくわえタバコで目を瞑って頭をゆっくり振りながらソロをとっている時に、いつの間にかヤマダがステージの端にいた。
「悪くないでしょ。いっそのことここに住んじゃえば?食べたいもの、飲みたいもの、欲しいものは全て用意してあげるわ。行きたいところはどこだって連れて行ってあげる。好きな時に名古屋に返してあげるから。名古屋に帰るときは100万円渡すわ」とマイクを持って僕にゆっくりと語りかけながら、ゆっくりと僕に近づいた。
モンクのぶっ飛んだソロにバッキングをしていてテンションがハイになっていたので即答してしまった。
「いいね!!」と大声で叫んだ。
「ディール。そしてこれも宿命よ。私たちは地球人の宿命をある程度は操れるのよ。うふふ」と彼はマイクをステージの床に置いて、僕に耳打ちした。「おおこわ」と僕はおどけてヤマダに聞こえるように大声で言った。
曲が終わると、無人の客席からキンタナ星人たちの大歓声が上がった。
1時間ほどのギグを終えると、「俺はここ長いけど、客の姿が全く見えないっていうのにはいまだに慣れないよ。張り合いがない。奴らは体というものを持っていないから仕方がないけどな」とモンクは僕にウインクした。「じゃあ、悪いけど今日は俺帰るわ。作りかけの曲を今からどうしてもやっつけたくってな。また今度ゆっくり飲もうぜ」と言ってモンクは帰った。
地球人のために用意されたパブのカウンターで一人、その日生まれて初めて飲んだピンクのドンペリをガンカン飲んでヘベレケになっているとヤマダがやってきて、トントンと僕の肩を軽く指でタップした。
「モンクとやってどうだった?」とヤマダは僕に聞いた。
「言うまでもない。しかも僕が見たことのないモンクだった。モンクだけど新しかった。フェンダーローズ使った時にはビックリしたよ。もっとビックリしたのはハモンド弾きだした時だよ。すごく若い頃に教会でオルガン弾いてたとは聞いてたけど、ジャズオルガンあんなに上手に弾けるなんて夢にも思わなかった」と、いささか呂律の回らない僕。
「実はあれ、本当の偽物なのよ。モンクは生きていた頃、たまにここにきていたわ。その時彼に髪の毛をもらったの。その髪の毛から作ったのがさっきの彼。体を構成する有機物質や才能や知性や感性や性格はモンクと全く同じだけど、昔の彼ではないわ。モンクは死んだ。でも彼は生きている。さらに成長している。だから、いいミュージシャンを誘拐する手間が省ける」
「ふーん、そりゃ大したもんだ。ぜひ最新のアルバム聴きたいな」
「この間レコーディングした音源があるから後で聞かせてあげるわ。そうそう、あなたの髪の毛くれないかしら」とヤマダは聞いてきた。
「鼻毛じゃダメかな?」と僕は返した。
「いいわよ。その方がコンパクトだから」とヤマダは微笑んで言った。
僕は髪の毛を抜いてヤマダにあげた。
喧騒の中、カウンターの端で「あちらのお嬢さんにドライマティーニ!!」とハンフリー・ボガートがバーテンダーに怒鳴っていた。彼の指がさす方を目で追うと、その先には反対側のカウンター席の端で一人飲んでいる20代の美空ひばりがいた。店の奥のテーブルではアンドレ・ザ・ジャイアントと倉橋由美子とバスター・キートンと永谷園の柳家小さんが楽しそうに会話しながら飲んでた。
次の日、ヤマダが僕の部屋にあるものを全部持って来てくれた。ヤマダは早速髪の毛から僕のレプリカを作ってくれて、レプリカが地球の僕をしてくれた。
キンタナ星で、僕は毎晩のように、夢のようなメンツとギグをした。ジャコ・パストリアスとも演った。ビリー・ホリデイのバックも演った。彼女を誘ってみたが断られたので、そちらの方のバックは残念ながらできなかった。本物がまだ地球にいるビル・フリゼールと、モーリス・ラヴェルとデュアン・オールマンのレッスンを受けることができた。理論はもちろんモンクに習った。ジミ・ヘンドリックスにアーミングのコツや上手なエフェクターの使い方を習うことができたし、悪魔に魂を売ったロバート・ジョンソンに、悪魔のグルーヴを習うこともできた。何一つ吸収はできなかったが、クラレンス・ホワイトによる極上なカントリーギターのレッスンも受けることができた。ジェームス・ブラウンにはダンスの手ほどきを受けた。たまに、僕のサイクリングにマルコ・パンターニが付き合ってくれた。
最高に贅沢なものをたらふく食べ、最高にいいお酒をしこたま飲んで、というような生活をするようになった。
夏目漱石やロバート・キャパや岡本太郎や人見絹枝やベー・ブルースやカート・コバーンやチェ・ゲバラやスザンヌ・ランランといった飲み友達もできた。もちろんモンクともよく飲んだ。
スザンヌとはたまにセックスした。頭がいいアスリートに滅法弱い僕。彼女は奔放な人で、周囲のアーティストと思想家とアスリートはほとんど彼女としていた。でも彼女は決してイカなかった。なぜだか、そこが良かった。
グルーチョ・マルクスから、ジョークのセンスを学んだ。
地球にいた頃大好きだったヴィトゲンシュタインにはとても嫌われてしまった。「大バカと話す主義は私にはない」と言われてしまった。「不可知論?そんなものはクソ以下だ。若気の至りで『論理哲学論考』を書いたことが、私の人生における唯一の汚点だと思っている。私はキリスト教にこそ真理があると確信している。君とは話が噛み合わない」と彼に言われてしまった。僕も彼にがっかりした。
キンタナ星人の友達はヤマダだけだった。というより、ヤマダ以外のキンタナ星人には一度も会ったことが無かった。
アトラクションを見ることが許されるのはキンタナ星人だけだった。なので僕ら地球人はお互いのパフォーマンスを直接見ることができなかったが、特殊な装置を装着すると疑似体験できる。歯医者の椅子のよう形で、脊髄に極細の針を刺すのだが、ほんの少しチクリとした瞬間に、あらゆる知覚はまさにライブを感じてくれる。
僕は人見絹枝とフローレンス・スジョイナーのマラソン一騎打ちを疑似体験してオナニーするのが好きだった。慣れない長距離で苦悶の表情を浮かべる彼女たちは最高のオカズだ。
ジョイナーを口説こうとしたが、あっさりと断られ、それ以降、口も聞いてくれなくなった。
酔った勢いで人見絹枝を誘ったが見事に断られた。でも彼女は、それ以降も飲み友達として普通に接してくれた。
そーれのあんかけスパゲッティと大島屋の味噌煮込みうどんがリクエストできるので、名古屋に帰る必要は全く無くなった、お盆と正月とゴールデンウィークを除いては。
いつの間にか若い清少納言が僕のガールフレンドになっていた。キンタナ星で彼女はセイコと名乗っていた。「セイショーもナゴンも言いにくいしダサいじゃん」とのこと。そりゃそうだ。だから僕も彼女をセイコと呼んでいた。僕らが知る、絵巻物に書かれた顔とは違い、どことなくアンネ・フランクに似ていて、堀が深く大きな瞳のずいぶんとコケティシュな顔立ちだった。「あれは抽象画よ。当時はあの顔じゃなきゃウケなかったのよ。第一あんなに顔でかいわけないじゃん」と彼女は言っていた。ショートカットと黒のタイトなワンピースがよく似合うモダンでクールな女性だった。清少納言と毎朝のようにセックス していた。彼女はワキガだったが、それがたまらなく僕を興奮させる。彼女がいつもつけているシャネルのエゴイストの香りとワキガの匂いのブレンドは、その度ごとに僕のエロティズムを狂おしいほどに掻き立てていた。
僕は朝か昼間にしたい派だ。セックス は愛情がどれだけ深いかを測るロマンティックなスポーツだと思ってるから夜に酔っ払ってしたくはない。僕たちのセックス が終わるとキンタナ星人の拍手が聞こえた。
彼女は毎回何度もイク好きものだった。
その上彼女はぬか漬けをつけるのがうまかった。
とても賢く、物知りで、ユニークな女性だった。
彼女はジョン・ケージとモンクとデュラン・デュランとジョー・サトリアーニを好んで聴いていた。
「あなたのギターはまあまあね」とよく言われた。本心だと思う。
僕は心から彼女を愛していた。
マイケル・ジャクソンから譲ってもらったバブルスの子供が
僕らのペットだった。
キンタナ星で貴族のような生活をし始めてだいたい3年経った真夏のある日、名古屋にいる父親から電話があった。
「お母さんが危ないんだ。今日明日がヤマらしい」と父親は言った。
母親は、その7ヶ月前に乳がんだと診断された。ステージ4の末期がんだった。余命3ヶ月と医師から伝えられた。
その冬の時期から、僕は毎週日曜日にヤマダにリンカーンで名古屋に連れてってもらって母親のお見舞いに行っていた。母親の大好物のみかんの缶詰と三ツ矢サイダーを持って。
「チャンク、工場はまだ寒いよね。頑張ってね」と母親から言われた時に、胸が傷んだ。
母親がステージ4のがんだと伝えられた時、僕はヤマダに「ヤマダちゃん、なんとかならないの?」と訊いた。「キンタナのルールでは、動物園にいない地球人は治療できないの」とヤマダは言った。「じゃあお母さんを動物園に入れてよ。頼む」と僕は頭を下げて懇願した。「それも無理。動物園に迎え入れるためには基準があって、残念ながらあなたのお母さんはその基準を満たしていないの。そして、私にはルールを変える権限はないわ。ディールできない。本当にごめんなさい」とヤマダは軽くカイゼル髭をにじりながら静かに言った。
僕は諦めるしかないようだ。
「なんて言葉をかけていいかわからないけど、あなたの心が痛むと私もすごく悲しくなるわ」とヤマダ。
涙が出て来た。母親を助けられない悔しさとヤマダの暖かい思いやりから。ヤマダの目尻のシワから優しさがにじみ出ていた。鼈甲のメガネのフレームが鈍く光っていた。
父親からの電話を受けて、すぐさまヤマダに電話した。「お母さんが死にそうなんだ。名古屋に今すぐ連れてってよ!」と。
その瞬間リンカーンに乗ったヤマダが僕の目の前に現れた。「アイムレディ!さあ早く乗って!」とヤマダは叫んだ。
僕は黒塗りの73年製リンカーンコンチネンタルに急いで乗り込んだ。
キンタナ星人たちは拍手喝采した。
リンカーンに乗り込んでから10分ほど経過したところ、後部座席から突然ピストルとスプレーが現れた。ピストルは僕の方に向けられ、スプレーはヤマダの方に向けられていた。
「今から俺のいうことに従え。さもなければ命はないぞ」とピストルとスプレーは訥々と言った。どすの効いた非常に低い声だった。
ビールのような黄色い大気に一つ大きな泡が浮かんだ。
「あなたは誰?」とヤマダ。
「なぜ名乗らなければならないんだ」とピストルとスプレー。
僕には見ることができないキンタナ星人に違いない。
「どうやってここに入ることができたの?トランスポーテーションバリアは完璧にしたはずなのに」とヤマダが尋ねると、「俺は秘密諜報部にいるから、バリアを破るのなんて朝飯前だ」と名無しは答えた。
「フマキロンなんてどこで手に入れたの?あれは、私たちが永遠に生きられるために20億年前に政府が保有と製造を全面的に禁止したはずよ」とヤマダが名無しに訊くと「そんなことをお前に教える筋合いはない」と名無しは答えた。
スプレーに入ったフマキロンとはおそらくキンタナ星人を殺せる唯一の薬品みたいなもののことだろう。
「要求は何?」
「まずは、チャンクのレプリカのログインIDとパスワードを教えろ。そしてこいつの口座に100億円今すぐ振り込むんだ」「あとひとつ。お前のマイナンバーとパスワードも教えろ」
「100億円なんて大金今すぐは無理よ」とヤマダ。
「嘘をつくとお前たちの命は保証できないぞ。地球人担当の最高責任者だろう、お前は。お前の裁量で100億までなら上司に報告しなくても作れるはずだ。これ以上嘘は無しだ」
「なんでこんなことするの?永久に生きられて、誰にでも完璧に向いた仕事を与えられて、苦労せずにすごく贅沢できるキンタナ星人でいることに何が不満なの?」とヤマダが尋ねると、「ダラダラと、つまらないことをしながら永遠に生きるなんていう地獄から俺は逃げたいんだ。俺は本当の意味で生きたいんだ。消滅、すなはち死があるから、こいつらは生き生きとしているんだ。リアルな生を俺は選びたいんだ」と名無しが答えた。
僕には、名無しの言っていることは正論のように聞こえた。
ヤマダはリンカーンを止めて、後部座席に移ると僕のレプリカのログインIDとパスワードと、ヤマダのマイナンバーとそのパスワードを名無しに伝え、目を瞑って「100億円チャンクの口座に振り込んでちょうだい」とつぶやいた。
間をおいて名無しは念仏のようなものをぶつぶつと小さな声で唱えると「確認した。ご苦労だったな」と言って、シューっとフマキロンをヤマダにかけた。
「話が違うじゃない!!」とヤマダが叫ぶと、「俺はお前たちを助けるとは一言も言っていない」と名無しは冷淡に答えた。
「警察が黙っちゃいないわよ」とヤマダが言うと「俺はお前のマイナンバーとパスワードを知っているんだ。身の安全が完璧に確保されるまでの間、お前のふりをして、お前の上司に報告書をせっせと書けばいいだけだ」と名無し。
キンタナ星人は目で姿を見ることができないので、マイナンバーとパスワードさえ知っていれば簡単に他人のフリをできるということなのか。
「お願いですからレプリカにログインするのはチャンクのお母さんの初七日まで待ってください」とヤマダは懇願した。
「可愛そうだが、ログインはする。俺の身の安全のために。ただこいつの母親の初七日までは、お前が入力したチャンクのプログラムはいじらないし消去もしない。お前への礼のつもりだ」
僕の腕の中で「・・・・チャンク・・・・こんなことになってしまって本当にごめんなさい・・・・この人がプログラムを妨げなければ、レプリカはあなたの代わりにお母さんを、あなたと全く同じように見送ってくれるわ・・・・あなたにはハッピーなシナリオを書いたはずだけど書き換えられたみたい・・・・・・私あなたを愛していた・・・心の底から・・・悲しい宿命になっちゃったわね・・・ごめんなさいね、チャンク・・・さようなら・・・」とヤマダはか細い声で呟いた。
僕はヤマダのおでこに軽くキスをした。
ヤマダは全く力のない笑顔を見せてくれた。それからすぐにヤマダは絶命した。カイゼル髭から、鼈甲のめがねフレームから力が徐々に抜けてゆくように見えた。元々しわくちゃだった三船敏郎似の顔がさらにしわくちゃになり、小さくしなしなと萎んだ。
「さて・・・・。これからお前に大自然の中で苦痛の全くない緩やかな、そして心地いい死を用意してやろう。動物園で俺を楽しませて、俺に気持ちよく生きるヒントを与えてくれたせめてのものお礼だ。俺はロマンチストなんだ」と名無しが言った瞬間、建物ひとつない真夜中の砂漠の平原に僕はたった一人立っていた。
真っ暗な空からチラチラと雪が降っていた。
しばらく時間をおくと、瞬く間に猛吹雪になった。
ゴロゴロと雷が鳴った。
あっという間に、雪が足首までつもり、膝までつもり、腰までつもり、やがて胸のあたりまで積もった。
不思議と冷たいとは感じなかった。
逆に心地よい暖かさを感じた。
ポカポカと体が温まって、温泉に浸かっているようで気持ちよかった。
ゴーという強い風の音に紛れてシンシンシンと雪の積もる音がした。
僕の頭の中で、グレン・グールドがゴルトベルク変奏曲をおもむろに、微かな唸り声を漏らしながらとても静かな音量で弾き出した。
”ああ、これから間違いなく死ぬんだ”と僕は感じていた。
「ゴルゴ13なら、こんな局面をどう切り抜けるのかなぁ」と小さく声を出して呟いた。
本当に知りたかった。
助かりたいからではなく単純に興味があった、ゴルゴの大ファンだから。
「お父さんお母さん、ごめんなさい」と僕はつぶやいた。両親より先に死ぬのか後に死ぬのか、ただ順番が逆になるだけなので本当はそれほど申し訳なく思ったわけではないが、なんとなく、そう思うことで義理立てしたかった。
”ああ、これから死ぬんだ”と五感で感じていた。
全く怖くはなかった。
それどころか感動していた。
なぜだかわからないけどすごく感動して、濃厚な幸福感に包まれていた。
感動して涙が溢れて止まらなかった。
まつ毛が凍っていった。
こんな宿命も悪くない。
ロマンチックなエンディングだと思った。
これはキンタナ星人が書いたシナリオなのか?
結構なことじゃないか。
素晴らしいシナリオじゃないか。
多分ヤマダが書いた僕の人生のシナリオに手を加えた名無しは、もしかしたらシナリオライターとしての才能が結構あるのかもしれない。
僕にはキンタナ星人が書いたシナリオ通りに生きること以外の選択肢はなかったかもしれない。
それでも僕は自由に楽しく生き切った。
「こんなに素晴らしい死を与えてくれてありがとう」と名無しに言った。
「素晴らしい人生だったと伝えてください」と僕はヴィトゲンシュタインの最期の言葉を概ねパクってつぶやいた。父親と母親と清少納言とヤマダにこの言葉が伝われと願って。
その瞬間、僕のペニスは勃起し、射精した。
グレン・グールドのピアノが緩やかにフェードアウトしてゆき、それに合わせて全身の筋肉が弛緩し、僕の記憶は緩やかに薄れて消えかけて、緩やかに放尿し、緩やかに脱糞して、かろうじてその快感を覚えた。
それから僕の意識は完全に消えた。