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あれもこれも、それも優しさ
優しさを受け取る人、
発信する人、
どちらも優しいこころの持ち主。
優しさを渡せる人は、もちろん優しい人。
そして優しさを受け取れる人は、優しい人。
"優しいこころ"
"感謝するこころ"を持っているのは、どちらも当たり前じゃない。
"優しさは才能"と言われることもあるように。
"人に優しく"
その"人に"の部分にかならず"自分"も含んでいてほしい。
優しさはカタチないものだけれど、もし形にしてあなたの中から取り出したとして。
その気持ちをわってみて、これは自分への分として、のこしておいてほしい。
その気持ちをどうか周りだけに配りきってしまわないように。
人に優しくできる人は自分に優しくできる人。
自分に優しくできる人は人に優しくできる人。
そんな風に循環しているのだと思う。
例えるなら、電車の山手線や大阪環状線みたいに。(例え合ってる?)
"優しくしなければ"、"感謝しなければ"、そう駆り立てられる瞬間があるならば。
それはもともとあなたの中に、そのこころがある証。
だから心配なんてしなくていい。
あなたは、ちゃんとそんな、きよらかな美しいこころを持っている。
そのようになかば強引さをまとって、この言葉が迫ってくるならば、その時は無理にそうしなくていい。
今あなたはあなたへと優しさを向けるときという、一つの合図なのかもしれない。
もし、環境や性質によって、"人に優しく"と、周りや自分に言い聞かせられすぎてきたのだとしたら、少しその優しさを向ける方向を自分にギアチェンジしてみてほしい。
そうして、自分のこころのコップに自分への優しさがそそがれていけば、きっとその、他を想う気持ちはあなたのもとへとちゃんと帰ってくる。
上記の環境や性質があったなら、それも当たり前じゃないって私は思っている。(いい意味で)
こんな世の中で、"優しくありたい"なんて、みんなが皆易々と思えないと私は思う。
そして、もしかしたらどこかに過剰な部分はあったかもしれないけれど、"人に優しく"と教えられること自体は、私は尊ぶべきことと思う。
(過剰だったならばその言葉と少し距離を保ち、こころが守られていくことが大優先という大前提で。)
この世の中、生きる中でそういうこと(言葉や教訓)に触れられないこともあり得るから。
争いなどが起こるこの世界で。
私は優しい人になりたい。
感謝できる人でありたい。
人にも自分にも、ものごとにも。
そう考えてみたときにも、やっぱり私は完全体でない方がいい。
(最近自分のたりなさにむしろ感謝している日々。)
お互いに受け取るためには凸凹である方がいい。ほころびはあった方がいい。
優しさを受け取るこころもまた優しさ。
だから、もらってばっかりなんてことはないんだ。
"ありがとう"と言っていくこともまた人に感謝を渡していること。
人に感謝することは、もらっているだけに見えて、実は最強の利他なのかもしれない。
感謝されたら多くの人は嬉しいもの。
私たちはお互いに与え合って生きているんだ。
なんにもできていない、してもらってばっかりと思うことはそれはそれで大切にしながら、そう思うばかりではなくていいんだ。
そうしたら、もう少し、胸を張って、生きられる気がした。
"役に立つ"とか、"ひとのため"って、なんか難しく考えすぎていたかもしれない。
"そんなことできないな"
もしくは"そんなに、できないなあ"って。
そんなことはないのだから、(そんなにハードルを上げることはないのだから、)ちいさなことをコツコツと積み重ねていける人になりたいと思う。
ここまでお時間いただき、ありがとうございました。
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