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第三三節 ”点”と”線”

 二〇一七年というセレッソ大阪にとって重要な一年を語る前に、言っておかなければならないことがある。
 クラブにとっての悲願は主要大会におけるタイトルだ。しかしながら日本フットボールリーグ(JFL)の優勝以外になにかを成し遂げたのかと言われれば皆無である(J1昇格プレーオフを主要大会と認めていいかどうかは議論の的だ。もし是とするのならば一応優勝したことにはなっている)。
 いつしかシルバーコレクターとさえも呼ばれなくなった。セレッソ大阪として、大阪市のサッカークラブとして、どうしてもタイトルを手に入れなければならない。でなければこの先の未来までもが危うい。ぼくの直感がそう語りかけていた。
 そういうぼく自身、この、クラブの未来という言葉だけを信じて突き進んできた気がする。
 でも、幾年ものあいだ何度も何度も打ち続けた”点”は結局のところ実を結んだのだろうか。ときどきそう思う。力なく足元に散らばっている、形にもならない破片が否が応でも目に入ってきた。
 不遇のJ2期間ではそのことばかりを考えていた。とにかくなにかを見せる。形で見せる。行動で見せる。まさしく山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」。これから先というか、次の時代は次の世代が作っていくものだ。
 そんなさなか、瀬古歩夢が一六歳一一ヶ月という若さでトップデビューを果たした。彼が一二歳の頃から注目していたぼくは、試合を眺めながら昨年インドで生まれた奇妙な”点”と”線”をなぜか思い出していた。

『これは行くしかないと思うわ』
 U―16日本代表のメンバーを見た瞬間、ぼくはインド在住のアミーゴにメッセージを送った。場所はインド西部のリゾート地、ゴア。もちろんぼくはゴアどころか人口十三億人を超える大国を訪れたことがなかった。
 どれくらい手間がかかるのかまったくわからない。だけどどうしても彼の地に行かなければならない理由が存在した。なぜならセレッソ大阪U―15、U―18から実に七名もの選手が日本代表に選出されていたからだ。
 ましてやメンバーのひとりに我が故郷の大阪市大正区から瀬古歩夢が選ばれている。東京に住みはじめて一〇年近く経ってはいても、ぼくの大正魂が消えることはない。是が非でも行くしかない。すぐさまぼくはインターネットでトラベルビザを発行した。
 わずか一試合だけの観戦。四日間という短い滞在期間。試合を見つめる日本人はわずかに五人。それでも、こういうときだからこそ、ぼくは”点”を打ち続けなければならなかった。
 ぼくが欲しい宝物なんて簡単に見つかるものだ。
 試合終了後、アミーゴとぼくは選手の出待ちをした。不惑の年をとうに超えた赤の他人のおっさんが一五歳の少年を出迎える。サッカー、Jリーグ、セレッソ大阪がなければこんな場面は到底ありえない。
 次々とゲートから出てくるセレッソ大阪の未来 ― だけでなく日本の未来を担う若者たちと言葉を交わす。瀬古歩夢選手はぼくが地元大正区のことを話すと嬉しそうな顔を見せ、本当にありがとうございます、と大きな声で言った。
 さらにU―16日本代表監督がぼくらを見つけて歩み寄ってきてくれた(そりゃそうである。この試合を見るためだけに日本から駆けつけたサポーターなのだから、もはやこの時点でアミーゴだ)。
「遠くまで応援に来てくださってありがとうございます」
「だってセレッソから七人も選んでくれたら来るしかないっすよ」
「たしかに」何度もうなづきながらU―16日本代表監督は言葉を続けた。
「でもそう言ってくれるサポーターがいるクラブは本当に・・・素晴らしいよ」
 最後の、素晴らしいよ、に力を込めるところがこの監督らしさだ。
 もしかするとこんな言葉を食すために、サポーターという生き物はあっちこっち世界中を駆け回るのかもしれない。
 称賛されなくてもいい。ただそこにいて、チームを選手を励まし、力づけ、そっと寄り添う。見返りを求めぬ”点”が感謝の”線”でつながる瞬間だった。
 当事者の瀬古歩夢は今やトップレベルでプレーしている。やっぱりセレッソ大阪アカデミー、そして、このクラブの未来は明るい。
 誇りを胸に抱いて見上げたあの日のゴアの青空がぼくの脳裏から消えることなど生涯ないだろう(誤算だったのはムンバイにいるはずのディエゴ・フォルランに会うことが最後の最後まで叶わなかったことだけだ)。

 シーズンがはじまった頃には尹晶煥の率いるチームが優勝にたどり着くかどうかなんて考えることさえできなかった。それでも二〇一七年シーズンのセレッソ大阪はルヴァンカップと天皇杯の二冠を勝ち取った。
 ターンオーバーは着実に若手を活性化させ、相乗効果でチームの連帯感が深まった。勝利を手にするたびに少しずつ不安が取り払われていき、なにか確信に近い気持ちが芽生えつつあった。
 ルヴァンカップ優勝の鍵となったのがセミファイナルセカンドレグの第二戦だ。
 試合当日の朝。
 起床した瞬間なんとなくではあるものの、ぼんやりと勝利の予感が降りてきた気がした。ぼくは当日の予定をすべてキャンセルし、急ぎ足最寄り駅へと向かった。
 羽田空港から伊丹空港まで飛び、モノレールで万博公園を往復する間に試合を観戦し、そのまま東京へ戻る。旅と呼ぶのもおこがましいありさまだった(伊丹空港ではなんとか蕎麦をすすることができた)。
 この試合のもうひとつのハイライトは、何年ぶりになるのかわからないくらい九〇分プラスアディショナルタイムをゴール裏で立って過ごしたことだ。
 この場所にいる人間の熱さと反比例するかのように体力の衰えを感じた。
 込み上げてくる感情からか。それとも勝利の雄叫びなのか。木本 恭生のゴールが決まった瞬間に、もうどっちでもいいやと思えるくらい心の底から叫んだ。
 浦和レッズとの準々決勝セカンドレグでも心が震えたのを思い出す。この試合の左サイドバック丸橋祐介は正直神がかっていた。
 神田勝夫からはじまるセレッソ大阪の超攻撃的左サイドバック。いつどこでスイッチが入って覚醒するのかまったくわからない。そして、ときにとんでもないゴールをいとも簡単に決める ― 現に決めた。
 ルヴァンカップ決勝前日を迎えた。
 過去に何度もはしゃぎすぎて失敗した苦い過去が蘇ってくる。もう二度と同じ徹を踏んではいけない。そう心に決め、実に穏やかな一日を過ごした。
 二〇年以上をともに歩んできたアミーゴと、焼き鳥を食べながら思い出話に花を咲かせた。
 何事もなかったように家路につき、何事もなかったように床につく。夜が明けるのをぼくはひたすら待っていた。

 朝、目覚めると、そこにはあった。
 それは、焦りも徹夜もない、本当に気楽なファイナルだ。なんだか時間もゆったりと進んでいる気がする。ゆっくりと、それでもって試合と一体化していくような感覚がぼくを包んでいった。
 地下鉄浅草線と大江戸線を使って春日駅まで行き、南北線に乗り換えて終点の浦和美園駅を目指す。ピンク色と青色のユニフォームで描かれる電車内のコントラスト。笑いが込み上げるのをぼくは抑え切れなかった。
 こんなにまで緊張感のない決勝戦はいまだかつてなかったな。そんなどうでもいい思い出に耽っているうちに終着駅で電車は止まった。
 降車ドアから出ようとするぼくの目の前を見知った顔がすっと通り過ぎた。ラジオ番組ANIMO CEREZO!でもお世話になったあのスタッフだった。
「おはよう。いよいよやね」
 視線を合わせるなり話しかけてきた。ぼくの存在はもっと前に電車内で見つけていたらしい。
 それにしてもいったい何度目の「いよいよ」やねん。ぼくはそう思ったけれど、何倍もの言葉の弾丸によって逆襲されることを恐れ、あえて口には出さなかった。
 セレッソ大阪というサッカークラブが創立して以来、常に”点”を”線”で結んできた。そんな付き合いだった。だからどんなときでもこのスタッフとは意思疎通ができていると感じられた。
「今日、絶対勝てる…はず。なんかそんな予感がしてる」
 エスカレーターを登り切り、改札の手前まで行くとスタッフがぼそっとつぶやいた。ぼくはどう反応すべきか悩み、いやほんまに、と、ぼそっとつぶやき返した。
「ここで勝たれへんかったら、もう二度と勝てんかもしれませんね。そう、未来永劫」
 ネガティブな言葉を使ってしまったかな。ぼくは反省した。多くのセレッソ大阪サポーターの心の声を代弁したつもりだった。
 なにより相手は一ヶ月前に一対五という屈辱的敗戦をくらったばかりの川崎フロンターレなわけだ。
 涙すら出ないこの試合で目が覚めたというか、おかげでセミファイナルの大阪ダービーで勝利を掴み取ることができた。今なら勝ち負けのレベルであることに異論はなかった・・・それでも。
 そして、二〇一七年と”線”でつながっている一九九五年から続く呪縛に囚われているのも否めなかった。歴史の負の側面とは得てしてこういうものだ。
 とにかく今日勝たなければ四半世紀のぼくのセレッソライフすら意味のないものへと成り下がってしまう。
 そんなひとりよがりの危惧が浦和美園駅の改札を通り抜ける一八〇センチの身体を厚く覆っていた。
 この国のサッカーの時間軸で考えれば二、三十年なんて単なる”点”でしかない。
 それでも”点”と”点”をつなぎ合わせて”線”にしていけるのは、そんな歴史を知っている人間だからこそでもある。
 同志と呼べるこのスタッフと駅前で別れたあと、埼玉スタジアム二〇〇二へと向かうクソ長い道のりをぼくはただただ気楽に歩き続けた。
 すこぶる天気が良い。それが勝利への一番の要素だ(正直言うとこの天候を見た瞬間に我らの優勝を確信した。だいたいのケースで雨男の本領を発揮してきたけど、今回ばかりは天が味方してくれている気がした)。

 あえてぼくは森島寛晃のユニフォームを着た。このシャツを着なければならないと感じたからだった。
 コレオも、試合中の応援も、終了間際の凱歌も、なにもかもが二五年前とは比べものにならないくらいのクオリティ。見事なくらい”点と点”が”線”でつながっている。二対〇以上の喜びがほかにあるだろうか。
 緑鮮やかな芝生の上で喜ぶ選手たちの姿が見える。あの四日市のように選手とサポーターがピッチレベルで「大阪の街の誇り」と歌うことはもうできないだろう。だけどあの頃よりも選手との”線”は長く、そして、太くなっている。
 セレモニーが終わった。ぼくは彼らの顔を見たくなって、コンコースを通ってゴール裏へと向かった。
 大きなREAL OSAKA ULTRASのバナーをたたんでいる多くのアミーゴが視界に入ってきた。これまで幾多の戦場をともに走り続けた仲間たちと握手やハグを繰り返した。
 穏やかな、とても穏やかな優勝の気分をぼくは味わっていた。でも、あの頃のように死んでもいいとは思わなかった。もっとタイトルを取る姿を見たくなった。

 目の前にありながらも、がむしゃらに追い求めていたときには手が届かなかった。どうなってもええやんと運命を受け入れて気楽に戦った途端に向こうからやってきたりする。
 サッカーの神様はなんて天邪鬼なのだろう。ぼくはふと思った。いや、よくよく考えてみたらぼく自身だって相当な天邪鬼じゃないか。天邪鬼と天邪鬼が”線”でつながる。実に生き甲斐のあるセレッソライフである。
 二〇一七年シーズンが終わった。
 優勝気分で吹っ飛んでしまっているけれど実のところサッカーショップ蹴球堂は二年連続で水漏れ事故に見舞われていた。セレッソ大阪の輝かしい栄光の裏ではこんなふうに多くの不幸もやってきていた。
 ルヴァンカップと天皇杯という晴れ。そして、蹴球堂の水漏れという雨。そんなダブルをぼくは手に入れた。人生というものはどこまで行っても帳尻が合っている。それだけは声を大にして言える。
 七転び八起き。三歩進んで二歩下がる。
 だからこそ”点”は必ず”線”でつながる。
 ぼくという”点”は、これからどのようにセレッソ大阪と結ばれていくのだろうか。あのファイナルの、あの握手とハグのぬくもりと、ゴアでもらった宝物は、きっと答えを知っているはずだ。

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