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第二八節 東日本大震災

二〇一一年二月二六日土曜日五時一〇分。

 二〇年経たずしてアジアとの戦いに挑めるとぼくは想像すらしていなかった。昨年のJ1リーグ三位という成績は、はたして実力なのか、それともフロックと呼ばなきゃならないのか。判断することなどぼくには到底不可能だった。
 ただひとつ言えるのは、結果としてこうなったという事実だけがそこにあることだ。穿った見方をせず素直に受け入れていくのも人にとっての成長への大事な要素だ(プロレスで言ったら若手レスラーをタイトルマッチに挑戦させることに近いのかもしれない。勝つか負けるかの次元ではなく、どれだけのインパクトをこの試合で残せるのか、ということにほかならない)。
 Jリーグでの優勝経験すらないセレッソ大阪はどのような戦いができるのか。ぼくは楽しみでならなかった(強いて言うならJFL優勝があるけどカウントするとあのクラブのサポーターからまた揶揄されてしまうので止めておく)。

二〇一一年三月五日土曜日一九時四分。

 ぼくのまっすぐな感情はわずか二試合目で奈落の底へと突き落とされてしまった。AFCチャンピオンズリーグ初戦は勝利したもののJ1開幕戦の大阪ダービーに敗れた(しかもだ。昨年までセレッソ大阪に在籍していたアドリアーノに決められたわけだから怒りが頂点に達して、なにもかもやる気がなくなった)。
 とにかく二〇〇〇年代中頃からダービーでまったく勝てなくなった。二〇〇三年以来勝っていないだけではなく一対七とか二対四とか一対四とか。極めつけはホームで一対六なんていう試合を見せられてもいた。登り切るなんて考えることすら放棄して、下山したいほどの焦燥感だけが残った。
 古今東西、どこまで行ったとしても、ダービーマッチだけは負けてはならない。それがサッカー界の常なのである。なのにこの大事な試合でも勝ち点3を取れない状況。まったくもって苦痛以外のなにものでもなかった。
 一瞬の痛みで済めばいいのだけど、負けかたによってはセレッソ大阪サポーターとしての生涯の傷になることだって充分にありえる。ただひたすらに大阪ダービーでの勝利だけを願う年月が過ぎ去っていった。
 大阪ダービー = 絶対勝利。
 何年も前からセレッソ大阪サポーターの合言葉になっている。久々の勝利を目指し、次の対戦まで指折り数えはじめたそのとき、東北で地震が発生した。人生には三つの坂があるという。上り坂、下り坂、そして、まさか。

二〇一一年三月一一日金曜日一四時四六分。

 ぼくは西新宿にある雑居ビルの九階にいた。その瞬間、正直なにが起こったのか理解ができなかった。免震構造の床がグルングルンしているのをただただ身体に感じるだけだった。
 Jに昇格した一九九五年。神戸の震災のときにも思ったけれど、こういうときこそ勇気を持つ必要がある。また仲間がいなくなるのも嫌だった。サッカーの力で、自分たちの力で、なにかできないものか。素直にそう思った。
 多くのセレッソ大阪サポーターが被災地に向けて支援をはじめた。被災地から九〇〇キロ離れた大阪のサッカーショップ蹴球堂でも募金活動をおこなうことにした。
  物資配送の手続きができると聞いて何年ぶりにJFAビルを訪れた。あのスルガ銀行チャンピオンシップ以来だ。国内外でともに戦った仲間とも再会した。
 微力ながらぼくも支援した。東北をサポートするために皆が一丸となっている。次々と運び出されていく多くの荷物を見て、気づけばぼくは涙を流していた。
 連日のニュースで心を痛めた。できることとできないことの狭間でぼくは葛藤も感じていた。それでも前に進まなければならない。なぜならぼくはセレッソ大阪のサポーターなのだ。Jリーグのサポーターなのだ。それ以上に日本を愛する、いちサポーターなのだ。
 神戸、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナへの支援と同様に、愛する国のためにできることがたくさんあった。ただただひたすらに、がむしゃらに、できることを精一杯やり続けた。

二〇一一年五月二四日火曜日二一時一〇分。

 もうこんな時間なのに、ただただぼくは仕事に没頭している。モチベーション高く働けているとき、そこにあるのは熱意と活力と没頭だ。あるコーチからそう聞いたことがある。多分、それだ。
 いや、言葉でごまかそうとしているだけかもしれない。自分自身を戒めていく。けっして結果を知りたくないわけでもない。だけど、とにかく知ることがとても怖かった。
 二週間前、AFCチャンピオンズリーグ東地区のグループGをセレッソ大阪は四勝二敗の勝ち点一二で突破した。そして今日、敵地でおこなわれているのがラウンド一六のワンマッチなのである。
 なんという星の巡りあわせなのか。
 大阪ダービーマッチ。
 二〇一一年の二度目の対戦。リーグとカップは別腹、と考えてもいいけれど、それはごく普通の相手の場合だ。この場面で、大阪ダービー = 絶対勝利、を脇に置いて戦うなんてできるはずがない。
 平日の夜でもある。大阪にいる ― いまや大阪だけではなく全国区になりつつあり、日本全国各地に点在するセレッソ大阪サポーターは、こぞって万博記念競技場でこの戦いに立ち向かったことだろう。でもぼくは東京で仕事をする選択をした。
 一九時キックオフ。延長にはいっていないとすれば二時間で決着しているはず。そろそろだ。スマートフォンに何度も手が伸びかける。そのたびになけなしの理性を働かせて止める。一分一秒の流れがなんとも言えないくらいゆったりしていた。
 そういや子供の頃は携帯電話など存在すらしていなかったのだ。だから時間という概念はとてもゆるやかだった(あの時代のサッカーも同様だ。ジーコ、ディエゴ・マラドーナ、ロベルト・バッジョ。彼らがボールを持つと試合全体に時間的空間が生まれた)。
 いつからサッカーからファンタジーが薄れていったのだろうか。それだけじゃない。いつからこんな情報化社会になってしまったんだろうか。リアリティばかりが追求されるようになってしまった。
 少なくともそんなリアリティのおかげで日本代表はワールドカップの常連国になり、Jリーグのレベルが格段に上がったとは言えるのだけど。
 余計な妄想が邪魔をしている。今、この瞬間にも周辺の時間的空間が歪んでしまっている気がした。宙をただよう電波はぼくを恍惚とさせる。ぼくはやがて時を追い越し、時に追い越されていくのだ。
 パソコンの横に置いてあるiPhone3GSの着信音がけたたましく鳴った。アミーゴからだった。
「勝ったわ。ようやく、ダービーで勝てたわ」
「やったやん。これで呪縛から解かれるやんか」自分でも呆れるくらいの落ち着いた口調で返答した。
「いや、まだや。今日はたまたま。ちゃんと力と力の真っ向勝負で勝ちきれるチームにせんとあかん」
 精も根も尽き果てたかのような声なのに的確な状況分析をするアミーゴの言葉に、うんうん、とあいづちをいれることしかぼくにはできなかった。
 いったいどれくらいの時間が経ったのだろう。ぼくはいつから大阪ダービーをリアル観戦できていないのだろう。なぜだか急に仲間が恋しくなった。職場にもかかわらず大粒の涙をこぼした。
 イングランドのあのダービーを戦っているあのクラブのエンブレムが染められた大きめのタオルで顔を拭いた。周りには誰もいないはずだ、多分。よかった。明日の噂にはならなさそうだ。

二〇一一年五月二九日日曜日二一時一三分。

 JR新大阪駅から発車した新幹線のぞみに乗っている。長居駅の近くにあるカラオケボックスのイベントスペースではまだ、蹴球堂五周年&ACLベスト八進出記念イベントがうやうやしくおこなわれているはずだ。ぼくは東京へと戻るため、イベントの途中でさっき会場をあとにしたところだった。
 二〇〇六年五月二七日にオープンしてからというもの、毎年のようにイベントを開催していた。
 ブラインドサッカー日本代表キャプテンと二〇〇〇年の長居の悲劇をともに戦ったセレッソ大阪元監督がトークゲストで来てくれた一周年以来、じつに多くのセレッソ大阪関係者が毎回集まってくれた。仲間とともに過ごすこの時間がぼくは心底好きだった。
 今回の五周年イベントの司会進行はスタジアムDJが務めてくれた。クラブからは育成部長が来てくれた(元、例のクラブスタッフだ。昨年「駒川商店街のオフィシャルショップ閉店にともない、サッカーショップ蹴球堂をセレッソ大阪応援店舗として運営してもらえないか」と言ってくれたときは心の底から嬉しかった)。
 さらには例の広報スタッフとモリシも参加してくれたのだ。選手とサポーター、という関係からアンバサダーとオーナー、という関係に変わったけれど、モリシとぼくのセレッソ大阪愛はまったくと言っていいほど変わってはいなかった。
 一九九三年。まだヤンマーディーゼルサッカー部だった頃。尼崎にある練習場で言葉を交わしてからもう一八年もの歳月が過ぎている。Jリーグという文化、セレッソ大阪という文化のパス交換。モリシとのあいだで今も続けられていることにぼくは深く感謝した。
 ACLの大阪ダービー直後だっただけに五周年イベントの盛りあがりは最高潮に達した。帰京するのがとてもつらかった。だけどこれも運命なのだとぼくは受け入れた。
 クラブ創設一五周年にセレッソ大阪サポーター有志で創った楽曲のFor The Top of Dreams。そして、サポーターソングとしてすでに伝説の域に達している”誇り”をアミーゴとぼくで熱唱したのはついさっきの話だ。
 人生はいつでも夢の続きである。それを食べるだけでは生きていけないのだろうけれど、この愛すべき仲間と一緒に夢の続きを見ていたいのだ。車窓に流れる暗がりに目をやりながら、ぼくは幕の内弁当へとはしをつけた。

 二〇一一年一二月二九日木曜日一七時一〇分。

 長居スタジアムでおこなわれた天皇杯準決勝。レヴィー・クルピ監督最後の試合でセレッソ大阪が惜敗したとき、またしてもぼくは職場にいた。重要なゲームがあると、どうも仕事がはいってしまうらしい。
 J1リーグは一二位でフィニッシュ。予選を免除されたヤマザキナビスコカップはベスト八止まり。そして、セレッソ大阪初のアジアでの戦いも八強で終えた(結局ぼくはAFCチャンピオンズリーグの試合を一度もスタジアムで見ないままシーズンを終えることになった。ぼくがアジアの国々に行き着くのはいったいいつになるのだろう)。
 セレッソ大阪サポーターライフ史上で、ありがたくない”スタジアム観戦が一番少ない年”となってしまった。それでも、そんな状況だったとしても必ず見にいこうと決めていたのが一〇月二日のアウェイのベガルタ仙台戦だった。
 ユアテックスタジアム仙台に来るのは二度目 ― 初体験は二〇〇〇年のヤマザキナビスコカップだった。このとき、スタジアム内で目視できたセレッソ大阪サポーターは僕を除けばたったひとりだ ― で、東京発の新幹線での来仙は初めてでもあった。
 どうしても車窓のなかの震災の傷跡が目にはいってくる。ブルーシート。仮設住宅。直視することすらままならなかった。
 電車を乗り継ぎスタジアムに到着する。セレッソ大阪サポーター有志が招待した被災者の方々と一緒の時間を過ごした記憶が鮮明に蘇る。
「あの光景を一生忘れんやろうな」年末年始休暇のさなかにオフィスで仕事をしているぼくはひとり唇を噛んだ。上り坂、下り坂、まさか。ぼくはあのとき真剣だったのだろうか。ちゃんと坂を上って下れたのだろうか。
 この半年と三ヶ月で、東北に、そして日本に、なにかをもたらすことができたのだろうかと自問自答した。だけど節電対策によってもたらされた暗闇がぼくの目の前には広がっているだけだった。到底「壁打ち」なんてものをできるはずもなかった。

 時計は二〇一一年一二月二九日木曜日二〇時〇六分を指している。

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