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第五章 第二九節 半径九・一五メートルと悪夢の三年間

 父親が死んだ。
 ちょっとした風邪の症状で緊急入院したあと意識がなくなったと母親から連絡をもらった。翌朝、急いで新幹線に乗り込んで大阪へと向かった。病院に着いた頃はまだ小康状態を保っていた。けれどその日の夜中に医師から呼び出された。
 深夜三時。到着すると医師が「お父さんに声をかけてあげてください」とぼくらに向かって言った。母親は何度も、お父さん、お父さん、と呼びかけている。しかしながらぼくには声のかけかたひとつ思い浮かばなかった。
 それでもとにかくこの場でなにかを言ったほうがいいのだろうと思った。「ほら起きや」「寝てたらあかんやろ」。まるでぐうたら息子でも起こすかのようなセリフ。何回かつぶやくだけにぼくは終始した。
 そのあいだも救急の医師は心臓マッサージを繰り返しおこなっている。ぼくにはどうにもテレビドラマのワンシーンのように思えて仕方なかった。けっして冷めているわけでもなく、悲しくないわけでもなかった。ただ、どうしてもすべての物事をリアルに受け止められない自分がそこにいた。
 ぼく自身にも子供の頃に生死をさまよった経験がある(そのときは二日くらい意識が戻らず、両親をひどく悲しませた。申し訳ない)。それ以来、人の生き死にに対して感情が揺さぶられることが少なくなった。
 この現象がぼくの人生にとって幸か不幸か判断すらできないけれど、どちらかにかたよった感情表現なのは間違いない。それはイコール、人の世での生きづらさであることだけは紛れもない事実だった。

 結局、抵抗虚しく、還暦をちょっとだけ過ぎたところで父親は死んだ。誰になんと言われようともぼくにとっての実感は皆無だった。正直に言うとこの瞬間でさえも人の死に対して確かな感情を持てなかった。ぼくの取説にはそう記されているのだろう。
 その日のうちにバタバタと通夜を執りおこない、翌日にバタバタと葬式を終えた(人脈なのか人徳なのかはまったくわからないけれど、信じられないくらいの弔問をいただいた)。
 ぼくは泣かなかった。いや泣けなかった、が正確な表現だろう(そのあと嫌というほど身内から「お前は人間味がなさすぎる」と散々嫌味を言われた。それでも泣けなかったのだから多分本物なのだ)。
 ほんの二日前まではピンピンしていた人間があるとき突然いなくなる。この世の無情さ。その場でなんの感情も表現できなくなる自分。こんなふうに別れがいきなりやってくると、それこそなんにも考えられなくなるものなのだな。ぼくは率直にそう思った。
 脳みその内部で父親との歴史をたどってみた。何度思い返してみても浮かんでくるのは「お前、やらんでええんか?」という言葉だけだった(公園で遊んだ思い出や遊園地に連れていってくれた思い出とかいう、子供の頃の記憶はほぼ見事に消え去っていた)。
 遺品を片づける際に発見した大量の家族写真と大小のレコード盤が悲しげにこちらを見つめてくる。裏側に大きな穴の開いたフォークギターが発掘された。誰の頭で貫かれたのかと考えると心臓の鼓動が激しさを増した(ぼくでないことだけは頭皮が憶えていた)。
 サッカー、ひいてはセレッソ大阪との接点などほんの一センチもなかったはずだ。そんな父親があの日あのときダイニングテーブルで声をかけてくれなかったら、ぼくのセレッソライフ、ぼくのサポーターライフがスタートすることはなかったのだろう。
 なんだかそう考えれば、ぼくの一挙手一投足によって父親も意外とセレッソライフを満喫していたのかもしれないなと思えるようになった(Jリーグがはじまってすぐにぼくは実家から出てひとり暮らし生活だった。その後、ふたり一緒にサッカー観戦なんてこともなかった。それから父親が長居スタジアムやキンチョウスタジアムで試合を観戦したという公式記録だってどこにも残っていない。ましてやアウェイなど!)。
 父親の分までセレッソ大阪をサポートし続けることが最大の供養になる。都合のいい親孝行を思いついたぼくは自分自身にそう言い聞かせた。自分勝手な罪ほろぼしで、見えざる手から許されることを欲していた。

 プライベートな話はさておいて、セレッソ大阪を取り巻く環境も大きく変わった。特に大きな要素として、ここ数年は試合当日におけるスタジアムグッズ売り場の”買えない問題”が大きくなっていた。
 前兆は確かにあった。二〇一一年のアジアでの戦いやロンドンオリンピックでのアカデミー出身選手の活躍 ― 彼らだけではなく清武弘嗣、キム・ボギョンも含めて ― が呼び水になっている。
 三位決定戦の日韓戦では前述の五人全員がプレーするなんていうとんでもないセレッソ大阪ムーブメントが日本国内で巻き起こっていたわけだ。
 思ってもみなかった現象でもあり、長居スタジアム、キンチョウスタジアムのゴール裏には女性サポーターが急増した(もうこの時代に、ゴール裏は男だけの世界、だなんて言葉を叫んでいる旧石器時代の人間も存在しないのだろうけれど)。
 そのようなセレ女ブームの恩恵によってセレッソ大阪のホームゲームは大きな賑わいを見せた。まさに今この瞬間でさえも神の祝福がもたらされている。ムーブメントはそっくりそのままグッズ売り場での売上金額に直結していくわけだ。
 駒川中野商店街のオフィシャルショップ・ロス・ロボスの商品は、数年前にすべてサッカーショップ蹴球堂へ移管されていた(あの育成部長の支援が大きかった。あの方がいなければぼくらの蹴球堂構想なんて夢のまた夢で終わっていたはずだ)。
 試合当日以外でもセレッソ大阪とふれあえる場所、オフィシャルグッズを買うことができる場所がそこにある。雑居ビルのわずか一一坪の小さなサッカーショップに。ロス・ロボスが今でも息をしていたとしてもその事実は変わらない。
 そういう意味でもサッカーショップ蹴球堂とぼくらが背負うものはとてつもなく多かった。中身はともかく抱えている風呂敷だけは、とにかくどこからどう見ても大きかった。

 父親の関係で何度目かの帰省がてら、ホームゲームを見るため長居スタジアムへとぼくは向かった。東京に移り住んでからというもの、大阪に戻ってくる機会すら極端に減っていた。
 今日くらいは試合前に店に顔を出しておこう。ぼくはそう考え、これまでと同様に ― 二〇〇六年五月以降は間違いなくそうしてきた ― 地下鉄長居駅の五番出口を出てあびこ筋を北に向かって歩いた。店内での待ち合わせ時間も差し迫っていた。
 しばらくしてふと前方を見た。ある一画だけかなりの人だかりができていた。ピンク色のウェアに身を包む多くの老若男女が見える。セレッソ大阪サポーターであることに異論はなかった。
 目的地である雑居ビル前に辿り着いた。さきほどから広がっていたピンクの集団の正体がなんなのか。この場所に来てぼくは即座に理解した。。
 それは驚くべき光景だった。セレッソ大阪のサポーター以外 ― いや、セレッソ大阪サポーターであっても決して足を踏み入れないであろう怪しげな建物の小さな入り口に、蟻の這い出る隙間すら見つからないくらいの人だかりができていた。
 サッカーショップ蹴球堂がある二階の一室から階段を経由し、一階のエントランスにかけてその列は伸びているようだ。まるでテーマパークの人気アトラクションの順番待ちみたいだなとぼくは思った。
 夢ではない。この状況が現実をぼくに押し付けてくる。神様の行動はなんて不安定なのだろう。いつも唐突に、不幸と幸せを半径九・一五メートルのぼくのテリトリーへと誘ってくるのだから。
 それから神様はもうひとつ、人混みを苦手とするぼくに、人をかきわけて前に進んでいく、という荒行を強いた。列に並ぶ人たちとすれ違ったところで、誰ひとりぼくの顔など知りもしないだろうけど、なぜだか顔を隠したくなり、ビルの住人を装っていそいそと歩いた。
 問題はそこじゃない。これほどまでにセレッソ大阪のグッズを追い求める人たちがいる。クラブは早くなにかしないといけないだろうな。壁を見つめて歩きながら育成部長へ放つ辛辣な言葉をぼくは考えていた。
 人目も気にせず、やや口角をひきつらせて歩く。行列の続いている通路をなんとか抜け出し、二階へと急いで階段を駆け上がっていった。

 首の皮一枚でJ1に残留した二〇一二年はまたたく間に過ぎていった。それはいい過ぎでもなんでもなく、本当に最後の最後までハラハラドキドキのセレッソライフでもあった。
 シーズン途中でセルジオ・ソアレスの契約を解除したセレッソ大阪が招聘したのがまたもやレヴィー・クルピ。なんと三度目の監督就任だ。
 もちろんセレッソ大阪所属の選手たちがロンドンオリンピックで活躍したし、何年かぶりに大阪ダービーで勝利したのは嬉しい話である。だけど最終節のロスタイム、横山知伸のゴールを見るまでおちおち熟睡できないくらいの消耗ぶりでもあったのだ。
 とにかく、二〇一〇年から二〇一二年の三年間は、ぼくのセレッソライフのなかでも闇と呼べるものだ。セレッソ大阪というサッカークラブとの関わりが本当に少なくなっていた。
 サポーターとしてスタジアムで試合を見られないのは、この世から愛玩犬とハンバーグがなくなってしまうのと同じくらいの悲劇だ。すべての試合がリアルタイム中継されようとも ― たとえ地上波で放送されるとしてもぼくの心がフル充電されることはなかった。
 セレッソ大阪とぼくが再び低迷を迎えるとしたら、間違いなくこの三年間が問題の根本であるとぼくは言い切れるだろう。
 もちろん、降格しなかった奇跡的な三シーズンだったし、柿谷曜一朗も戻ってきたし、AFCチャンピオンズリーグも戦ったわけだから、この説に反論する人は少なからずいるだろう。それでも、どこからどう見てもこの推論はぼくにとって譲れないボーダーラインだ。
 セレッソ大阪にとっての、そしてぼくにとっての不幸と幸せのボールは、幾度となく半径九・一五メートルのサークルから四方八方に蹴り出され続けている。ぼくはわかっていた。口惜しいくらい気づいていた。人生にリセットはないのだ。
 相変わらずサッカーショップ蹴球堂が盛況なことだけが心のよりどころになっていた。
 若手サポーターが代わる代わるスタッフを務めてくれたりした。すべてはセレッソ大阪を愛するというその一点のみでつながっているアミーゴたちだった。
 彼らがいなければ、サッカーショップ蹴球堂なんていう吹けば飛ぶような存在が、長居スタジアムが見えるこの場所にあり続けることなんてできやしなかった。
 取材を受けて、Jリーグの一〇〇年構想のもと、セレッソ大阪が未来永劫に続くのであれば、サッカーショップ蹴球堂もそれに習うべきだ、とかぼくが偉そうに口にしたとしても、アミーゴとの共創がなければ数年ですら実現できなかったに違いない。
 だからこそクラブとの関わり以上にどれだけセレッソ大阪サポーター同士の関わりが大切なのか。そんなものを思い知らされた三年間だったようにぼくには思えた。
 なのに…仲間が何本も何本もボールを入れ続けてくれたのに、ぼくはシュートを打つことすらままならなかった。足元の技術なんてすでになくなっていた。もとより、シュートを打つ勇気すら失っていたのだ。
 そういう意味においてもこの三年間の悪夢はぼく自身からはじまっていたのかもしれない。こんな軟弱なストライカーにこれ以上誰がパスを寄こしてくれるのだろうか。ペナルティキックを蹴らせてくれるのだろうか。
 卑屈になるだけではなにも解決しないのもはっきりしている。手遅れなのかもしれないけれど、それでも自分の生き方そのものを変えていかなければならない。ようやくそのことをぼくは悟りはじめていた。

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