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第三〇節 柿谷曜一朗

 どんなサッカークラブにも思い入れのある背番号が存在している。一〇番なんてものはとてもわかりやすい例だろう。
 キャプテン翼への依存度が高すぎるのか、九番、一〇番、一一番をつけるのは並大抵のことではないし、パワー、技術、そしてガッツのすべてが必要だ。
 さらには海外のサッカー選手もかなりの影響をおよぼしている。
 パオロ・マルディーニなら三番(古い)。
 ヨハン・クライフが好きなら一四番(もっと古い)。
 もちろんクラブによっては愛される番号が違う。この背番号問題についてぼくはいつも思ってしまう。選手が背番号の価値を高めるのか。それとも背番号をつけることによって選手は変わっていくのか、と。
 たとえばサラリーマンを例にしてもよい。課長や主任に昇格したことによってその社員が開花するなんてケースはいくらでもある。だから、役が人を変える可能性だって捨てきれない。
 なんだかんだ言ってもたかだか二〇数年ほどの歴史しかJリーグはない。選手が価値を押しあげた背番号なんてそれほど多いわけでもない。
 そのなかでも唯一ぼくが背番号の価値について一考する必要があると思っていること。それこそがセレッソ大阪の背番号八なのである。

 セレッソ大阪の背番号八はエースナンバーではなくレジェンドナンバーだとよく言われる。
 やはり森島寛晃の功績抜きでは語れない(しかしながらオールドサポーターならご存知だけど黎明期のJリーグは背番号固定制ではなく、試合では一から一五までの番号をつけることになっていた。なので森島寛晃が常にこの八を背負っていたのかと問われると、愚直にもNOと言わざるをえない)。
 彼の偉業がこの番号に多く含まれているけれど、正直なところぼく個人はそれほどのこだわりを持ってはいない(同じことを二〇にも感じる。それはリスペクトがどうとかの次元の話ではない。単なる背番号であって、あえて持ちあげることもないだろうという思いなだけだ)。
 当然これからもスーパーな選手がつけるのだろうし、これらの番号を背負うことによって責任感や重圧を感じてしまうはずでもある。
 レジェンドと肩を並べることによって選手は強くなっていくだろうし、さら言えばアカデミー選手たちの目指すべき方向性にもなっていくはずだ。
 他クラブにも同様のシチュエーションがあるけれど、セレッソ大阪の八には小さく収まりきれないオーラみたいなものが大量に含まれているのだ。だから背負うためには相応の覚悟が必要になる。
 そしてサポーターにどれだけ認められるのかというジレンマに陥る。葛藤と戦い続けることも宿命づけられていく。プレッシャーという言葉のほうがまだぬるま湯だとぼくは思う。

 柿谷曜一朗が二〇一三年シーズンに満を持してこの背番号八のユニフォームに袖を通したときの感激をぼくは生涯忘れないだろう。
 彼が一五歳、一六歳の頃からずっと魅了されてきたのだから至極当然の感情だ。アカデミー出身選手がセレッソ大阪のレジェンドナンバーをつける日がようやく来たのだから。
 柿谷曜一朗がいなかったらAFC Uー16選手権での優勝はなかっただろうし、二〇〇七年のUー17ワールドカップの、あのフランス戦のスーパーゴールも見ることすらできなかっただろう(ぼくは高陽総合運動場に二日連続で行った。五月にセレッソ大阪監督を解任されたばかりの都並敏史にばったり会った。まさか日本代表の試合じゃないのにセレッソ大阪のサポーターが大勢でやってくるとは思ってなかっただろう。言動すべてがどこか愛くるしかった。よく覚えておいてほしい。セレッソ大阪サポーターはサッカーのためなら地の果てまでも行ってしまう生き物なのだと)。
 フランス戦にはたくさんの思い出がある。
 試合は敗れた。それでも、ピッチ中央でディフェンダーをトラップひとつでかわしたプレーと、前が開いた瞬間に放ったロングシュートのほのかな香りだけがスタジアムには残っていた。
 ぼくは無性にバス待ちをしたくなった。
 何人かの選手とともにバスへと向かう柿谷曜一朗のさびしそうな姿が見えた。うなだれる彼を見て、普段あれほど選手と関わることを避けてきたぼくは思わず柵を超え、バスの入り口まで歩み寄った。
「ヨウイチロウ、まだや。ここからやぞ」
「はい。ありがとうございます。がんばります」
 消えそうなくらいの声でつぶやく柿谷曜一朗の言葉をぼくは今でも脳の片隅に記憶し続けている(警備員になにかを言われることもなく、ぼくは柵の外側へと戻った)。
 柿谷曜一朗がこのレジェンドナンバーを背負う宿命が、ぼくのなかでこうして形作られていった。

 レヴィー・クルピは今年もそこにいた。もう何年目か何回目なのかなんてどうでもよくなっている自分もそこにいた。なんだかんだいつもと変わらない体制。セレッソ大阪は一九年目の開幕を迎えた。
 結論から先に言うと、二〇一三年のセレッソ大阪は二度目のアジアへの挑戦権を運良く手に入れることができたわけだ(リーグ四位だったけれど、J1リーグで二位となった横浜F・マリノスが天皇杯で優勝してくれたおかげでAFCチャンピオンズリーグへのチケットをもらうことができた)。
 色んな意味で課題があるものの、結果的にこのシーズンの柿谷曜一朗は二一得点という驚異的な数字を残した。もしかすると、それすら背番号「八」がもたらした賜物のように思えてくるからセレッソ大阪サポーターの信念深さは恐ろしいほどだ。
 ヨウイチロウが日本代表に選出されるという噂が出はじめた。彼のポテンシャルからすればかなり遅すぎると思った。徳島ヴォルティスへの移籍も、彼の人生の通過点としてみたら必要不可欠なものだった。
 永遠のサッカー小僧と一緒にセレッソ大阪を強くしていきたい。本気でぼくはそう思うようになっていた。そうなのだ。この時点でぼくはすでに取り憑かれていたのだ。八の呪縛ってやつに。
 いや、そうではない。八ではないのだ。ぼくは柿谷曜一朗というフットボールプレーヤーを心の底から愛しているのだ。その思いに気づいた。
 楽しんでプレーする選手は世界には星の数ほどいる。ボールタッチだけで観客を魅了する選手も一定数は存在しているだろう。
 だけどそういうものさしで評価できない魅力が柿谷曜一朗にはある。遊ぶ感覚でプレーするヨウイチロウを見て、惚れてしまわないサポーターは皆無だ。そんな選手は彼以外にはいない。ぼくはずっと前から知っていた。
 蒸し暑さが体にまとわりついてくるその日、柿谷曜一朗は日本代表に選出された。

 二〇一三年七月末。気がついたらぼくは韓国にいた。あのフランスワールドカップ予選。あの生死の境目だったアウェイ韓国戦。あの日と同じソウルオリンピック主競技場。あんときのチャムシル。
 この大会はある意味、来年おこなわれるブラジルワールドカップのメンバー入りに向けた中間テストの様相を持っていた。
 素直にセレッソ大阪所属選手がブラジルで活躍する姿が見たい。それだけの理由だった。ぼくは山口蛍、扇原貴宏、そして柿谷曜一朗を追いかけて日本から飛んできた。
 スタジアムに入る。ふと一九九七年のあの試合を思い出した。あそこで負けていたらその時点でワールドカップ出場も潰えていたな。あの日はぼく自身の気持ちもいっぱいいっぱいだったな。
 二対〇での勝利が確定した瞬間、韓国サポーターが、一緒にフランスへ行こう、と幕を掲げていたことにも気づかなかった。それこそなにも考えられなくなっていた。あれはもう、遠く霞がかった過去だ。
 それに引き換え今回は比較的余裕があるチャムシルだ。当たり前だ。ワールドカップ出場がかかっているわけでもない。ただの日韓戦がそこにあるだけだった。
 つい先日インターネットで購入したばかりのチケットをスマートフォンで見ながら、自分の席を探してぼくはひたすら通路を歩いた。運よくすぐに発見し、ひとまず腰をおろす。
 三〇分もしないうちに座席はどんどんと埋まっていった。こともあろうに顔を上げたぼくは多くの韓国人にあっという間に囲まれてしまっていた。もしかしてチケットの買い方を間違えてしまったのだろうか。
 ど真ん中にいるぼくの格好は言わずと知れたセレッソ大阪のロゴが目立つ真っ白なポロシャツなのである。ホームのサポーターは見覚えのないエンブレムにジロジロと目を向けている。この状況、鈍感なぼくでもはっきりとわかる。
 日本が勝って優勝でもした日には、この場は一体どんな修羅場になってしまうのだろうか。勝利への確信と、一抹の不安と、柿谷曜一朗のゴールを欲しながら、ぼくは九〇分間を選手とともに戦った。
 柿谷曜一朗が先制点を決めた。ゴールネットを揺らしたその瞬間、即座にまわりの目がぼくへと向いた。完全なるアウェイとはこういうことなのだ(それこそ一昔前のワールドカップ予選は毎回そんな空気感がただよっていた。前述のフランスワールドカップ予選の、例の腹痛をもたらしたウズベキスタンでは、ロスタイムの日本の同点ゴールでサポーターが暴れだし、ありとあらゆるものが頭上に飛んできた。幕で身を守らなければ危なかった。すべてがそのような危険状態ではないものの、サッカーは人を変えてしまう存在でもあるのだ)。
 一対一の同点で前半が終わった。ホームのアドバンテージによってかなり攻め込まれたのは否めない。ギリギリのところでゴールを死守する日本、という構図はハーフタイム明けでも変わらなかった。
 前後半の時間をフルに使い切り、やがてロスタイムへと入る。そこであの柿谷曜一朗のマジックとも言える左足が炸裂した。ぼくの全身が震えはじめる。ゴールへの興奮だけではない。ここから生きて帰れるのかという本能のうずきだった。
 ヨウイチロウがコーナーフラッグに向かって走る。シンクロするように選手たちがこの勝利の立役者に向かって走る。ぼくの目はその姿を追いつつも横目でホームサポーターの一挙手一投足を観察する。衝撃に備えよ、ぼく。
 ……あれ、ほとんど人がいない。まったく気づかなかった。
 もしかしたら日本の勝ち越しゴールに失望し、足早にスタジアムを去ってしまったのかもしれない。疾きこと風のごとく。韓国ではなんて言うんだろう。スタンドの一角にポツンとひとり残されたぼくはヒーローに群がる青の若者たちを見つめることに専念した。
 アカデミーから輩出された素晴らしい才能を有するこの三人の選手。彼らがいるかぎりセレッソ大阪の未来は明るいはずだ。相思相愛の関係。二〇年目を迎えるセレッソ大阪の躍進を暗示しているように思えた。

 日本代表はEAFF東アジアカップで初優勝を果たした。柿谷曜一朗が得点王、山口蛍はMVPに選出された。
 とは言え、これだけで来年のブラジル行きが保証されるわけでもない。セレッソ大阪の選手として、そして、この先にも続くサムライブルーとしての戦いが、彼らをより強くしてくれることをぼくは願った。
 チャムシルの夜はふけていく。
 ときに、自然界には規則性というものがなんの前触れもなく働くことがある。まるでフィボナッチ数列のようだ(一、一、二、三、五、八、一三、二一、三四、五五、八九、一四四、二三三…と書き出すとこれだけでこの書き物が終わってしまう。要するに、前二つの数を足した数字が次の数字、という数列だ)。
 ウサギのつがいから思いついたというこの数列のごとく、セレッソ大阪アカデミーの選手が毎年のように世代をつなぎ、次の数字を導いてくれるのだろう。ぼくは本気でそう信じていた。
 先人と同様、海外クラブにチャレンジする選手も間違いなく現れてくるはずだ。快く送り出すのもぼくらの役目でもあるのだ。
 クラブと選手とそしてサポーターがアカデミーを支え続けていく。それによってこれからもぼくらの夢が永遠に前進していくのだ。当たり前にそう思っていた。
 だけど、夢は夢なのだ。朝、目が覚めればいつものように醒めるものなのだ。ぼくはすっかりそのことを忘れてしまっていた。

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