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ダンスなんて大キライだった子どもは、大人になってダンスインストラクターになった

人生で一番最初のダンス体験は、小学生の運動会のときだったと思う。

今でも鮮明に覚えている、1年生の運動会のときに踊らされた、「グリーングリーン、花いっぱい♪」というリズミカルなフレーズ。手にはポンポンを持って、手足を開いたり閉じたり円を描いたりしながら音に合わせて。

見ている人、特に大人からすれば、1年生がポンポンを持って踊っているだけで「まぁかわいい」と、さぞやほんわかとした気持ちで見ていたことだろう。

けれど私は、少しでも早くその場から立ち去りたくてたまらなかった。

そう。私は子どもの頃、そして全学生時代を通して、ダンスなんて大キライだったのだ。

たくさんの人たちが校庭の円をぐるりと囲んでひしめき合って見ているなかで、少しでも“それっぽい動き”をしなければいけなことは、まるで裸で立たされているようなことと同じだった。

人前でクニャクニャと身体を動かしたり、よくわからない感情を身体で表現したり。やろうとすればするほど身体中から火が出そうなほど恥ずかしくて、イヤでイヤでしかたなかったのだ。

高学年になって、ダンスが組体操に入れ替わってどれだけホッとしたことか。「あぁ、もう人前で踊らなくていいんだ…」というあの安堵感は、今でもよく覚えている。

と、思ったのも束の間。中学に入ったとたん、今度は体育の授業で創作ダンスの時間があるというではないか。それはもう、わたしにとって絶望でしかなかった。

人に決められた動きでもイヤなのに、今度は自分たちで感情やモノを表現して動きを考えなければいけないという、まるで拷問のような内容に悶絶した。

当然わたしはなにひとつ動きのアイディアを出すことなく、クラスのイケイケ系女子が考えた動きにのっかって言われた通りに頭を回したり、ギュッと集まったかと思うと弾け散って床に伏せる、という、やらされてる感満載の動きを繰り広げた。

当然、体育の成績はいつも5段階評価のうちの1か2だった。

そもそも小さいころから“超”がつく小心者で、極端に自分に自信がなく、運動なんて不得意中の不得意だった。

小学生のときは6年生になっても跳び箱4段が飛べず、みんなに笑われていたことを今でもよく覚えている。人前で身体を動かすことは、わたしにとって羞恥でしかなかったのだ。それがダンス以外のことでも。

走れば「走り方が変だ」と馬鹿にされ、跳び箱で尻もちをつけば笑われ、大繩で引っかかれば睨まれる。ドッチボールが狂気の沙汰のようなゲームにしか思えず、当てられることが本気で怖くて、いつも泣きそうになりながら逃げていた。「こんなこと、なんでやらなきゃいけないの…」言葉にならない気持ちは、わたしのなかで声にならない涙となって流れ出た。

運動とは、自分の存在を否定されることそのものだったのだ。

そんなわたしは今、ダンスを仕事にしている。

成長して、学校という枠から離れて、自ら興味の赴くことを選んで海外に出たときに偶然ダンスの文化に触れたことから、わたしのダンスとの出会いがはじまった。

それまで、ダンスとは「クラスの人気者的な(いわゆるパリピっぽい)者だけがやれるもの」「日常とはかけ離れた異空間」「身体能力の優れた者だけができる特別な動き」であるとばかり思っていた。

けれどわたしが海外で出会ったダンスの世界は、そういうものはまったくかけ離れた、日常と、そして自分の心の真ん中とひとつながりのところにあるものだった。

あぁ、そうだよね。ダンスって本来誰がやってもいいもので、なにかを感じたときにはどんな生き物でも動いているんだよね。

頭で動くのではなく、なにかを感じて、その気持ちを表現しようと身体を動かすことはすでにダンスであって、そういう意味ではすべての生き物は元々踊りという要素を持って生まれている。

「ダンスって、言葉の起源よりルーツが先なんだって。」と、この前なにかの情報を仕入れてきた夫が言っていた。たしかに考えてみれば、動物は求愛するときにリズミカルに身体を動かし、自らの存在をアピールするように動く。それは間違いなくダンスそのものであり、感情を身体で表現する身体表現なのだ。

子どもの頃に、わたしをダンス嫌いにさせていたもの。それはダンスそのものではなく、「こうやらなければいけない」という強制感や、評価されるという周囲の目線、そして「これくらいの年齢ならこれくらい(跳び箱〇段、50m〇秒など)はできなければいけない。できないヤツはダメなヤツ」という、日本の体育授業の文化そのものだったのだ。

ほんとうは誰だって、本質的には踊るという要素を持っている。生まれたばかりの赤ちゃんが音に合わせてゆらゆらと揺れながら微笑むように、音楽を聞いている子どもが自然と身体を動かして踊りながらキャッキャと笑うように。

踊ることは、本来誰にとっても歓びであり、自分という存在の豊かさを享受するための手段だったのではないかと思う。

踊ることって、特別なことじゃない。それはあなたの心の真ん中と日常の延長線上にあるものだから。

ただ身体を動かすことの歓びを感じられれば、それでいいんだよ。



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