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#58 ある老人に教わったこと

他者から求められていることをやるのではなく、自己から求められていることをやりなさい。


他者はきまぐれですから、そこに毎度毎度合わせていたら振り回されて疲弊してしまいます。
振り回されるのはその日の天気だけで十分なのです。
他者だってれっきとした自然環境でしょう。だから天災などと同じようなものですよ。自分と姿かたちが似ているからといって、見くびってはなりません。
そのような落ち着きがなく、得体の知れない何者かにいちいち振り回されてごらんなさい。
やがてあなたは身も心も擦り切れてしまいます。
一部の者はニーズとかブルーオーシャンとか、そういった言葉でそれをもっともらしく正当化しますが、惑わされてはいけません。市場に組み込まれて、使い倒されて終わりです。そして、尊厳を失います。
尊厳を失った者は自己も他者も愛することは出来ません。もう、やけのやんぱちです。
世のため人のため、という気概は素晴らしく尊敬に値しますが、そういう徳のある人だからこそ尊厳を失ってはならないのです。あなたは決して壊されてはいけない。自分自身を守らねばなりません。

他者の声は聞こえませんが、自己の声は聴き取ることができます。
これには技術が必要です。未熟だと困難でしょう。技術、などというと大袈裟ですね。ですから、「コツ」とか「ハウツー」と言い換えたほうが良さそうです。
それから、第一にまず求めなければ与えられることもありません。必死にならねばなりません。その段階に至り、そこを経ることが前提となります。
なんだか基督キリストの模倣のようになってしまいますが、真理だと思うので、もうこの際構いません。大切なことですから、私の面子はひとまず置いておきましょう。
それから、ついでに言うと、神が求めることをやるのは良いです。
私は宗教者ではありませんが、無神論者でもありません。「神的なるもの」は感じていますから。信仰心は持ち合わせています。
兎に角、自己とか神といったものの声を柱に据えるといいです。
逆に言うと、混沌としていて意味不明である「他者」や「社会」、あるいは「巷」などというものを満たすために一所懸命になるのは馬鹿げているということです。
それは徒労に終わります。そして待ち受けているのは自己をも含めた人間への憎悪です。
そんなおぞましい人間には誰も寄り付きませんから、じきに孤独を感じるようになるでしょう。
すると、いよいよ厭世的になります。
自分自身が世を拒絶してしまっているのに、向こうが自身を拒絶していると錯覚してしまいます。
こころが感じたままに世界は変貌します。不思議ですね。
そこから運よく立ち直れたとしても、性懲りもなく、得体の知れない他者への奉仕をしていては、同じことの繰り返しです。
頑丈な人は何度も負傷と回復を繰り返し、強靭な精神を獲得できるかもしれませんが、それは少数、というよりも最早稀有でしょう。それはある種のギフテッドですので、それを基準にするのは無理があるというものです。

自己の声に従えば、報いなど無くとも健やかでいられます。
人間である以上、疲れはしますが、摩耗などしません。
間違えることがなくなります。全てが必然となります。そういう世界が出来上がるのです。
念のために言うと、自己の声に従うということは、傍若無人に生きるということではありませんし、刹那的に生きることでもありません。
そういう行いを積むと、自ずと死を呼び込みます。そして殺されます。恐らく、自死することすら許されません。それが末路です。ですから、あまり得策とは言えません。
しかし、内なる声を抑圧して隠蔽してはなりません。
その存在は決して消すことは出来ません。
くどいですが、その声に従うのがいいです。
ただ、それが倫理的な問題を抱えている場合は、衝動に身を委ねるわけにはいきません。当然のことです。その実践の手段を検討しなくてはなりませんね。
面倒くさいと感じるかもしれませんが、他者のニーズとやらを満たすための活動よりもずっと心は喜ぶことでしょう。良いことが起こる予感がしていれば、障壁も乗り越えられます。しかもそれほど大した障壁でもありませんからね。宿題を過大評価するとただただ億劫になりますから、気楽にいきましょう。
それから、これはあなたにとって朗報だと思いますが、私の経験上、多くの人の欲望はそうした倫理的困難を抱えていることは稀です。
ですから、臆することなかれ。まずは自己の発する声に耳を澄ましてみましょう。
人はそうした声を消す訓練は積んでいますが、その逆は未熟なのです。滑稽なくらいに見事なアンバランスです。起き上がり小法師のようにいきましょう。なんだか楽しくなってくるでしょう。イメージの力ですね。
耳をふさいだところで、その声の存在は変わりません。そのことに気付くべきです。
否、本当は皆、気付いているんです。あなただって、そうでしょう。なにかもう気付き始めているのでしょう。顔を見ればわかりますとも。私だって伊達に年を重ねてはいませんから。
しかし、世の中を覆う流れが強力過ぎて、思考や行動のパターンを変えることが出来ないのです。
人はとにかく面倒くさいことを嫌がり、避けます。エネルギーを保存することが生存に不可欠だったからでしょう。私たちのからだは、飽食の時代が到来するなど夢にも思わなかったのでしょうね。これは人類が長い時間をかけて培った、壮大な習慣ですから、そんなすぐには変われません。ひょいと変わってしまうほうが気味が悪いです。兎も角、人はそういう習性を持つものなのです。
ある流れに乗ったらあとは殆ど自動的に再生産を繰り返す。そこでは考える暇も与えられません。
楽をしているはずなのに、苦しい。これは一体どういうことなのでしょうか。こうした不可視のからくりに人は困惑します。
その流れは目には見えないかもしれませんが、世を覆う「空気」として認識できるはずです。
気色とか気配とか、そういう言葉があるでしょう。昔から人は気の流れを察知できるんです。そして、それは現代人においてもそうなのですよ。

あなたは、間違っていることをしたいですか?したくないでしょう。私はしたくありません。
当然それをやる必要はないんです。そこに需要という大義名分があろうとなかろうと、すべきではありません。
それで、一時的にお金を稼げたとしても、いずれそれはよからぬ形で自分に返ってきます。
仮にあなたが本物の畜生ならばそれで結構。しかし、情があるのならば、自分をたいへん傷つけることになりますから、賢明な選択ではありません。
とりわけ優しい人は何故だか自分の負傷に関しては無頓着で、放ったらかしにしてしまう傾向がありますから、もっと自己を労わってほしいものです。
先ほども少し触れましたが、世の中には流れがあります。流れに乗る、とか流行とかいう言葉があるでしょう。そのようなものと思っていただいて構いません。
一度流れに乗ってしまえば、出てくることは困難です。それは想像にむずかしくないでしょう。川や海と同じです。だから、悪い流れに乗ることはまずいのです。こんな便利な時代ですけれど、人生は命がけなのです。
最初だけ、一回だけ、という軽い気持ちで多くの人は流れに乗ります。あるいはその流れだけしかないというふうに錯覚しているので選択すらしません。
そうして人々はからめとられていくのです。
狡猾な者というのは、そうした流れを生みだし、それを用いた戦略を得意とします。
彼らは意外と強制をしません。選択した気にさせるのです。
邪悪であればあるほど自らの手を汚しません。彼らはグロテスクなまでの合理的優雅さを持っているのです。

間違っていることとは、自己の声を虚構として無視し、他者の声が正しく現実のものと認めることです。
間違いないのは、自己の声を聴き、それを実践することです。
ニーズなどを考えてはなりません。それは他者の声です。しかも、誰の声かもわからない、存在するのかさえ疑わしいようなものです。
ニーズですか。そんなもの実にけち臭いですね。塵芥の方がはるかに優れています。
いいですか、金の勘定に耽るのはやめなさい。本質からどんどん脱線して、じきに戻ってこられなくなりますよ。多くの者がそうして迷宮の最中で生涯を終えるのです。それは貧しい人生です。
錨を下ろしなさい。
自己の声に素直になり、その要請を満たしなさい。
あなたもまた、優れています。大丈夫。

それでは、時間もそろそろ遅くなってきたのでここまでにしましょう。
あなたも疲れたのではないですか。食事と睡眠、それから風呂も大事です。
重要なことは不思議といつもシンプルです。あなたは聡明な方ですが、あまり難しく考えないでくださいね。ほら、また眉間にしわが寄ってますよ。
あなたはまだ若い。希望を感じます。自分の流れに乗るんですよ。リラックスすれば上手くいきます。
また気が向いたらいらっしゃい。私は再びあなたと話せることを楽しみにしていますからね。


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