見出し画像

#84 台無し/noteを続けて一ヶ月/功利主義 日常20240618

本日8時00分起床。大寝坊をぶちかます。
昨日起床時間の立て直しに成功したと喜んだのも束の間、見事なリバウンド。私は型にはまった人間だ。凡庸を極めつつある。
恐らく私の心身は疲れている。寝たいという要請をかなり感じたので、今日は多めに見てやることにした。
寝覚めも悪かった。日本が荒廃する夢を見た。それは俗に言う「世紀末」的な世界だった。当然、そんなものを見せられたので疲れてしまった。
倦怠感も強め。だが、頭痛・頭重感はない。これはありがたい。首と肩の凝りもあまり感じないし、そこまで条件が悪いわけではなさそうだ。
頭の回転の具合もそこまで悪くはない。
これだけ揃えば十分。なんとかなるだろう。

ところで、私がnoteを始めて早1ヶ月が経過したらしい。
先ほどPCでnoteを開いたときにそのような表示が出て来た。すっかり忘れていたので、ありがたい。アラームは生活の友である。段々とSF世界が現実になってきていると感じる。そして最近SF小説を読んでいないことに気付く。というか本自体を真面目に読んでいない。
現時点でnoteで記事を書くのは楽しいから、当分は続く予感がしている。
ただ、もう少しペースを落としてもいいかもしれない。
もっと音楽と対峙する時間が欲しい。
やらないと技術とか勘が鈍るので、できれば少しずつ継続したいところ。

ベンサム→ミルという功利主義の流れを確認。
ベンサムの功利主義は個人の幸福の総和を増やすことを善とする。これが有名な「最大多数の最大幸福」というもの。この考え方に基づき社会システムも整備する。
ベンサムの後に続くミルは快楽を2つに分類したとのこと。
感覚的な快楽と精神的な快楽。
精神的快楽の方が質が高く、皆がそれを躊躇なく選ぶとミルは考えた。
しかし、現実はどうだろうか。テレビを眺めているとグルメ・レジャー、エンタメが溢れ返っている。大衆は覚醒している間に、性欲と食欲と暴力のことしか頭にないのではないか、と本気で思うことがある。これらはミルの言う感覚的快楽に他ならないのではないか。
要するに、大衆の欲にはグラデーションがない。それらは皆が持つ欲であることは疑いようも無いけれど、そこから派生するヴァリエイションの数は随分と個人差があるような気がする。
パレット上にあるのが少ない絵の具であっても、混ぜれば色は増える。まぁ、しかし、ヴァリエイションかどうかは置いておこう。ややこしい。
要するに、人によって欲の種類の数そのものが違うのだ。そう考えた方が易しい。
個体差。なんとも夢がない。けれども現実なのでしょうがない。
テレビを旧来然としたものと位置付ける連中もいるが、翻ってSNSや動画コンテンツといったネットメディアはどうなのか。
やはり話題の中心はグルメ・レジャー、エンタメではないのか。
インテリは大衆を舐めている気がする。色んな意味で。
少なくとも現代人が 感覚的快楽<精神的快楽 という傾向を持っているとは思えない。
それはインテリゲンチャという少数部族にのみ見られる傾向ではないだろうか。
などと思った朝だった。
珈琲は美味い。
あぁ、これも感覚的快楽だ。大衆の時間も悪くない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?