見出し画像

その2 至って普通

幼少期、落ち着きがなく動き回る元気な子どもだった。好き嫌いも多く、好奇心旺盛ですぐ泣いてばかりのいわゆる一般、普通の子どもだったかのように思う。

保育園の方針でその時から茶道や硬筆、体操教室などありそれら全てを網羅していた。だから当時は運動神経は園内で1,2を争うくらい優れていた。

何をもって『普通』と位置づけるか曖昧だが、私はこの言葉があまり好きではない。

偏屈な狭い田舎で育っているため考え方も固執で普通に男の子らしく、女の子らしくを求められることもあった。それでいうと、普通に外で遊んで、運動して、イタズラもする他の子となんら変わらない『普通』の子だった。
違うのは顔に消えない傷と鼻水と勘違いされていた傷口に毎回塗られていた軟膏薬が周りに印象づけられていただけだ。

顔に傷もあったことから親から危ないことはさせられなかったし、寧ろ変に気を遣いすぎていて過敏になっていたかに思う。

好きな子だっていた。幼少期の『好き』は恋心というにはまだ浅いものだけど、女家系で育ったからかその時はその女の子が好きだった。しかし後の高校時代ほとんどの人が集まるショッピングモールで偶然居合わせ他の席から聞こえた私への心無い一言で全てよき思い出で終わるのだ。

「だってオカマでしょ」

高校生ながらに傷ついたのを覚えている。その時には自我もあり男性を好きだったが私という人間はその言葉で周りから形成されているのだ。

高校時代の苦い体験は後に書くとして、私はやはり『普通』なのだ。恋もするし、傷つくことや落ち込むこともある。でも周りにとっては普通ではない。男性なのにナヨナヨしてる、動きが女っぽい、話し方が変、鼻や唇の形が変…普通の定義は十人十色人それぞれ違うだろうが私にとっての『普通』は他の人から見たら『普通』ではなかったようだ。

人は普通の人を好む。だってリスクがないから。自身が同じように奇異の目で蔑まれたりしないから。だからこそ人のあら探しをして欠点を見つけては私は普通だと思い込む。そして気の合う普通の人を求める。中には気が合わない人でも平穏を求めて無理にその人やグループと付き合おうとする。安心するから。もちろんすべての人がそうではない。でも日本は特に肩書や周りの目を気にする。
私なんて生まれながらの偏見で更にその気持ちは人より強いかもしれない。

ただ言えるのは、人はきっと現代も過去も弱く脆い人が大半なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?