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頑なな固定概念

小さな頃から常に人の目を気にしてはなにかに怯えながら生きてきた気がする。それは今もきっと変わらなくて、それでも傷つかない選択を自ずと行動でとってきたのかもしれない。

顔へのコンプレックス、性別違和。容赦なく届く外野からの心無い言葉。様々なジレンマと孤独を何処かに持って育ってきたようにも思う。そのせいか上手く人を頼ることができない。甘えることも常に相手の顔色を伺ってしまう始末だ。もっと頼って、甘えていいとも言われる。そうしたいけど、そうするやり方がわからないのだ。そうして溜め込んでたまに崩壊してしまうことがある。きっと私はわかりやすく不器用な人間だ。

今の時期は水星逆行という時期らしく、物事がうまく行かない、滞る時期らしいがポジティブに考えれば自身を、そして過去を振り返る時間ともとれる。
きっと人間の根本って変わらない。なぜなら私自身がそうだと気づいたからだ。柔軟に、様々な体験もしてきてはいるが心は常にどこか閉じていて当たり障りない付き合いをしてしまう。

生まれ育った環境なのかもしれない。そんな中で私という人間を自身が生きやすいように形成しては今に至る。私はこの生き方しか知らない。人に頼ることを甘えと感じては一人で抱え込んでもがいている。20代の時にとあるバーの店員さんに言われたことがある。

「なんでいつも困ったような顔をしているの?」

なにかを見透かされてる気がした。当時は浪人でバイトしつつの勉強で余裕がなかった。将来どうなってしまうのだろう。でもここから抜け出さないと堕落していく気がしていた。だからどんな環境でも出てきた東京。帰るつもりはない。だって甘えてしまいそうだから。やっと好きに生きれるのにまた小さな世界で狭い視野と偏見の目に晒されることが怖いのだ。

頼ったり甘える勇気も必要だよって言われたことがある。でもそれで怪訝そうな顔をされたり疎まれたりするくらいなら自分でやる方が誰にも迷惑かけないしスムーズな気もする。

それはきっと父親の自死も影響してるのかなって思う。テーブルにお金を並べて車の中で煉炭焚いて1人で楽になるなんて。責任感がなさすぎる。でもきっと父もどこかで堕落した自身に考えるものがあり鬱っぽくなって彼なりに出した答えなのかもしれない。でも、それは死んだ当人にしかわからないことでありただの憶測である。

その後に私を高校まで行かせ父方の祖母を看取った母を私は尊敬するとともにお人好しだなとも思うのだ。そんな苦労もみてるからこそ誰かと心から関わることをどこかてわ避けてきたのかもしれない。
そんなことをふと思い文字にしてみたが、きっと私という人間も偏屈で嫌らしく、不器用な人間なのだと改めて思った4月の終わり。


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