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自己責任論は成功者の詭弁である

自己責任って正しいのか?

今回はそんなことを書いてみます。

自己責任は正論のように思えますが、とても窮屈に感じる人も多いのではないでしょうか。

今回は、そんな問題に投げかけてみます。

自己責任とは?

1990年代〜2000年代ごろから、日本では"自己責任"がしきりに言われるようになりました。その象徴が、当時から社会問題化されていた非正規雇用。

やむなく劣悪な労働環境で働いていても、自己責任とされてしまう。浮上するのにも"自助努力"が必要と言われるけれども、日本型雇用では中々定職にありつけない。

事実、1997年の経済同友会でも、「小さな政府と自由な競争社会を実現するため、個人や企業は自己責任に基づいて経済活動をすべき」という趣旨の提言がされています。[*1)の要約]

身近な例では、こんな言い回しに覚えがあります。

  • 成功できなかったのは努力が足りなかったからだ

  • 本人は努力したつもりでも、それは本当の努力じゃない

自己責任は正しくない理由

筆者はNoです。筆者も、部活での競走や受験競争、リーマンショック不況下での就職活動、そして過重労働を経験している立場なので、これはよく共感できます。その理由は、現代は競争社会だから勝ち負けがあるのは当たり前。

しかし、負けたのは本人の責任になるのはおかしいからです。スクールカースト、受験、就職、昇進...世の中競走だらけ。けれども、そんな競争社会で負けたら「努力が足りない」と説教されてしまう

これは理不尽です。さらには、別の機会で詳細に取り上げようと思いますが、「個人の能力」や「努力がどのぐらいできるか」も、遺伝子でだいぶ左右されることもわかってきています。

競争社会の勝ち組が「自助努力」だけで勝っている訳ではない

そもそも勝ち組というのは、負け組がいるから勝ち組ですからね。勝ち組の彼らは負けてしまった人たちに感謝こそすれ、勝ち誇るなんて傲慢

そういうふうに考えると楽ではないでしょうか。もちろん、努力にある程度のインセンティブは必要でしょう。出ないとソ連みたいな社会主義になってしまいますからね。

しかし、たまたま活路を見出せなかった人が、貧困に陥っても自己責任とされる社会はおかしい。そう思うのです。まずはその認識に立つと、楽になれると思うのです。

*1) 隠された奴隷制 集英社新書



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