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「わたしの心だ。きよくなれ」

【医療】医者はどっちを向いて仕事してるのか?

 2023年初夏—————。3月末に仕事がひと段落して、妻の療養のため、湯治を目的に伊豆に宿を予約して久しぶりの休みをいただきました。自分のことは、そこまで仕事人間ではないと思っていたのだけど、意外と会社のことで頭がいっぱいだったのだな。新緑と温泉に癒されたのは、案外自分の方だったのかもしれません。

 今後のことも考えねばと、新規に始める Harpazo Channel のために、ちょっとした事業計画?を練る時間も持てました。絵コンテを書きながら内容を詰めていくのだけれど、意外と楽しい。以前から妻は、携挙で残された人たちの為になる情報を残しておきたいと言っていたし、自分は自分で、福音に触れたことのない人たちに、できるだけ分かりやすく伝える方法を模索していたから、手始めに動画で、というのは、お手軽な方法でした。

 ちょうど、会社の商品告知用の動画制作にと、Davinci Resolve と小型のエディターを購入していたので、幾つか動画を作成してみると、意外と楽しいではないですか。ネタは幾らでもあるので、「よーし、作るぜ!」と思っていた矢先……。

 実家の父親から「母さんが腰をやってしまったらしい」と電話があり、急遽、帰省することになりました。

 母は実際、歩くのも辛そうで、最初の二日ほどは痛みを我慢していたみたいですが、三日目からはベッドから起き上がるのも困難になり、寝たきり状態に。トイレにも行けない状態だったため、尿瓶を買いに走らなければならなくなりました。とはいっても、その日は日曜でどこの薬局も営業していません。近場の少し大きめの病院まで足を運んだのですが、男性用は在庫があっても女性用は手に入らず。家に戻ると、父が何やら外出の支度をし始めていたのです。「どこ行くの?」と尋ねると、ちょっとキレ気味に「尿瓶、買ってくる」という返事。

「今日は日曜日だから、どこも開いてないよ」
 父は「心当たりがあるから」と、制止も聞かずに颯爽とシニアカーに乗り込みました。そうだった―――。昔から言い出したら聞かない頑固さを持っていた父親……今更のように思い出しました。さらに、ここ何年かの父は、認知症が進んだせいか、理論が通じなくなっている。怒りっぽいのは「認知症の周辺症状」と呼ばれているらしい。

 自分はとにかく、紙おむつと尿パッドを買いに走り、父はシニアカーに乗って走り出しました。時速5~6キロくらいのスピードで。その後ろ姿は、一週間ほど前に劇場で観た「シン・仮面ライダー」を思い出させてくれるものでした。

 母親を紙おむつに履き替えさせて、とりあえず一安心。朝食も昼食も食べてなかったことに気づき、おにぎりを食べさせましたが、あまり食欲がないといってほとんど食べてくれませんでした。

 そこへ父親が帰ってきて「ほれ」と突き出したビニール袋。中には見事、女性用の尿瓶が…。「お店の人がいい人だった」と額の汗を拭います。文字通り、お店はお休みだったのだけど、扉を叩き続けたそうです。奥から出てきたお店の人と世間話を少しして、それで戻ってきたとか…。恐れ入りました。<(_ _)> ベッドで動けない母を助けたい……それしか頭になかったのでしょう。改めて、この人には敵わないなと。

2:2 「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。2:3 イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。──主のことば──

エレ 2:2-3

 夫が妻を守るために奮闘する様子は、聖書の中で、神(夫)がイスラエル(妻)を助けるために奮闘する姿に表されています。聖書の中では、夫婦関係は神聖なものとして、とても丁寧に扱われています。夫婦関係を壊すものは徹底して排除されます。だから、イスラエルが偶像礼拝を始め、神でないものに浮気した際、激しく怒られました。親子関係がグズグズだったり、家族がバラバラに離散してしまったり、家族の不和には大抵父親に問題があります。そういう意味では、筆者はこの父親の下に生まれてよかったと今更のように感じたわけです。

 さて、話を戻しましょう。その後も母親は身体を動かそうとすると、あまりに痛がるので、これは単なるぎっくり腰ではないと思い、かかりつけ医の下へ出向きました。何時間も待たされた挙句、医者はMRIの写真を見ながら「第一腰椎圧迫骨折」だと教えてくれました。
「えっ、骨折じゃん……(絶句)」

 確かに、母親はMRIは見せてもらったと言っていたので、確かに骨折だと教えてもらったのでしょう。しかし「第一腰椎圧迫骨折(だいいちようついあっぱくこっせつ)」と伝えられて「骨折」と認識できなかったか、母もこの2年ほどの間に認知症が驚くほど進んでしまい、告げられた学術名を覚えられなかったのかもしれません。あくる日の朝、母は介護タクシーで市内の病院に入院することとなりました。

 診断や今後の治療方法について、本人に告知することは大切なことだと思いますが、そういう情報をより必要としているのはむしろ、同居人や配偶者、家族だと思うのは自分だけでしょうか? 特に老人のいる家族は、患者にどう接していいか常に自問自答しながら生活しているはずです。ペラ一枚の情報量でいいので、患者の診断結果や今後の治療方法について知らされていれば…と思うのは自分だけでしょうか? 今回のように、本人も家族もぎっくり腰と思い込んでいて、実際は骨折だと知らなかった場合、無理させたり、誤った対処を施したりしないでしょうか? 今回に限らず今までも、正しい対処方法を知らない家族が、勝手な思い込みによって間違った対処方法や接し方をして、患者を苦しめたことはなかったのでしょうか?

 日本の医療業界でも、河野大臣を筆頭にデジタル化が叫ばれていますが、システムばかりデジタル化して効率化しても、その情報が中央に向けて一方通行では、そのデジタル化に何の意味があるのでしょう? むしろ、患者と家族向けのデジタル化の方が先じゃね? 患者には情報を伝えても、家族や配偶者、同居人に正確な情報が伝わっていないことが多すぎる気がします。中央集権的なデジタル化だけが早急に進められていることになります。

 実はこれ、父親の診断についても疑問に思ったのです。父は4年前に心筋梗塞を患い、以降リハビリに励んできました。心臓の機能低下が腎臓の機能低下につながることは、当初から医者に指摘されていました。そしてここ2年ほどのうちに、父の腎臓の数値がみるみる悪化してきたのです。母親同様、認知機能も低下している様子は子供の目から見ても明らかでした。特に父親は「最近、頭の中に靄(もや)がかかったみたい」と漏らしていました。

 母親を無事?入院させた後、今度は父のデイケアサービスの担当看護師から筆者の携帯電話に電話が入りました。内容は父の両脚の浮腫みがひどく、主治医の診断の結果を尋ねてきてくれたのでした。

 あくる日、今度は父の付き添いで、父の主治医の下を訪ねることになりました。そこで経緯を話し、前出の看護師さん達の観察も含め、窮状を訴えるような形で伝えたのだけど、返ってきた答えはまさかの「そういう病気ですからねえ」他人事か!と思わず、頭の中でツッコミました。

 うまく伝わらなかったのかなと思い、ブレインフォグ(頭の中に靄がかかったような状態)の症状についても話してみたのですが、医者は「それについては未だ分からないことが多いですから…」とせせら笑われてしまいました。主治医はその後も涼しげな顔をして、ディスプレイ画面に映し出されたカルテに、スタイラスペンを使って、流暢な署名を決めていました。プールの監視員ですら、人が溺れていれば監視員が水に飛び込んで助けます。(プールの監視員を軽視しているわけではありません)この医者がプールの監視員だったら人が溺れているのを見ると、きっとプールの経営者に報告するのでしょう。「人が溺れていますよー」と。

 ブチ切れそうになるのを堪えながら、この人たちは一体、どっちを見て仕事してるんだろう?と想像するのが精いっぱいでした。中央集権的なデジタル化は河野大臣が先頭に立って進んでいますねえ? でもそこには、かつて僕たちが見ていた"医者"の姿はありませんでした。いつしか真の"ジャーナリスト"が姿を消したのと同様、医者までが私たちの周りから消えてしまいました。一事が万事というわけではないでしょう。患者のために施政者に噛みつくような無骨な"医者"が生き残っていることを心から望みます。

 紙ベースでもいいし、メールでも良いのですが、せめて病名と対処法くらいは家族に伝えるべきだと思うのです。思い込みや、誤った情報を下にして患者と接すると大きな間違いを起こすことになる。患者が高齢者の場合、患者、本人には伝えても、本人が理解できない場合が多く、家族に正確な情報が伝わらない。これで今まで何人の人がこうした職務怠慢の医者もどきに苦しめられてきたことか。

ペテロ、水の上を歩く

神の御心は何処に?

 父が主治医の下を訪ねた間、医者は父の両脚の状態を診ようともしませんでした。惨状を伝えるため「脚が異常にむくんでいる」「看護師も早く主治医に診せた方がよい」と言われても、涼しい顔をして「そういう病気ですから」と言うだけ。これ以上、ここに居ても時間が無駄なだけだ。絶望的な思いで見上げた時の、晴れ渡った青空が対照的だなあ、と。

 更なる試練が父を襲います。

 筆者は一旦、関東の自宅に戻った後のこと。早朝、ケアマネジャーが焦った様子で電話を入れてきました。告げられた内容を聞いて、すっかり目が覚めてしまいました。その朝、父親は(恐らく貧血により)台所で倒れ、頭を机の角にぶつけて血を流しているところを、ヘルパーさんが発見し、救急車を呼ぼうとしたのですが、父は断固、拒否したのです。

「えッ?」

 「なんで?」と思いますよねえ。筆者も一瞬、一瞬、耳を疑いました。本人は普段から「自宅で死にたい」と言っていたので、最早ここまでと観念したのでしょうか??? それとも、これが起こる二、三日前、ケアマネジャーが父の両脚の状態を見た際「両脚、切断せなアカンかもしれませんなあ」と言ったらしいのです。それを聞いた父は、かなり落ち込んだ様子だった、と…。真意は分かりません。ただ、悶々としながら何時間もやり過ごしたに違いありません。

 結局、ケアマネジャーさんには、無理矢理にでも救急車で救急病院に運んでくださいと頼みました。で、彼は言われた通り、父を救急車に乗せ、無事?救急病院に送り込んでくれました。その時には父は、意識も朦朧としていて、自分がどこにいるかさえ、理解できなかった様子だったとか―――。

22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。

マタ 14:22-32

 私たち人間は、誤った情報や間違いを吹き込まれると、簡単にパニックを起こします。使徒ペテロは、水の上を歩いた時、イエスから目を離してパニックに陥りました。例えば、26節でイエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。さらに30節では強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。幽霊のように見えたイエス、激しくなる雨や風、冷静に考えると人が水の上を歩くことはないという物理法則…等々、目にしたこと聞いたことから、人は総合的に判断します。が、そこには神の御心が入り込む隙がありません。そんな時、人は簡単にパニックを起こすのです。

 父も、そして筆者自身も、パニックを起こしていたわけです。

 父は普段から、生きていても辛いだけだ、身体がずっと重い、ダルいのだと漏らします。今や"死"は現実として目の前にある。自宅で死にたいけど、そう簡単に死ねない。入院したら最後、自分の両脚が切り取られてしまう。筆者は筆者で、父は「自宅で死にたい」と言っているし、生き永らえても、重たく辛い身体のまま。そのままにしておいてあげた方が本人にとっても幸せなのではないか?などと真剣に考えていました。

 ところが、神の御心はまったく異なるものでした―――。

「わたしの心だ。きよくなれ」

40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」

マル 1:40-44

 41節でイエスが発された言葉「わたしの心だ。きよくなれ」は、そのまま神の御心です。イエスは神なので(※これについては、議論もあると思うので後々お話ししましょう)、これが神の御心だということです。神はこの人に対して深くあわれまれました。神は、この人も含め、すべての人がいつか死ぬことをご存じです。事実、イエスが癒された人々はすべて、死んでいます。原因は病いかもしれないし、戦争や事故かもしれない。それでも「きよくなりなさい、良くなりなさい」というのが、神の意志だというのです。

 さらに、イエスは手を伸ばして彼にさわられたとあります。このツアラートという病気は、全身が白くなる一種の皮膚病で、伝染性があったため、モーセの律法(旧約聖書)によれば、彼は神にも人にも近づくことができない、呪われた「隔離されるべき者」でした。イエスが彼に触れた時の周囲の反応は記されていませんが「あー、そんなことしたら汚れる(儀式的な意味で)」や「伝染っちゃうよー」だったと推測できます。

 この病気が、モーセの律法に記されていたということは、神の意志として記されていたことになります。この病気は公に示された「罪の型」だったのでしょう。"罪は神と人との隔たりになる"という、イスラエルに対する"視覚的教育"だったのかもしれません。

 イエスの目に映ったのは、この人のこれまでの阻害された人生、絶望感と憂鬱に上書きされた生活、人肌の温もりを感じられない孤独感だったと容易に想像できます。イエスは先ず、手を伸ばして彼にさわられた。この人が人の体温を感じたのは何年ぶりだったのでしょう。病だけでなく、この人の中にずっと巣食っていた心の渇きをも癒してくれたことが分かります。隔たりとなっていた病を取り除いた後の44節でも、どうすべきか示しています。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。ツアラートが癒された人は、モーセの律法(レビ14:4-9)によって、祭司に見せ、見分してもらい、きよめのささげ物を捧げなさいと指示したのです。ところがイスラエルの歴史上、ツアラートが癒された人は一人として現れませんでした。それで「ツアラートを癒す者はメシアである」と、民衆の間で信じられていたのです。当然、祭司に見せれば、メシアが遂に来られたことが、一目瞭然で分かります。それでも、当時のイスラエル指導者層は、イエスをメシアと認めませんでした。

 さて、現代に話を戻しましょう。「この病気はこういうものですから」とか、「足を切断しなければいけないかもしれない」というのは、神の御心ではない。神の御心は常に「よくなりなさい、きよくなれ」です。間違いをインプットされると、人はパニックを起こします。ペテロは、水の上を歩いた時、イエスから目を離してパニックに陥りました。不安になると、人は無駄な動きを始めて疲れます。だからイエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と言われた。的外れ(罪と同じ意味)な動きをする者は、必ず疲れることをご存じだったわけです。

 医者や介護に携わる者は、患者に対していつも「良くなる」「きよくなる」と伝え続けるべきと思うのです。だってそれは神の御心だから。名医は常に、患者に対して「よくなる」と言い続けます。勿論、治療の過程で浮き沈みは何度もあるだろうし、必ずしも良くなるわけではないでしょう。それでも伝え続けるべきだと思う。

 そもそも元気な人が「良くなるよ」と言っても説得力に欠けるかもしれません。父はよく「この辛さは、なってみないと分からない」と言い、筆者の家族を困らせていました。元気な者には辛さはわからない。確かに、腎臓の数値と筋力の低下による体のダルさ、重さは本人でないと分からないでしょう。そういう時は、神がそういう方だと伝えるべきなのではなかろうか。

 考えてみれば、イエスも父とよく似た苦しみをくぐり抜けておられます。イエスの場合、ムチ打ちもあったので、父より遥かに厳しい思いをされているのは確かですが。イエスは十字架上で、くぎ付けにされた三箇所からの出血により、体力を削られ、数時間で呼吸困難に陥り、息絶えています。呼吸するためには、くぎ付けにされた箇所に力を入れて、身体を持ち上げない限り、肺に空気を取り込むことができません。最後は肺に水が溜まり、心不全、あるいは心筋梗塞や出血性ショック等により死に至っています。

 父は、イエスの苦しみを追い体験しているともいえます。

 今、父は入院した病院でとても安心して過ごしています。勿論常時、前向きな気持ちでいるわけではありません。面会の時も深くため息をつきながら「早く死にたい」とぼやいてました。それでも病院のスタッフには「よくしてもらった」と感謝しているのです。病院の先生は若い先生やスタッフが多く、患者に対して「治りますよ」と声をかけ、明るく接しています。腎臓の数値や両脚のむくみに関しては触れもしないし、早い段階でリハビリのことを相談してくる始末。

「両脚の切断は?」筆者が尋ねると、若い医者には「?(何の話?)」みたいな顔されました。あの悶々とした時間は何だったんだろう。

※聖書引用: 聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

  貴方に対する神の計画もあるはず。神の御心を知る方法があります:


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