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福音を信じない理由

福音は聞いた...のに躊躇するのは何故?

前章"人は"救われる"為に何をすればよいか?"
という問いに対する答えは:
人は"福音"を信じれば、救われますでした
"救われる"とは一言で言い表せない…例えば
ソロスやゲイツがどんなに札束を積んでも買えない…
オリンピック選手が血の汗を流して努力しても勝ち取れない…
特権と栄誉を得ることです
が、この救いを前にして躊躇する人たちも多くない
前章は、信じるためのポジティブな側面をお伝えしました
ここでは、福音を聞いた …
なのに何故信じられないか? or 信じたくないか?など
ネガティブな側面から考察してみます

"信じない"という選択肢は、あまりに代償が大きい

 救われた状態と救いとは無関係な状態では、生きている間と死後のいのちについても、大きな違いが生じます。福音を信じることは、身体のためにも魂のためにも最高の保険となります。貴方は人が死んだ後、何処に行くのか考えたことはあるでしょうか? 多くの人は、死後、身も心も消滅し、無になると考えます。ところが、聖書は正反対、魂の不滅を記しています。身体は腐り土に還るが、魂は不滅で死後に裁きがあると書かれているのです。したがって、真実は二つに一つ。死後の魂はあるかないか? 聖書は正しいか偽りか? くっきりと分かれます。死んだ後、魂が消滅する確率は1/2、つまり50%で、これはかなりリスクの高い賭けです。信じないという選択肢はあまりに代償が大きいんです。

 ここで仮定の話を一つ。仮に、貴方が福音を信じたとしましょう。今まで人は死んだ後、身体も魂も無に帰すると信じて生きてきました。でも、ここで勧めに従って、福音を信じた、と仮定します。

福音を信じた場合、信じなかった場合

 やがて貴方は死に、死後の世界も何もなく、死んだ後はかつて考えていた通り、無に帰することになります。それでも貴方は何も失うものはありません。救いは元々無償ですから。死ぬ寸前にかつての信心(すべては無に帰する)が正しかったのだ、聖書の嘘なんて信じなければよかったという悔いは多少あるかもしれません。それでも、魂が無に帰するのであれば、それを悔いる魂もないわけです(上図上段の場合)。ところが、聖書の言う通り、死後の世界があった。福音を信じて、いのちを得、その後も神と共に歩めるとするなら … なんとラッキーなことでしょう!  ノーリスク、ハイリターン、それまでどんな人生を歩んでこようとも、人生丸儲けなのです!

 一方、貴方が福音を受け入れず、自分以外の権威に従うのは嫌で、それが神であろうと絶対拒否(つまり上図下段)という状態で死んだ場合、予想が当たっていたとしても、です。身体も魂も消滅してしまうのですから。悲惨なのは、予想が外れた場合、つまり死後のいのちがあった場合です。もはや手遅れ。やり直すことは叶いません。聖書に記された運命を粛々と受け止めるしかないのです。結構、ヤバいです。どれだけヤバいか。それは下に記しますね。聖書には泣いて歯ぎしりするという表現が七度使われているのですが、これは救いを失った人の状態を指します。

死後のいのちだけではない

 さらに聖書によると、死後の話だけでなく、私たちの今の世代は、生きたまま患難期に突入する可能性がかなり高い。そもそも筆者がこのメッセージを書き始めたのもこのためです。患難はまだまだ先と感じていれば死ぬまでのいつかの時点で福音を信じて救われればよい … だったのですが、現在の世界情勢を見ると、そう楽観的なことは言ってられない気がしています。

 福音を信じて救われれば、患難時代を回避することも可能です。これについては、前章を参照いただくか、終末時代の出来事を時系列でまとめたページを参照してください。

あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。

黙示録 3:10

 わたしのことばを守ったというのは、聖書の勧めに従って、福音を信じた貴方のことなので、試練の時(患難時代)が来ても貴方を守るという神の約束です。神はこれまで約束を違えたことがないので、この言葉は信頼に値します。今は信じていなくとも、いずれ、神は約束を守る方ということが証明できるようになります。

黙示録 3:10

福音を受け入れたくない理由…20選

 失うものは何もない。得することしかない。なのに何故、人は福音を信じようとしないのでしょう? 何が障害になっているのでしょうか? 彼らを踏みとどまらせているのは何か? ――― タダほど怖いものはない。おそらく裏があるはずだ、と。おいしい話には、必ず裏があると思う気持ちも分かります。それは人として持つべき正しい防衛本能で、そう考えて然るべきです。ただ、もし貴方がこのメッセージを読んで、貴方が福音を信じたとしても、筆者に何の得もないし、そもそも心の中で信じたなら筆者も他の人間もそれを確認する術がないのです。重要なのは、この場合、取引相手は人間ではなく、神だということ。人は欺きます。が、神の言葉に嘘偽りがあるとするなら、それは最早神ではありません。

 そう、確かに、伝える側の人間にも問題はあります。

 プロテスタントの教会に限っていえば、牧師は一人でも多くの人に教会に来ていただきたい。下世話な話ですが、牧師は一人、信者を獲得するとその分、自身の所得が増えます。信徒たちが成長すれば、献金額だって増えるかもしれません。だから、当たり前のように言います。「これからも教会に通いましょう」。さらに周囲の信者たちも、牧師夫妻の家計と教会運営のことを慮(おもんばか)って「アーメン」と言うのです。ところが「教会に通うこと」と「その人が救われること」は元来イコールではありません。残念ながら、毎週教会に通っているにもかかわらず、救いを得ていない人も多く存在します。

 初めて教会に足を踏み入れる人は、何を警戒するでしょうか? うっかり信じてしまうと、毎週通うように言われるかもしれない。簡潔で短く、インパクトのあるストーリーを好む現代の若者は、牧師さんの冗長な話についていけないのかもしれません。「これ、毎週?」貴重な時間をそういう場所で費やすのは結構な犠牲です。そのうえ、同調圧力により、少ない給料の中から毎週献金を捻出(ねんしゅつ)しなければならなくなるかもしれない。

 残念ながら現代の牧師や教会員は、福音ではなく、教会を宣べ伝えている場合が少なくない。それは組織を大きくする、あるいは永続的に管理するためです。教会に行くと、しなければならない圧を時折感じるのもこのためでしょう。それは、話される言葉が、教会の存続に関することだからです。しかし、この期に及んで、従来同様のメッセージを伝え続ける教会もいかがなものでしょうか。筆者はそういったところに疑問を感じることがあります。

福音を信じると、好き勝手に生きられなくなる?

 キリスト教について、日本人が抱いている誤解について、少し掘り下げてみましょう。以下の問いに答えてみてください。
問・福音を信じて、信者となった場合、"やらなければならないこと(MUST)" は、以下のうち幾つあるでしょう? 

  • 毎週、教会に行かなければならない?

  • 毎週、献金しなければならない?

  • 牧師さんを「先生」と呼ばなければならない?

  • 洗礼を受けなければならない?

  • 周囲の人に知らせなければならない?

  • 数百万の壺を買わなければならない?

  • 聖書を読まなければならない?

  • 伝道しなければならない?

  • 先輩信者との食事会やお茶に付き合わなければならない?

  • 罪を告白しなければならない?

  • 善い人にならなければならない?

  • 「敬虔な人」と呼ばれるように努力しなければならない?

  • 祈らなければならない?

  • キリストを見習って、彼のように生きなければならない?

  • 自分は変わらなければならない?

  • 「アーメン」とか「ハレルヤ」と言わなければならない?

  • 貧乏になる覚悟が必要、つまりお金を憎まなければならない?

 さて、いかがでしょう? 上記のうち、信じた後、やらなければならない事柄は幾つあったでしょう?

 答えはゼロ

 信じた者にとって上記の項目はいずれもマストではありません。数百万の壺~云々は冗談としても、上記の事柄はいずれも、いわゆる善行とみなされる行為です。しかし、これらは強要されて行うことではなく、自発的であること。神はその根底にある心を重視されます。

「あなたがたの多くのいけにえは、わたしにとって何になろう。──主は言われる──  わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよとあなたがたに求めたのか。 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集──わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。

イザヤ 1:11-14

 モーセの時代、人は自発的に神のため、共同体のために喜んで捧げものをしていました。が、時を経て、イザヤの時代に至る頃には、もはや民の心は神に在らず、形だけの捧げものを神殿に持ってくるようになっていました。

 強要され嫌々教会に行くのは、イザヤの時代にいけにえを携えて神殿に上っていた宗教行事と同じです。こうした形式だけの礼拝行為をわたし(神)の心は憎むと言われます。神はいわゆる"宗教"を憎まれるのだと。極端な言い方をすれば、イエスを信頼し、心の中に迎え入れ、それを喜んでさえいれば、それでよいということになります。貴方がイエスを信じるなら、上記の項目はすべて、自発的であれば喜んで「行ってもよい(You May~)事柄」なのです。

 残念ながら、福音を信じると、自分の生活が変わってしまう、好き勝手に生きられなくなると考える人はとても多く、多くの人がメシアを受け入れない理由の一つでもあります。しかし、これは大きな誤解です。「自分の生き方を選べなくなるかもしれない」というのもウソです。そう思わせるような言葉が、牧師から発せられたとしても、それは偽りです。少し語弊のある言い方かもしれませんが、福音を信じて信者となっても、貴方はきっと好き勝手に生きられるし、きっと貴方はその様に生きます! 

「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。

I コリ 10:23-24

 福音を信じた人には基本、すべてのことが許されています。つまり信者にとって、マストは存在しない。それでも「教会には行くべきよ」と言う人がいたら、その人は自分も一時期、集会に行きたくなくなった時期があったことを忘れているのでしょう。第一、今のようなコロナ禍においては集まることができる教会も少なくなっています。

 ただ、覚えておくべきことがある、と聖書はくぎを刺します。ここで強調されているのは、賢い選択をしなさいということ。ここのすべてには、自分と周囲の人間にとって有益な行いと、無益な行い、例えば、神も他者も傷つけてしまう行い等を含んでいます。その中から賢く選んで生きなさいと勧めている箇所です。その勧めこそが24節のだれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさいです。信者になっても貴方は、他者にとっても、自分にとってもベストな道を、自ら選んで生きていけます。

 だから、これを読んでくださっている皆さんには、最低でも福音を信じて救われるという地点には立っていて欲しいと願うのです。

選ぶのは貴方!良い道を選べますように

身体のこと、病のこと、蘇生について

 聖書には、生まれつき目が見えなかった者(ヨハ 9:1-7)、生まれつき足が不自由だった者(使徒 3:1-8)、38年も病に苦しめられた者(ヨハ 5:5-8)など、多くの癒しの奇跡が記されています。さらには死者のよみがえり(蘇生)にさえ、言及した記事もあります(ヨハ 11:1-44、マル 5:21-43、ルカ 7:11-16)。さて問題はここからです。福音を信じれば、不自由な身体は元に戻るのか? 病が治るのか? さらに、死んだ人はよみがえるのか?

 フルクテンバウム博士の『コメンタリーシリーズ:使徒言行録』によると、こうした奇跡的な癒しは、使徒たちと使徒に按手を受けた、ごく限られた信者のグループによるものだと記されています。

 12節は、使徒的権威の根拠を示すものである。教会二度目の迫害に関する記事は、使徒のしるしに関する記述から始まる(12a節)。重要なのは、使徒言行録中、奇跡、しるし、不思議を行うことができたのは、使徒と使徒から按手を受けた者だけであった点だ(例:使徒6:8)。この事実は過去四回記載されており(使徒2:43;3:6-7;4:22、33)、今回この節で再び繰り返される。………  これは、現代のフェイスヒーリング(信仰による癒し)とは全く異なるものだ。ヒーラーの下に通い、癒されたと喜んだとしても、一年後、癒されたと思い込んでいた病が実は治っておらず、その病気で死ぬ等々。単に「ポジティブな告白」をするだけでは、「プラス思考」以上のことはできない。こうした精神の鍛練は、心身的な問題を解決するかもしれないが、本物の肉体的病いを癒すことはない。神は、奇跡的に癒すことを選ばれるかもしれないし、今日の医療技術によって癒すことを選ばれるかもしれないし、まったく癒さないことを選ばれるかもしれない。現代のヒーラーは、使徒と同等の奇跡だと主張するが、使徒たちと同じ奇跡を行っているわけではない。(日本語訳:筆者)

Ch.6 Acts 5:12-42 "Commentary Series: The Book of Acts" by Dr. Arnold G. Fruchtenbaum

 数年前、高齢の父が心筋梗塞で倒れました。駆け付けた時には集中治療室で、喉にも管が入れられ、呼吸音しか聞こえない状態でした。担当医には「覚悟してください」と言われたので、彼が死の淵を見たであろうことは確かです。その時は、友人たちも妻も命永らえるよう、福音が伝えられるよう祈ってくれたおかげで、一命を取り留めました。

 祈りは聞かれたわけです。

 それから、数年―――。父は福音を信じ、イエスを受け入れました。それは真理を悟ったから…ではなく、聖書の記述通りに変貌していく終末的な世界に絶望したから…でもなく、死の淵を見たから…でもなく、進化論の嘘に気づいたから…でもなく、母と離れ離れになるのが嫌だったからという理由でした。母はずっと左寄り、つまりリベラルな考え方を持った人だったので、キリストに心を開くのはもっと先、というか最後? 家族の中でも母だけは信じないかもと、筆者は本気で考えていたほど。

 齢も80歳を過ぎ、体力的にも精神的にも弱くなり、コロナ禍になって、帰省したある日のこと。妻が話した言葉に「はいはい、分かりました。信じますよ」と言ったらしいのです。妻は「信じる以外、何もする必要はないんですよ」と伝えただけで「教会行くこともないし、献金もしなくていい。信じたことを、私たちに話さなくてもいい」と話したのだとか。

 後で妻から「お母さん、信じるって言ってたよ」と言われても、筆者は「いやいや、そんなはずはない」と打ち消していました。横浜に戻り、一か月くらい経ち、家に電話した時に改めて、母親が信じたことを知りました。

「だから、言ってんじゃん」と妻は不満顔。それでも信じられなかったので、もう一度、母に確認し直しました。過不足なく信じてます。
「てことは、お父さん、携挙(けいきょ)が起きたら、一人になっちゃうね」「え?」と父。
「だってお母さん、携挙されたら、お父さんだけ残されちゃうよ」
「え ――― ッ」

「じゃあ、信じる」―――。なんと、あっけない。ああでもない、こうでもないと手を変え品を変え伝えたつもりでしたが、人が福音を信じる理由なんて、案外こういうものかもしれません。

 ただし ―――。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

ヨハ 6:40

 神の意図は、イエスを信じ、信頼を置く者が終わりの日(=イエスが再臨される日)にひとりひとりよみがえらせてくれること。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

ヨハ 17:3

 そして、永遠のいのちを持つことです。聖書は"魂の不滅"を教えているので、すべてが符合します。人は"イエスを信じていないと魂も滅びる"と考えているようですが、それは間違いです。イエスを信じていなくても、不滅の身体は与えられます。異なるのは、その居場所です。これについては、後述(金持ちとラザロの話)しますので、参照してください。

 聖書がいうところの知るとは、知識として知ることではなく、人格的な交わりを通して知るという意味。祈りなどを通じて、神との人格的な交わりを持つことが、聖書のいう知るです。だから、信じた人は、世界の基が据えられる前から愛してくれた神と人格的な交わりを楽しみながら、神と共に生きることになります。

 だから、不治の病に苦しんでいる人、ケガや事故で身体の一部を失った人、老いや身体の衰えを認めたくない人、人に言えない悩みがある人、うつ病など精神的な疾患がある人、貧乏な生活から抜け出せない人、認知症がひどくなったと感じている人、明日が来てほしくない人、人と会いたくない人、自暴自棄が止まらない人…大丈夫です。貴方は癒されます。ケガや事故に負けない身体をいただけます。もう一度上を向いて生きられます。

あなたは地球ができる前から愛されていた

不信仰という信仰、無神論という信仰

 無神論者、または信仰を持たないという人の数は、日本では多数を占めています。おそらく本人は認めたくないでしょうが、「私は信仰を持っていない」「神はいない」という人たちは、"そういう信仰を持っている"と言えるでしょう。言うなれば"不信仰という信仰"、神などいないという信仰です。

我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。

宮本武蔵

 宮本武蔵の有名な言葉。カッコいいですね。カッコいいですが、後述のハデスの灼熱に耐えてから言ってほしいところです。上記は"武蔵の不信仰告白"ともいえる迷言です。"不信仰"という言葉自体、信仰はない、ゼロである、あるいは武蔵のような無頼漢の印象をまとっているので仕方ないのですが、信仰を持たないとは、実際のところ、神の存在を認めない、信仰を持たないことを選択しているといえます。だから、信仰者が信仰に基づいた言動をするように、不信仰者も"ある種の信仰"に基づいた言動をしています。

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。

ロマ 1:21-32

 これが約2000年前に書かれたとは思えないほど、現代を言い当てていると思いませんか? 彼らの鈍い心は暗くなったとか、知者であると主張とか、偶像の神を造って拝み、仕えたとか、~男同士・女同士で情欲に燃えたとか、当然の報いをその身に受けたとか、無価値な思いに引き回されている等々。つまり、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧み。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲であると。

 ありとあらゆるSNSやマスコミでは、ネガティブニュースを垂れ流し、バズるための意図的な神経逆撫で発言の応酬、LGBTQにBLM、多様性を強要する偏向した言論統制、弱者ビジネスとNPO法人、環境ビジネス、家族の崩壊、"カルト"が何かすら知らない人たちが騒ぎ立てた昨今の統○教会の問題等々。これらは、自分たちを攻撃されない安全な場所(不信仰という立場)に置いてから口撃するという、現代のポリコレに通じる部分があります。共通しているのは不誠実で、無慈悲である点。これがまた売れるし、いいねがいっぱい付く。彼らは自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているから。

 海外と日本では宗教認識にズレがあります。日本人は自らを"信仰を持たない民族"と思っているようですが、海外から日本を見ると、日本人はアニミスト Animist にしか見えない。アニミズム Animism とは多神教です。「いや、俺は宗教は信じてないよ」と言い張っても、年明け初詣に出向いたり、宮崎アニメを違和感なく受け入れている以上、外国人からすれば、土着の宗教を信仰しているようにしか見えません。

 自ら選んで信じない不信仰と福音を信じた信仰者の行く末は、まったく異なることが聖書には明記されています。

キリストによる"死後のいのち"解説

人は死ぬと何処へ行くの? -金持ちとラザロの話-

 人は死ぬと何処へ行くのか? あるいは、死後のいのちについて、イエス御自身が言及している箇所を見てみましょう。

ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

ルカ 16:19-22

 登場人物は、金持ちラザロという名前の貧しい人。アブラハムの懐(ふところ)とは、ユダヤ人特有の慣用句でパラダイス(天国)の意味で、御使い(みつかい)とは天使を意味する言葉です。

金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

ルカ 16:23-26

 人は死ぬと、その魂はよみ(陰府)という場所に送られます。これは地球の中に存在する多次元の世界であると思われます。よみとは、原語のギリシャ語ではハデス(旧約聖書のヘブル語ではシオール)。このハデスは、アブラハムの懐(ふところ)と狭義のハデスに分かれます。アブラハムの懐は生前信者だった者たち、ハデスは生前不信者だった者たちが送られる場所として区別されています。ラザロはアブラハムの懐に連れていかれ、この金持ちは、ハデスに連れていかれました。アブラハムの懐とハデスの間には大きな淵があり、それを越えて来ることもできなかった。

 ここでもう一人、重要な人物が登場します。アブラハムです。アブラハムはユダヤ人の父祖と呼ばれる人物で、ラザロより少なくとも2000年前に死んでいます。アブラハムは文字通りアブラハムの懐にいたということは、重要な事実を暗示しています。それは魂が不滅であるという事実です。

 ラザロが、アブラハムの懐にいたという事実が示している事柄は一つ。ラザロは神を信じていたという事実。彼は貧しかったが、今は慰めを得ていました。一方、ハデスの側には金持ちがいて、灼熱に晒され、彼自身、苦しみもだえていて、ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてくださいと願うほどでした。ところが、アブラハムはその願いを拒絶します。

金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

ルカ 16:27-31

 金持ちは引き下がらず、なおも嘆願します。家族のため、ラザロを送ってほしいという願いでした。家族がこんな苦しい場所に来ることがないように。生前、ラザロに対しては、情けをかけなかった金持ちでしたが、家族は大切だったようです。死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、家族も信じるようになるだろう、と。それに対し、アブラハムはこう答えています。(モーセと預言者たちとは"聖書"を指す言葉) つまり、聖書の言葉に耳を傾けないのであれば、誰かが死んで生き返ったとしても、その者の言葉は届かない、と。イエスは一度死んで復活しましたが、彼の言葉に耳を傾けないのは、現に我々の目の前で起こっている現象ではないでしょうか?

 ちなみに、アブラハムの懐はイエスの昇天以降、地中から第三の天(多次元の世界)に移されています(エペ 4:8)。現代の信者が死んだ後、魂は第三の天に送られます。聖書では、死とは魂と肉体の分離であって、魂は第三の天かハデスに送られます。

 ここからは、あくまで推論ですが、これらはいずれも多次元の世界と思われ、三次元にいる私たちの視界からは隠された場所にあるのではないでしょうか。多次元と二次元、三次元の世界の見え方については、YouTube等でも幾つか解説動画が見つかります。復活したイエスが、壁を通り過ぎたように見えたり、突然違う場所に現れたりしたのも説明がつくような気がします。この多次元云々の話は、あくまで"理論上の空間"ですが…。

死者の場所(作成:中川健一)

 もちろん、「こんな話、作り話に決まってる」と言う人もいるでしょう。こうした話はいかようにも創作できますから。しかし、イエスがこの話を民衆に聞かせた時、彼はラビ(教師)として語っています。ただ注目すべきは、イエスが"ラザロ"という固有名詞を用いている点です。通常、ラビが例え話をする際は、「ある男」等の一般名詞を用い、固有名詞を用いません。何が言いたいかというと、この話は実話だったということです。ラザロは当時、話を聞いた人たちには、誰のことか理解できたということ。「あのラザロが~」と想像できた。おそらく話の中の金持ちも、おそらく同時期に死んだ金持ちだと分かったはず。

 それでもなお、作り話だと主張される方々には、これ以上、付け加えることはしませんが、前述のとおり、可能性は50%であることをお忘れなく。それも皆が死んだ時にすべて、明らかになります。時すでに遅し、ですが。

 これを読んだ方がよい選択をされるよう祈りつつ。

【参考】
GotQuestions:”救いは信仰のみによって受けられるのでしょうか。それとも信仰に加え、行いが必要でしょうか?”
死者の居場所(聖書に登場する用語集PDF)
解説動画"4次元空間に足を踏み入れた者の末路...."
"Commentary Series: The Book of Acts" by Dr. Arnold G. Fruchtenbaum

文中聖書引用:
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会


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