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ケアの時代2~TVドラマ「となりのチカラ」の「ケア」(テキスト版)

前回のコラム、長くなってしまったので、今回は少し軽めに。

TVドラマ「となりのチカラ」が興味深い。
前回のコラムでも少しだけ触れたが、明らかに今の日本社会を反映している作品だ。

!以下、(少しだけ)ネタバレを含むのでご注意ください!


嵐の松潤演じる中越チカラが、同じマンションの住民たちに対して、徹底的にお節介を焼いていくというのが、大まかなストーリーだ。
しかも、「こんなやつ実際いたらちょっと怖い」というくらいにお節介が度を越していて、主人公のキャラクターのあり得なさが際立っている。

チカラの父は、チカラが高校生のときに、妻(チカラの母親)が病死したショックで自殺している。
チカラは、当時父に対して何もできなかったことに、大きな後悔を残したまま大人になった。
だからこそ、他人の問題に首を突っ込んでしまう、という説明は一応されてはいるのだが。

かといって、いわゆるヒーローのように頼もしいわけでもなく、性格は優柔不断。
妻子にもなめられてしまっている。
職業は、作家を目指しているが、今のところはゴーストライターをして食いつないでいる。
「うだつの上がらない」という形容詞が、もっとも当てはまっている。
役とはいえ、あの松潤が劇中で「中途半端なイケメン」と称されることも含めて、哀愁を感じざるを得ないキャラクターだ。

チカラが首を突っ込む問題は、どれも現代日本社会のリアルな問題ばかりで、住民たちの住むマンションを「社会問題マンション」と呼んでもよいくらいだ。
家族の不仲、高齢者介護、ヤングケアラー、外国人労働者、児童虐待、少年犯罪など、どれも一筋縄ではいかない。
マンションといっても、見た目はかつての公団住宅で、金持ちは基本的には登場しない。
問題を抱える登場人物は皆、いわゆる庶民であり、その背景には貧困も、うっすらと透けて見える。

誰もが直面しうるが、解決は難しいであろう他人の問題に、家族も呆れるくらいお節介をするチカラ。
最終的にはなんだかんだ解決に向かっていくのだが、彼が具体的な解決策を提示するわけではなく、話を聞いたり、ちょっとしたお節介で人を結びつけるだけ。
「隣にいることはできます。何時間も話をきくことはできます。」というチカラのセリフが象徴的であり、この作品の主旨なのだろう。
個別に抱えるさまざまな社会問題に対して、他人である自分は何もできないけど、その心に寄り添おうとすることだけはできると。

この作品では、今、社会ではこうしたこと/ひとが望まれているということを表しているのであろう。
昔は、ご近所さんで助け合っていた「古き良き」時代もあったが、今や、となりに誰が住んでいるかわからない。
とくに彼らの住むような都心の集合住宅では。
こうした失われた地域コミュニティの復興が望まれていることを描いているのであろうが、チカラというキャラクターのあり得なさによって、現実的にはこれが難しいということも同時に示している。
あくまで、これはドラマというファンタジーなのだ。

だが、現実のほとんどの家族が、ドラマのようにいずれかの社会問題を抱えているということだけは、ファンタジーではない。
そして、現実世界にはチカラのように問題を解決してくれる人も、金も、行政も、福祉も、地域コミュニティもほとんどない。
あったとしても、うまく機能しているとは言い難い。

「隣にいることはできます。何時間も話をきくことはできます。」というチカラのスタンスはまさに「ケア」だ。
他人に対して、できることといえばこれくらいだろう。
だが、それでいい。
誰しも、中越チカラの百分の一くらいのお節介をすればよい。
たったそれだけで、少しだけ救われる人もいるのも、また現実だ。
それが意味のないことだとは思えないし、その意味や意義はこれからもどんどん大きくなっていくのが、「ケアの時代」だろう。


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