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ドット絵をInstagramとblueskyに上げています。沖縄で生まれ育ち朽ち果てる存在。

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◆第五回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

 以上のようなことから、夢と知覚は、本質的に異なることがわかる。両者のあいだの区別は、内容的な特徴の区別にあるのではなく、疑いや問い、予想や推測のような意識のはたらきの有無、あるいは、実際に遂行されていなくとも、それが可能的に含まれているか否か、にある。 (第二十六段落)  現在の自分の意識に関して「夢かうつつか」と判断したとき、彼はすでに目覚めている。なぜなら、夢の中では疑いをもって問いを発すると言うことが起こらないからである。それゆえ、デカルトの夢懐疑も荘周の胡蝶の夢の

    • ◆第三回~第四回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

       第三回の読書会は前回から少し間を置いたので、後戻りをしつつ、ゆっくりと読み進めた。第四回は、主催と私の二人しか来れず、実質キャンセルとなり、再開するまでさらに期間を空けることになった。よって今回は第三回分と第四回分の読み進めた分量をまとめて要約した。それでも短めだが。    以上のようなことから、覚醒と夢を根本的に区別する契機の一つは否定であると言える。[*1]それは夢の内容のうちに互いを否定する関係が含まれるかどうかということではない。そうではなく、「これは発車ベルの音

      • ◆第二回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

         この記事は前回の続きである。最近、魔神ぷーさん主催の読書会で山本信(やまもと まこと)さんの論文「夢とうつつ」(1961)を読んでいる。前回と同様、その日読まれた範囲での概要を段落ごとに記していく。参加者たちが興味深い議論を展開していたが、完全に忘れてしまった(感想を書こうと思っていたのだが)。思い出したら、また追記する。今回読んだのは第二十段落の途中までだったが、きりが悪いので要約した。  第二回:24/05/12(第九段落~二十段落目)概要  近世の哲学の主観主義的

        • ◆第一回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

           本記事は、まず最初に、魔神ぷーさん主催の読書会にて皆で朗読した山本信(やまもと まこと)さんの論文「夢とうつつ」(1961)のその日読まれた範囲での概要を段落ごとに記していき、その次に、読書会の会話のなかで持ち上がった問題について、短い私的な感想を付記している。  第一回:24/05/05(第一段落~八段落目)概要  この論文で取り扱われる主題は「夢」であるが、そこで問題とされるのは、精神分析のように夢の内容的な側面から夢の成立構造や意味を解き明かすことではなく、夢にお

        ◆第五回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

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        • 読書会後記まとめ
          3本
        • 拙文
          5本
        • 読書メモ
          3本

        記事

          「解釈学・系譜学・考古学」読書会私記――永井均の「忘却論」

          本記事は、最初に永井均「解釈学・系譜学・考古学」の概要、次にそれを受けて私が実験的に書いてみたメーテルリンク『青い鳥』の二つの変奏があり、最後に、先日行われた魔神ぷーさん主催の読書会への「あとがき」のようなものを置いた。  「解釈学・系譜学・考古学」概要 1.私たちは、自分の生をはじめから肯定できる観点を、ぜひとも見つけたいとつねづね思っている。その歩みは、あらゆる過去の思い出や現在のさまざまな出来事を「もともとそうであった」という観点のもとで解釈することを通して、

          「解釈学・系譜学・考古学」読書会私記――永井均の「忘却論」

          人生は一回しかないという、この一回がどうしても記憶できない。人生の一回に当たる「これ」がどうして「この」一回に当たったのかを、どうしても私は記憶できないのだが「人生は一回しかない」という言葉のかたちを記憶することはできる(内容の記憶はない)。「存在しない記憶」とは、畢竟これか?

          人生は一回しかないという、この一回がどうしても記憶できない。人生の一回に当たる「これ」がどうして「この」一回に当たったのかを、どうしても私は記憶できないのだが「人生は一回しかない」という言葉のかたちを記憶することはできる(内容の記憶はない)。「存在しない記憶」とは、畢竟これか?

          永井均が哲学を宗教より信仰の誠実さを求めるための「祈りを拒否する祈り」であると書いていて思い出したのは、哲学者から神学者に転身したリヒャルト・クローナーが晩年、哲学はただ信仰の形式においてのみ宗教に対して優位にあると述べていたこと。それはそうとクローナーは忘却されてしまいました。

          永井均が哲学を宗教より信仰の誠実さを求めるための「祈りを拒否する祈り」であると書いていて思い出したのは、哲学者から神学者に転身したリヒャルト・クローナーが晩年、哲学はただ信仰の形式においてのみ宗教に対して優位にあると述べていたこと。それはそうとクローナーは忘却されてしまいました。

          感想を書いてからしばらくして思い出したが『perfect days』には、誰もが出入りする公園(そこにある大木)と、そこに何が建っていたか誰にも覚えられていないような空き地、という対比があったように思う。平山という男の内心を少し考えてしまった。

          感想を書いてからしばらくして思い出したが『perfect days』には、誰もが出入りする公園(そこにある大木)と、そこに何が建っていたか誰にも覚えられていないような空き地、という対比があったように思う。平山という男の内心を少し考えてしまった。

          正気を保ちつづけるには足りない──ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』感想

           質素でミニマルな生活様式は、ただミニマルなだけではなく「精神的な余裕」をプレゼンスとして広告表示されるものでなければならない、という強い偏見が今の社会にはないだろうか。  ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』は、そうしたミニマルな生活様式へ向けられたよくある偏見──貧しくても慎ましい生活している人であれば、それだけ心の余裕(心の豊かさと言われるような気質)を持っているはずである、という偏見──を、明らかに商品広告化している。  役所広司演じる平山という男の生

          正気を保ちつづけるには足りない──ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』感想

          昨日、10年近く連絡を取っていなかった小・中学の同級生と再びつながった。電話越しにホッとした。とても嬉しい。ここ数年で一番嬉しかったかもしれない。

          昨日、10年近く連絡を取っていなかった小・中学の同級生と再びつながった。電話越しにホッとした。とても嬉しい。ここ数年で一番嬉しかったかもしれない。

          「未来の印象」と「永遠の無」の謎――成田正人さんと高村友也さんの著書についての三つの所感

          (加筆修正:2024/02/10)  帰納法と「死」  「帰納法」の問題は、ひろく認識論の問題であると言われる。私たちは「昨日も今日も、太陽は東から上っていた」と個別的な事例を集めてから「だから明日以降も、太陽は東から上るだろう」と一般的なことを「帰納」している。しかし「これまで」がそうだったからと言って、なぜ「これから」もそうであると言えるのか?という問いに正面を切って答えられる人はどこにもいない。 だから、少なくない人達は、回り道を選んで「どのようなことがこ

          「未来の印象」と「永遠の無」の謎――成田正人さんと高村友也さんの著書についての三つの所感

          吉永剛志さんのブログで今の大学人を批判する文脈から「なんでお前のキャリアアップのためだけの本を部外者が読まないといけないのか」と書かれていて、あらゆる出版文化に通底する言葉だと思った。

          吉永剛志さんのブログで今の大学人を批判する文脈から「なんでお前のキャリアアップのためだけの本を部外者が読まないといけないのか」と書かれていて、あらゆる出版文化に通底する言葉だと思った。

          理由がないからこそ貴重で大事、の「からこそ」が分からない

          入会していない私でもこれは無料で読めるらしく読んでみた。 最近読んでいる下の本の主題と共通する「死への恐怖」。 私は投稿者の子供の問いには共感するし、なんならいつもそれを考え続けている。それに対する東浩紀氏の娘さんの回答も頷ける。ところで、この高村友也氏『存在消滅』は、微妙な差異だけども、東浩紀氏と東の娘さんが言っているような人生の内部で起こる他人の死や苦しみや孤独などの問題として言われる「死への恐怖」ではなくて、永遠の無、すなわち人生の外部での「永遠性の伴った死への恐怖

          理由がないからこそ貴重で大事、の「からこそ」が分からない

          父が死んだ日

           去年の今頃、父が死んだ。おそらく心臓発作だった。まだ六十代前半にすぎなかったけど、私には人が何歳で死んだとか、さほど大事なこととは思えない。六十でもまあまあ生きた部類だと思う。父の死ぬ前日に、LINE通話で少し会話をした。一人暮らしの父と頻繁に連絡を取っていたのは少し離れた地域に住んでいる、同じく一人暮らしの私一人だけだったと思う。父は11月末から風邪を引き始めて、師走に入っても、やや体調を崩しがちだった。12月中旬に「明日また病院へ行く」という話を聞いて、そのあと二度と連

          X(旧twitter)アカウントを削除した。十代の頃から数える程度はアカウントを作って薄々気づいていたが自分は結局SNSに向いていないと感じる。しかしファンアートという名目で人にイラストを送るのは楽しい。童心に返れるからだ。今後も密かに…続けるつもり。

          X(旧twitter)アカウントを削除した。十代の頃から数える程度はアカウントを作って薄々気づいていたが自分は結局SNSに向いていないと感じる。しかしファンアートという名目で人にイラストを送るのは楽しい。童心に返れるからだ。今後も密かに…続けるつもり。

          冬季鬱っぽい日が続いていた。免疫系にも影響が出たのか、どうやら風邪を引いたらしく、体が重く、珍しく寒気もある。父の一周忌が終わり、久々に会った親戚の変わりようも見たのでややメンタルが沈んでいたところを、この体調不良だ。少し落ち着いたら、コンビニに出かけよう。

          冬季鬱っぽい日が続いていた。免疫系にも影響が出たのか、どうやら風邪を引いたらしく、体が重く、珍しく寒気もある。父の一周忌が終わり、久々に会った親戚の変わりようも見たのでややメンタルが沈んでいたところを、この体調不良だ。少し落ち着いたら、コンビニに出かけよう。