見出し画像

◆第三回~第四回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

 第三回の読書会は前回から少し間を置いたので、後戻りをしつつ、ゆっくりと読み進めた。第四回は、主催と私の二人しか来れず、実質キャンセルとなり、再開するまでさらに期間を空けることになった。よって今回は第三回分と第四回分の読み進めた分量をまとめて要約した。それでも短めだが。


 
 以上のようなことから、覚醒と夢を根本的に区別する契機の一つは否定であると言える。[*1]それは夢の内容のうちに互いを否定する関係が含まれるかどうかということではない。そうではなく、「これは発車ベルの音ではなく、目覚まし時計の音である」とか「さっきまで東京にいたのに、いま京都にいるということはありえない」等、否定するという意識の態度が夢の中にはないということである。このことを一般的に定式化すると「これは夢ではない」ということであり、少なくともそれが夢の中で起きたという報告は聞かれない。
(第二十一段落)

 今まで論じてきた「これは夢である」「これは夢ではない」はそれぞれ一つの判断であるが、それらを考察してきたところから一般化して、夢の中でわれわれは判断をしない、と言いうる。しかし、判断しているという夢を見ることはできる。つまり、Xについて自分が判断を下しているのではなく、Xについて自分が判断している状態を夢見ているにすぎない。
(第二十二段落)

 それでも以上のようなことは簡単に承認されない。夢の中でもわれわれは議論をしているではないか、と言いうるし、実際そのような夢はありうる。しかし、一般に、判断には予想や推測が含まれる。何かを判断することは、同時に、今まではかくかくしかじかであったのだから、これからは、かくかくしかじかであるだろう、という予想や推測を立てることでもある。それは、漠然とした一般常識でもあれば、厳密な科学的知識のような一定の筋道や法則性を有する場合もある。しかし夢の場合、予想や推測があるとしても、一定の筋道や法則性に支えられた予想や推測ではなく、一時の恐れや不安、期待や願望といった感情にすぎない。夢の中では、かくかくであればしかじかであるはずだという予想や予測は、合理的な考えによって支えられたものではなく、むしろ逆であって、感情の働きによって、期待されたり恐れられたりするが故に、すでにそうなっているのである。夢の中では、予想することはそうなった原因であり、推測されるときはすでにそれは起こってしまっている現実には、予想や推測は誤ることはあるが、夢の中では、予想や推測が誤るということは起こり得ない。[*2]何か荒唐無稽な経験が夢の中で起ころうと、予想外のことであるとは思われず、すべて当然の出来事として現れている。
(第二十三段落)

 さらに、疑いや問いを持つということを夢は知らない。われわれは、自分の考えが事実によって否定される可能性が念頭にあるからこそ、疑いや問いを持つ。予想や判断は(必ずしもそれに先立って疑いや問いが発せられるわけではないにせよ)そうした態度への答えである。疑いや問いとは、互いに否定しあう命題のいずれが答えなのかを客観にゆだねることであるが、夢のなかには否定の可能性がないということは、今まで述べてきた通りである。
(第二十四段落)

 夢に疑いや問いが含まれていないことは、また、夢の中でわれわれはすでにすべてを知っているという形で現れてくる。夢の中で、扉の前に銃を持った男がいるということを、私は見ていなくとも、その一挙手一投足をすでに知っている。その男が友人なのか敵なのかということを少しも疑ったりせずに、その男が凶悪な賊であることをすでに知っているのである。
(第二十五段落)



[*1]余談だが、『トゥルーマン・ショー』型の見せかけと、『マトリックス』型の見せかけ、という対比が参加者の会話から出てきた。前者には、トゥルーマンを中心とした見せかけの舞台装置という物理的な壁があって、それを物理的に突破することが可能である。しかし、後者では、突破するにせよ、何を突破したのかが明白には分からないところがある。

[*2]この文章からして、夢の中では、予想が当たることもあり得ないと言えそうである。たとえば「そろそろ夢から醒めそうである」と夢の中で予想し、実際に夢から醒めたときでも、夢の中の予想が当たったのではなく、夢から醒めそうであるという状態を夢見て、醒めた後の状態から結果だけを一致させているにすぎないと言えそうではある。つまり、それは予想の的中ではなく、100%結果の見えた(実際に見たというより、見た結果しか残らなかった)予言の自己成就である、と。なんとなくだが、これは、ジョジョ第五部に出てくるボスの能力(過程を吹き飛ばし、結果だけを眺める能力)に類比的ではないだろうか。

#山本信 #夢とうつつ