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正気を保ちつづけるには足りない──ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』感想

 質素でミニマルな生活様式は、ただミニマルなだけではなく「精神的な余裕」をプレゼンスとして広告表示されるものでなければならない、という強い偏見が今の社会にはないだろうか。

 ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』は、そうしたミニマルな生活様式へ向けられたよくある偏見──貧しくても慎ましい生活している人であれば、それだけ心の余裕(心の豊かさと言われるような気質)を持っているはずである、という偏見──を、明らかに商品広告化している。

 役所広司演じる平山という男の生活様式こそ、ヴェンダースから我々に届けられた〈商品〉そのものである。

 そのような、よくある偏見が絡んだ問題を素通りして、単に平山の生活への「憧憬」や「感化」を開陳して憚らないレビューがネットにわんさとあるのは、そうした映像やイメージを我々が〈商品〉として日常的に浴び続けているせいだろう。

 私が映画の序盤で平山という男から受けた印象も、缶コーヒーのCMに出ているときの役所広司という俳優の勿体ぶった身振り=イメージを越えるものではない。だから、そうしたレビューが多いのも仕方がないか、というほかに感想がないのだけれど、この映画のどこに缶コーヒーのCM的な「陳腐」さを越えるカットがあるだろうか。

 映画は、平山の日常生活のルーティンを繰り返しフレームに納める。公衆トイレの清掃は、変わり映えのないシーンとはいえ、その労働の合間の小さな出来事が、平山という男の表情や視線から分かるように、どれ一つ取ってもかけがえのない出来事であるように映し出される。それが平山の「心の余裕」から来ていて、あたかも質素でミニマルな生活様式の原動力であるかのように我々は錯覚する。彼が依存しているもの(彼に依存しているもの)から目をそらすのにちょうどいい「ガジェット」が彼の周りには多いのだ。
 
 平山の一日の終わりに映し出される「木漏れ日」は、今日という出来事が一回限りであった、と過ぎ去る日々を惜しむような郷愁に似たイメージへと我々を誘う。

 しかし映画の中盤になると、平山と同じくトイレ清掃していた別の従業員が急に辞めたことでシフトに穴が空き、平山からいつもの余裕がなくなるシーンがある。情景は、のどかな昼の街から騒がしい夜の街に変わり、ルーティンから突如外された平山は、孤立無縁さの度合いを高める。

 辞めた人間一人分の残業をさせられ、いつもの労働時間を超過した平山は「毎日はできないからね」と電話に向けて初めて声を荒げながら、空いた労働力の補填を会社に訴える。それは平山自身が入れ替え可能な労働力であることを示しているが、(終盤に出てくる平山の妹がやんわりと示唆するように)この男にとって、労働力の入れ替えが激しい仕事をどうやら自主的に選んでいるという選択自体は、居心地が良いことなのだろうと思う。

 首都圏(映画の舞台は渋谷区)の公衆トイレの清掃労働に限らないが、人が一人で「毎日はできない」労働量のある現代社会の公共サービスは、フレキシブルに人員を補填しなけれすぐに回らなくなってしまう(地方ならすでに回っていない場所も多いだろう)。

    平山という男にとって、一回限りの出来事や役割のかけがえのなさよりも、入れ替え可能でありフレキシビリティが貫徹されるべき場所とルーティンが、ある程度、孤独のなかで正気を保つためには必要なのではないだろうか(居心地が良いか悪いかを越えて)。

 とはいえ、孤独で質素な生活だからこそ「精神的な余裕」があるといった偏見を含んだ短絡的な幻想を、平山の労働条件や出身階級(平山の家族はかなり上層の階級であることが窺える描写がある)を度外視してこの映画に読み込むレビュー群は、端的に言って「衆愚」であると思う。
 
 映画の終盤、平山の家に転がり込んできた姪(平山の妹の娘)と夕方の空の下で自転車を走らせながら、平山は自分の母親との仲を聞く姪に向かって(※正確なセリフは覚えていないので申し訳ないが)「つながっているように見えて、つながっていない世界がある」と言う。平山と、彼の妹の世界はつながっているようで、つながっていない。姪は「私は、おじさんの世界と、お母さんの世界の、どっちにいるの?」と聞くが、平山は何も答えなかった。

 そのあと、姪が「海まで行こうよ」と平山に言うと、平山は「また今度」と突き離す。「今度っていつ?」と姪が聞くと「今度は今度、今は今」と平山は柔らかく返す。二人は「今度は今度、今は今」と歌うように復唱しながら、また自転車を走らせる。

 その夜、姪を迎えに来た平山の妹が乗る黒光りの高級車は、まさに彼と彼の妹の住んでいる世界(「階級」と言ったほうがいいのだろうが、繰り返すと平山は本来富裕層の出身である)が異なっていることを平山の言葉通りに示唆するのだが、その別れ際、平山は姪に抱擁されると、平山はそれに応えるように、妹を抱擁するのだ。そのとき世界は一瞬だけつながったように見えた。

 平山にとっては「つながっているように見えて、つながってない世界」にいる妹を抱きしめることを「また今度」のままにしておく余裕なんてなく、もう妹や姪(そして父親)には二度と会えない、と無意識にでも感じていたからこそ、あの咄嗟の抱擁だったと考えたほうが自然かもしれない。

 そう考えるとラストシーンの、朝日に照らされる悲喜の込み入った平山の表情は、妹を抱擁したあとも「つながっていない世界」が厳然と存続していることを実感させられ、変わらない孤独さと一瞬一瞬がかけがえのないルーティン・ワークとのあいだで引き裂かれるように、必死に正気を保っている様子なのではないか。このカットこそ、缶コーヒーのCM的陳腐さを高く越える、役所広司の並外れた演技であったと私は思う。

 結局のところ「精神的な余裕」がプレゼンスとなる〈商品〉としてのミニマルな生活様式は「つながっているように見えて、つながっていない世界」に生きるしかない孤独の前で、正気を保ちつづけるには足りない──

 ──少しの抱擁を除いて。
 
 それがヴェンダースのメッセージかもしれない。
 しかしそんな、いかにもな階級差の「ごまかし」が多数派の日本人の心には響くだろうと暗に見透かされているとも言えるこの映画──どうも日本の広告代理店と世襲経営の企業が何かしらの形で映画に貢献しているらしいが──を見て「何か腐った臭い」を誰も感じないのだろうか。
 ネットの「感化」されたレビューを眺めて、私は暗澹としつつ、役所広司が宣伝していたコーヒーを空っぽの胃に流し込む。

 世の中、もっと正気になれ。俺も正気になる。


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