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◆第二回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

 この記事は前回の続きである。最近、魔神ぷーさん主催の読書会で山本信(やまもと まこと)さんの論文「夢とうつつ」(1961)を読んでいる。前回と同様、その日読まれた範囲での概要を段落ごとに記していく。参加者たちが興味深い議論を展開していたが、完全に忘れてしまった(感想を書こうと思っていたのだが)。思い出したら、また追記する。今回読んだのは第二十段落の途中までだったが、きりが悪いので要約した。


 第二回:24/05/12(第九段落~二十段落目)概要

 近世の哲学の主観主義的、観念論的な性格は、デカルトの夢の懐疑の呪縛のうちに捉えられていた。その問題が直接的には取り沙汰されなくなったのは、それと別の考え方がなされるようになったというよりも、むしろ問題が乗り越えられたものとして見做されたためであろう。(第九段落)

 それら観念論に反対する唯物論はどうかといえば、両者は互いの対立を成立させるために互いを必要としており、その同じ土俵となる思考方式を保持している点で、同じ穴の貉である。(第十段落)

 デカルトの夢の議論について根本的な疑問を呈したのはサルトル(『想像力の問題』)であったが、一般には注目されておらず、サルトル自身もそれ以上の展開を行わなかった。この論文の目的は、デカルトの呪縛を(哲学的にものを考えることで)破ることにある。(第十一段落)

 【第二節】

 夢は記憶においてしか語られない。夢について語るときは、醒めているのでなければならない。その限りで、夢と知覚とは区別される。(第十二段落)

 問題は夢を語るとき、夢と現実の知覚は区別されているにせよ、その現在の知覚が夢ではないとどうして言えるのか、ということにある。夢と知覚の絶対的区別を否定するときには、二つの言い方がある。
 ①今は現実の知覚だと思っているものが夢で、その夢から醒めることがありうるかもしれないではないか。実際、劇中劇のように、夢について語っているその現在が夢である場合がある。
 ②夢として思い出しているものと、現在の知覚だと思っているものが実は逆かもしれないではないか(例:「胡蝶の夢」)。荘周が夢に胡蝶となったのか、胡蝶が夢に荘周となったのか。(第十三段落)

 こうした言い回しが問題なのである。というのは、知覚経験を意識内容として取り出し、夢として記憶された意識内容を比べ合わせてその差異の徴表を求めても、それはどこにもない。デカルトの議論の前提でありながら罠でもあり誤りでもあったのは、この意識の在り方そのものを意識内容として捉え、その上で知覚と夢を比べたところにある。(第十四段落)

 そこで困ったことが起きる。夢は記憶においてのみ知られ、各人にとっての夢でしかない。夢は共同的に探究しうる対象ではない。帰納的事実は反証され、つねに客観的に訂正されるからこそ共同作業として修正されていくが、夢の場合は個人的な体験による反証から議論全体が止まってしまう。その難点の解消法としては、よく夢の話を聞き、当人と対話し続けることである。当人が認めないと言われれば致し方がないが、この方法で満足の行くところまでは行ける。(第十五段落)

 第一の論点は、夢を夢として認めることである。デカルトや荘子の議論ではこの現在の知覚が夢であるかもしれないということであった。だが「これは夢だ」という意識が夢のなかで起きるのだろうか。同じ場面を繰り返し何度も夢見ることで、この経験はよく起きる。(第十六段落)

 しかしこの経験が怪しいのは、これは夢だと意識したとき、その瞬間は覚醒していて、実はそれを忘れているだけではないのかということである。額面通りに夢の中で「これは夢だ」と意識したとしよう。しかし一瞬覚醒したかのように意識が浮かび上がったとしても、再び夢に捉えられてしまうのが入眠時の常であって、したがって「これは夢だ」は判断として納得されていないということである。もしそう判断できたとしたら、再び夢のなかに捉えられてしまうことはないはずである。(第十七段落)

 これは夢だ、という意識はその夢を見ている意識に対して否定の関係にある。しかし「これは夢だ」ということ自体がその夢の中に含まれているのではないというだけではなく、その夢と同時に意識できるか、同一の意識でそう考えられているのかどうか、疑わしい。(第十八段落)

 右の論点よりもさらに根本的なのは「これは夢ではない」という意識である。管見のかぎり「これは夢ではない」ということを夢のなかで意識したという事例はない。当の夢において「これは夢ではなく現実なのだ」という判断は、いかなる程度にも含まれてはいないと考える。となれば、現実においても「これは夢ではなく、云々」とわざわざ確認したりしない、と言われるだろう。その通りだが、少なくとも現実では「これは夢ではない」と何度も確認することができ、夢ではそれができない、と私は言いたいのである。(第十九段落)

 「夢から醒める」という意識についてはどうだろうか。夢の中でも夢から醒めることがある。となれば、夢から醒めているという意識も夢なのではないかという論点を掘り下げるために、音に関する夢とその音によって目が覚めた場合を例に取れる。たとえば、風が窓を揺さぶる音のせいで、ドアが何者かによって叩かれているのを夢見る。感覚所与は同一なのだが、ここで夢と現実の知覚によって二つの違った判断がなされていると理解してはならない。私は目覚めて、ドアが何者かによって叩かれているのではなく、風が窓を揺さぶる音であったと気づく。判断には必ず「・・・のではなく」が含まれていることに着目してほしい。夢の中で、私は何者かによってドアが叩かれていると確信する。しかし、確信しているだけで「・・・のではなく風が窓を揺さぶる音だ」と判断しているわけではない。もちろん、覚醒時においても、われわれは日常生活の場面でいちいち判断を下してはおらず、ほとんど習慣的な確信で、そしてそれのみによって行動している。覚醒時においても上のような錯誤はありうる。しかし夢の中では覚醒している場合のように訂正することができない。夢の中でも確信は変化しうるが、一つの確信から別の確信に移るだけで「間違いだった」や「本当は・・・だった」が起きることはない。それは覚醒時にしか起こりえない意識である。(第二十段落)

#山本信 #夢とうつつ #デカルト #夢の懐疑