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「未来の印象」と「永遠の無」の謎――成田正人さんと高村友也さんの著書についての三つの所感

 (加筆修正:2024/02/10)


 帰納法と「死」

 「帰納法」の問題は、ひろく認識論の問題であると言われる。私たちは「昨日も今日も、太陽は東から上っていた」と個別的な事例を集めてから「だから明日以降も、太陽は東から上るだろう」と一般的なことを「帰納」している。しかし「これまで」がそうだったからと言って、なぜ「これから」もそうであると言えるのか?という問いに正面を切って答えられる人はどこにもいない。
    だから、少なくない人達は、回り道を選んで「どのようなことがこれまでに起こり、これからはどうなると言えるのが正しいのか?」という一定の信頼性を持った予測を提示する営みを日々忙しなくしている。かくして「なぜ帰納は正しいのか?」という個別的事例の「一般化の正当性」を問うことから「どのような帰納が正しいのか?」という事実の記述的な「正誤」へと「帰納」の問題は移行した。
    これが伝統的な帰納の認識論の非常におおざっぱな歴史である。とはいえ「なぜこれまでから、これからが分かるのか?」という問いは、すべてが謎に包まれているわけでもない。成田正人は「これまで」の「過去の印象」はもう経験することができないが「未来の印象」は「これから」経験することができる、という点に着目した。世人にとっては当たり前のことに聞こえるだろう。「十日後に降る雨」の印象は、当たるか外れるかするかもしれないが「十日前に降った雨」の印象は二度と戻らないので、その経験の「当たり・外れ」を直接呼び起こすことはできない。こうした事実を、成田は正しくも帰納における「未来の印象」の「経験への的中」の問題とし、上に述べた帰納の「正誤」を扱う伝統的な帰納の認識論と区別して、「未来の印象」の経験への「当否」を問う「帰納の形而上学」の問題として取り扱う視点を新たに提出した。その問題は「なぜ帰納は外れるのか?(当たるのか?)」という問いに縮約することができる。
 成田の『なぜこれまでからこれからがわかるのか』(以下『なぜこれ』)は、デイヴィッド・ヒュームの哲学に沿った伝統的な「帰納の問題」と、成田の「形而上学」のある種の共同作業(対話)がベースラインにあり、そこで出てくる用語を本記事でも使わせていただくので、まだ未読の人にはやや読みにくいかもしれない。[*1]

 ところで、成田がこの著作であまり語らなかったことは「死」である。
 当然だが人は、他人が死ぬ、ということを「これまで」起きた出来事であり、そして自分が死ぬことを「これから」起きる出来事としてイメージする。アリストテレスの「人は死ぬ。ソクラテスは人である。よってソクラテスは死ぬ。」という演繹は、見方を変えればまた「帰納の問題」としても取り扱える。しかし誰もが人間や動物の「死」を個別的な事例から一般的な観念として帰納することはできても「取り立ててこの自分が死ぬ」ことについてどう考えればいいだろうか。
 まず「私の死」が「経験に的中」するかどうかと考える。
 しかし、自分はいつか「必ず」死ぬと分かっているというのに、そんな問題を平穏無事な環境の中にいてわざわざ立ててみるのはおかしいのかもしれない。個人的に人間が「自殺」するときの計画性にやや惹かれるところはある。しかし、今はそういうことが言いたいのではない。 
 ここには、死んだ後に待っている「永遠の無」を恐怖するかしないか(信じるか信じないか)によって、ただ死に絶望するか、あるいは「永遠の無」から目をそらすことによって人生に関するあらゆる価値世界の喪失を、別の物語や体験によって埋め合わせるかしかないという人生のジレンマがある。
   後者の選択を、高村友也の著作『存在消滅』に倣って仮に言ってみると「死」を考えること自体が無駄で退屈に思える程度には人生を物語化して「永遠の無」の永遠性を忘却しながら気晴らしをするしかない、といった意味になろうか。彼の言い方では「死への恐怖」から「死を前提とした生き方」への移行である。

 高村友也は「永遠の無」への恐怖と「死」への恐怖は分けられない、と考えている(信じている)。彼は正しくも、それを強く信じられない人々(つまり「永遠の無」と「死」を分離して別々に語り、その恐怖を脱色して物語化する人々)の立場を意識しつつ、そうでない自分自身との違いを注意深く見分けている。要するに、この世界には「永遠の無」を前提とした「死」とそうでない「死」と、その微細だが重要な差異を自覚して生きる人とそうでない人がいるように思える。しかし重要なのは、高村はあくまで「永遠の無」への恐怖を不動の出発点として「死」について考えており、他人がその「永遠の無」と分離された「死」への恐怖を、いくら生きるためとはいえ物語化して「永遠の無」への恐怖と並列しようとしたところで高村にとっては絶対に並列できないということである。[*2]

 帰納の形而上学と「私の死」


 死は怖い。しかしそもそも「死」を経験することはできるだろうか。
 「私の死」の「経験への的中」を考えた途端に「私は「私の死」を直接経験できない」という強い蓋然性を帯びた信念が入り込んでくる。すると、どうなるか。その瞬間、この世界の「死」についての「未来の印象」に「当たり・外れ」を立てることそれ自体が大きな「矛盾」として現れてくるように思えないだろうか。なぜなら死んだ後には「永遠の無」が待っており、私はそれを「経験」することができない、だけではなく「この世界」をもう二度と体験できないからである。その「矛盾」から出発して「未来の印象」を捉えることは、それ自体が無理な注文である。
 そうした注文は私たちの経験を超えた「永遠の無としての死」は「未来の印象の経験」になりうるか、という問いだが、素朴に言いかえれば「私は死んだらどうなるのか」という問いである。
 ここまで駆け足になったが「帰納の形而上学」について説明しておこう。成田の言う「帰納の形而上学」は、「現前する印象」やその印象を元にした「観念」(これらはヒュームやロックの経験論哲学に基づく用語である)をすべて「この世界」の側に「埋め込む」ところから始まる。
 だから「帰納」の「当たり・外れ」も、すべて「この世界」のなかにこそ、その原因があると前提される。たとえば「明日は雨のち晴れである」という予報が外れ、見事にずっと大雨だったとしたら、外れた原因は予報士にはなく、この世界の気象がその歩みを変えたせいである。そしてもし「自然(の法則)がその歩みを変える」ことがあるとすれば、それは「この世界がその在り方を変えた」からである。少し留保しておくと「世界がその在り方を変える」という「自然の”不”斉一性」は、成田に従えば「未来の印象」だけに有意に語れる出来事であり、それは「過去の印象」にまで遡って、のっぺりと適用される出来事ではない(もちろん、それでも過去の自然において見出された不規則性を、現在から「斉一的に」修正することが不可能というわけではないだろう)。だから、ある意味「自然の斉一性」の原理を採用するかどうかは「未来」に開かれた規範的な問題である。[*3]
 では「私の死」はどうだろうか。「帰納の形而上学」において「永遠の無としての死」が「未来の印象」における「世界がその在り方を変える」ことと“同じ”でないならば、いったい「私の死」とは何なのか、と問えるかもしれない。もし、それが“同じ”ことと言えるならば「私の死」は「この世界がその在り方を変える」ことであろう。とはいえ、あらゆる「他人の死」のなかで「この私の死」だけが「永遠の無」であると言えるのはなぜか?
 このことは、先に見た「自然の斉一性」と同様に「永遠の無」も、事実の問題ではなく、その規範的な問題が「未来」に開かれているということなのではないだろうか。
 しかし、今ここで「永遠の無としての死」は「自然の斉一性」に”等しい”のか、それとも「自然の”不”斉一性」に”等しい”のかと問われると、私は答えることができない。
 ひょっとすると「自然の斉一性」の観点から「永遠の無としての死」を語ることは、カテゴリーミステイクなのかもしれない。なぜなら「永遠の無」は「自然の歩みの変化」というよりは、斉一性や可能性など、私たちが従うあらゆる様相的な価値世界そのものの「消滅」である、と言ったほうが正しいかもしれないからである。
 「正しいかもしれない」というのは、この世界における「消滅」についての規範的な共通了解がないと言いたいからではなく、私が「私の死」としての「消滅」という言葉から思い描くのは「私が死んだ後も相変わらず存続していく世界」であって「自然の歩みの変化」ではない、という端的な事情からである(それは「自然の斉一性」の原理が持つ規範的な性質に似た「静的」な思考の強制力が「永遠の無」という「観念」にも及んでいる、と言ったほうが妥当だろう)。
 
 要するに「永遠の無」と「死」を”同じ”とすることと「永遠の無」と「死」を”等しい”とすることは別の問題だと思う。
 
 ”同じ”と”等しい”を別の用語として分けるべきなのである。

 
 つまり「永遠の無」と「死」が”同じ”であるというときは、あらゆる「他人の死」のなかで「この私の死」だけが「永遠の無」としていかに選び出されるか、という”規範との距離”が問われており、それとは別に「永遠の無」と「死」が”等しい”というときは「死」の背景にある”何か”を「表現」しようとしてるのである。その”何か”とは端的に「私の死」のような、私の経験を超えた”何か”であり、ここではその「表現」が問題になっている。

 成田が『なぜこれ』で述べたように、そもそも「自然の”不”斉一性」を私たちは正しく思考できているだろうか?との問いかけに倣えば、私たちは「永遠の無」を正しく想像できているのだろうか?と言えるだろう。あなたは「永遠の無」を思い描くとき、果てしない暗闇(あるいは白色光)を想像するだろうか。しかし、それを縁取っているのは、やはり「私が死んだ後も相変わらず存続していく世界」ではないか。
 「死」についての「未来の印象」が「永遠の無」に帰す以外にはありえないとしたら、当然それは「帰納の問題」ではない。また、そうした「永遠の無」には、帰納が当たったり外れたりする、経験的な検証の余地さえないので「帰納の形而上学」の問題でもない。
 このように、経験に基づいて有意に語りうる「未来の印象」のなかに一つだけ「私の死」という穴が開いており、そこに入ると二度と戻ってこれないような気がしてくるのは確かである。
 もしかすると「永遠の無」は「帰納の形而上学」においては「この世界の外」の問題であるような気もする。「帰納の形而上学」にとって「永遠の無」は絵画に対するキャンバスのように「これから来る世界」が描き込まれる真っ白な画布と呼べるのかもしれない。
 しかし「永遠の無としての死」は、経時的印象ではなく、また隔時的印象でもない。それは決して「現前する印象」のうちに(痕跡としても)現れることがないせいで隔時的印象と混同されるかもしれないが、そもそも隔時性として相関する「印象」があるならば、それは「永遠の無」ではないことになってしまう。
 だから、経時的印象や隔時的印象を含む客観的な「他人の死」の事例を措いても「永遠の無」は、やはり「帰納の問題」にも「帰納の形而上学」の問題にもなりえない、と言えるのだろう。でも、本当にそれだけだろうか。何かを忘れていないか。そもそも「永遠の無」と「死」をこうも軽々と「帰納」のなかで分離して個別に「語りうる」と思えるのは、どうしてだろうか。「他人の死」についても、とりわけ「自分の死」についても「永遠の無」と分離して語ることについて、あなたはどう思われるだろうか。事実というよりは「真理」に近い事柄として、あなたも私もいつか必ず死んでしまい、二度と「この世界」には戻らないということがありうる。永遠に「永遠の無」がありうる。なぜそんな「未来」がありうるのだろうか。それは「未来」なのだろうか。そういう問いから「帰納の形而上学」を働かせることができるのではないか。
 このことは「永遠の無」という「信念」に関わっている。不思議なことに、この世界で「永遠の無」を強く信じようとするなら、そこで想像されるのはつねに「私が消滅しても存続する世界」である(ヒュームの言葉で言うなら「永遠の無」は「事実の問題」ではなく「観念の関係」であるだろう)。それでもやはり非常に奇妙で、単純に謎なのは「永遠の無」を含む「未来の印象」が「この世界」に単なる”可能性”として残されていることである。「自然の斉一性」の原理と、その規範を私たちが選択するということは別の問題であるのと同じように、私が「永遠の無」に「私の死」を必ずしも結び付けず、分離して語れることにはそうした事情(そういう風に語りえない人たちもいるが)がある、と一応は納得できる。
 しかし、高村の前提に立ち戻るならば「永遠の無」は、私たちが規範的に従うあらゆる価値世界の価値性そのものの「消滅」ではないのだろうか。

 「永遠の無」の規範性と非相関性は、区別して考えるべきである。

 だからこそ「永遠の無」が「未来の印象」のうちに可能性として与えられているならば(それは「人間は必ず死んできたのだから、私もいずれ必ず死ぬだろう」という一般化の正当性とは別の問題である)この世界の帰納的な存在構造そのものが矛盾している、としか考えられない。
 とはいえ、人は矛盾していることに規範的に固執することができる生き物である。ここで考えてきた「永遠の無」は、ヒュームの言うような人間の自然本性として(乗り越えることが不可能なものとして)考えられるかもしれない。これは文字通りニヒリズムなのであろうか。そうかもしれない。私に、これ以上なにが言えるだろうか。

 以上のことを、簡潔に三つの所感にまとめて本記事の結論に代えよう。

 ①「死」の「未来の印象」について考える際に「私の死」と「永遠の無」という問題は避けて通れない、ということ。
 「永遠の無」と「死」が”同じ”であると言われる時は、あらゆる「他人の死」のなかで「私の死」を「永遠の無」として選び出す規範との”距離”が問われており、またそれが”等しい”と言われる時は「死」の背後にある”何か”を「表現する」ことが問われている。

 ②したがって「永遠の無」には「自然の斉一性」の原理に似た規範的な性質の問題と、あらゆる様相を拒否する非相関的な性質の問題があり、だから我々は「永遠の無」を「死」と関係がないものとして分離したり、論理的に関連させたりすることはできる。
 しかし「未来の印象」においては「私の死」が経験への「当否」を問われると「永遠の無」を正面から「理性的に」懐疑することは難しくなる。

 ③「未来の印象」を「経験への的中」において問うという「帰納の形而上学」の営為は、非相関的な「永遠の無」を前提することができないにもかかわらず、それでも「永遠の無」を未来の世界を「表現」する規範的な問題としても残している。

 あなたは、私が抱くこの三つの所感についてどう思うだろう。
 存在しない問いとしての「永遠の無」がありうる。
    「帰納の形而上学」に戻るとすれば「永遠の無」はなぜか「未来の印象」と共立している。
 私は「永遠の無としての死」を経験できないと知っているにもかかわらず、果たしてそれについての「未来の印象」の「経験への的中」を含む帰納的な信念を、これから正しく持てる可能性はあるのだろうか。
 「帰納の問題」として考えれば、答えは「否」だろう。しかし「帰納の形而上学」からするならどうだろう。「この世界」の側に「死」を経験できない理由があるかもしれない。また「永遠の無」は先に述べたように「自然の歩みの変化」(自然法則の変化)ではないとしたら「この世界が一切消滅する」ことであるかもしれない。だとしたらそれは端的に想像不可能である。「世界の消滅」に「正誤」を突き付けても仕方がないが「当否」を付けることはできるかもしれない。どのようにして「当否」を付けられるだろうか。そこでも、まだ「帰納」にヒントがあるのではないかと思う。
 帰納には、一般的で「全称例化」を導くもの(「すべてのa種の個体がFである」)と「別の個別的な一回」(「経験していない別のa種の個体がFである」)を導くものがあって、後者は前者に包括されることで正当化されている。「永遠の無としての死」の永遠性は「全称例化」によって正当化されるなどという形では、決して汲み尽くしえないものだが、個別的な「次の一回」のうちには納まるかもしれない。
 その「一回性」のうちに「永遠の無」が納まるということなら、信じられるかもしれない。しかし、なぜあらゆる「一回」のうちで「次の一回」がそうなのか。なぜ「次の一回」で私は「永遠の無」になるのだろうか。一寸先は闇、ということをどうして信じられるのだろうか。
 だから、私は「永遠の無としての死」への恐怖と「未来の印象」の経験が「次の一回」において共立する恐怖に浸ってしまう。その不思議さをじっと考えてみると「この世界の歩み」はすべてここから始まっているのかもしれないと思う。だとしたら、驚くべきことではないか。
 この恐怖と驚きを共感してもらえるだろうか。
 私は〈私の死〉を決して経験できないにも関わらず、そこに「未来の印象」における”何か”が与えられた途端に、その”何か”が〈私の死〉に対抗して「次の一回」のうちに〈死に続ける私〉として生起し始める、としたらどうか。
 それは「この世界の歩み」がある日突然変わってしまう出来事のように思われるかもしれないが、そのときにはなぜか私だけがいなくなっている(いなくなり続けている!)。
 しかしどうして、そうした未来が可能だと分かるのだろうか。誰かがこの世界にまだ存在し続けるかもしれないからだろうか。しかし「未来の印象」に「永遠の無」が穿たれているとしたら、誰が、どうしてそれを経験することができるだろうか。
 そんなことが経験できるのか。だとしたら、そもそも、いったい誰がそんな世界を経験しているのだろうか。

退屈、いや、退屈でもない。これは――これは――あなたたちの言葉で表現できないもの。どの言語にもふさわしい単語がない。ボンビータもそういっていた・・・吐き気がする。

カレル・チャペック作『マクロプロスの処方箋』阿部賢一訳(p175)

[*1]私の読書メモでよければ、以下を公開しているので読んでもらいたい。
成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)の読書メモ①:第一章から第三章まで|Haptiqueうぃーばる (note.com)
成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)の読書メモ②:第四章から第六章まで|Haptiqueうぃーばる (note.com)
成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)の読書メモ③:第七章から第八章まで(終わり)|Haptiqueうぃーばる (note.com)

[*2]ところで、そうした「死」への恐怖に対する物語化が哲学の俎上に上がった事例として、クァンタン・メイヤスーの「亡霊のジレンマ」という小論文がある。そこでは、彼が「亡霊のジレンマ」と呼ぶ、神の存在を信じるか信じないかにより、非業の死を放置した神(不在の神)に絶望するか、あるいは死んだ者への弔いを挫折して「狂気」に陥るかしかない、というジレンマに対して解決を促す「神論」の思想の序論が提示されている。「死者の復活」という物語的な処方箋を措いて、メイヤスーの難点について言えば、彼は高村と違って「永遠の無」の永遠性への恐怖と「死」への恐怖の区別に無頓着なところがある。
青土社 ||哲学/思想/言語:亡霊のジレンマ (seidosha.co.jp)

[*3]帰納法の「正当化」、あるいは自然の斉一性の原理について――野矢茂樹「一寸先は闇か」(『語りえぬものを語る』、講談社学術文庫、2020年、199-208)|山口尚 (note.com)