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成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)の読書メモ①:第一章から第三章まで

キーワード:印象と観念、活気の程度の差、単純と複雑、第一原理、類似性テーゼと因果性テーゼ、「青の欠けた色合い」、観念の関係と事実の問題、思考可能性

まず基本的な情報を手短に。本書はデイヴィッド・ヒュームの哲学に関する研究書です。この本は成田正人が自身の博士論文「帰納をめぐる一般化と未来の問題――ヒュームを手がかりとして」(2017)を基にして、大幅な加筆修正を行って2022年に上梓されました。ヒューム哲学の易しい入門書ではないと著者は冒頭に述べていますが入門書レベルのことはおおよそ書かれているので(さらにすべての文章が「ですます」調に修正されているので)、初学者が入門書として本書を手に取ったとしてもさほど不都合はないです。ただし著者の言う通り、著者自身が本書で考えたい哲学的問い(「帰納の問題」)と関りがあるヒューム哲学のトピックだけに焦点が当てられているので、ヒュームの包括的な思想史上の業績を学ぶには確かに不向きであるとは言えるでしょう。親切にも、そういうオーソドックスな関心を持つ人々に向けた参考文献などが冒頭に書かれていました。本記事は、要約をかねた読書メモなので理解の雑なところは許してちょんまげ。(以下の目次は私が独自につけたもので、実際の本の目次とは異なります)


印象と観念

ヒュームの経験論的な知覚論は大きく「印象」と「観念」の二文法で分けられます。「印象」と「観念」は、勢いや活気の程度のみによって区別されます。ただし、物や事象の個別的な内容によって区別されるわけではないようです。というのは、たとえばリンゴの赤い色は、日向にあるときと暗闇の中にあるときとではまったく印象が異なりますが、そのことが「印象」と「観念」を区別するのではなく「印象」と「観念」は「同じ内容を共有することができなくてはなりません」(38p)と言われます。つまり「ぼんやり」としたリンゴの赤の「印象」と「観念」もあれば「はっきり」としたリンゴの赤の「印象」と「観念」もあるということです。リンゴの「印象」と「観念」は、ただそこに活気があるのか、ないのか、という点のみで異なります。(では、この活気はどこから来たのだろうか?という問いを三章の終わりの方で著者はヒュームに投げかけることになります。むろん答えは出ないのですが、本書の核心に関わる投げかけでもあると思います。)

活気の程度の差

ヒュームによると「印象」と「観念」はさらに細かく分けることができるようです。「印象」は「感覚の印象」と「反省の印象」の二つに分けることができるし「観念」に至っては「記憶」と「想像」と「空想」と「信念」に分けることができます。「感覚の印象」と「反省の印象」のあいだには活気の程度の差はないとされています。「感覚の印象」に含まれる直接的な快不快や「反省の印象」に含まれる悲喜の感情も、どちらも生き生きとした「印象」だからです。しかし「記憶の観念」と「想像の観念」のあいだには活気の程度があり、ここまでくると正直言ってどう理解していいか微妙です。著者はよくある誤解として、四つの知覚、つまり印象・記憶・空想・信念は連続していて活気の程度によってそれぞれが異なる形でそれぞれの知覚に変化する、というような理解の仕方を挙げます。たしかに私たちには記憶と想像を取り違えることなどよくあることですが、それぞれの活気の程度のあいだには断絶がある、と言われます。「印象」と「観念」は確かに近づくことができるが、まったく同じになることはないでしょう。これは「感じること」と「考えること」の深い差異に目を移すと容易に理解できます。著者は、そこに留まらず「本当に生き生きと感じる知覚は、「考えること」たる観念ではなく「感じること」たる印象なのです。」(52p)という前提を維持したうえで「印象」と「観念」(そして「記憶」や「想像」、「空想」や「信念」)が取り違えられる可能性――病気や精神錯乱――について認め、加えてヒュームによる知覚の区別には、様相や時制が含まれていても「知覚の(事象)内容には、様相や時制は表れません」(53p)と分析しています。その証拠に、ヒュームの経験論的な知覚論では、今ここに現前する印象(内容)にこそ現実の現実らしさがあります(とはいえ、今こことは?現実らしさとは?)。この点は後になっていくほど重要な指摘に思われます。

単純と複雑

ヒュームの知覚論における「印象」と「観念」の二文法のほかにロックやバークリから引き継いだ「単純」と「複雑」という区分があります(57p)。このあたりもどう理解していいか微妙なところです。ここでは先ほどの活気の程度の違いは役に立ちません。リンゴ一つ取ってみても、色合いや匂いや味といった単純な性質が組み合わさって、複雑なリンゴを形作っているわけですが、単純なリンゴの味というのはどういうものなのか、と著者はここで問いかけています。要するに、活気の程度(の違い)と(事象)内容の区別はそれぞれが独立に知覚を区分しており、前者は印象と観念、後者は単純と複雑に知覚を区分するのですが、印象にも観念にも単純なものと複雑なものがあるという理解でいいでしょう。

第一原理(類似性テーゼと因果性テーゼ)

活気の程度に関わる「印象」と「観念」の二文法、そして(事象)内容にかかわる「単純」と「複雑」の二文法、これらが組み合わさってできたのがヒュームの経験論の第一原理です。この原理は「すべての単純な観念はそれに対応する単純な印象から生じる」と要約できます(58p)。しかし複雑な観念が複雑な印象に逐一正確に対応や類似することはないので「観念」が「印象」と類似するのは対応する「印象」や「観念」が単純である限りで言えることです。このことは後に「類似性テーゼ」と呼ばれるようになります。次にヒュームは「単純な観念」と「単純な印象」が現れる順序に注目します。「観念」より先に「印象」がつねに先行し、その逆はありえないことは恒常的に経験できる、とヒュームは言います。このことから「因果性テーゼ」と呼ばれ、「類似性テーゼ」と並んでヒュームの第一原理を理解する際の二つの大きな区分になっています。

第一原理の可能な反例とされた「青の欠けた色合い」はなぜ第一原理を反証しないのか

ここでヒュームの「青の欠けた色合い」という思考実験が検討されます。ある30歳の男性が生まれてから今まである特定の青の色合いだけを見たことがなかったとして、彼の眼の前にその特定の青の色合いだけを除いた青色を濃いものから薄いものまで順に並べた際に、果たして彼はその特定の色合いを想像することができるか?という思考実験です。できる、と多くの人は結論するだろうとヒュームは言います。著者は、第一原理が「普遍的な一般性」(63p)をもつのであれば、それは必然的を含意するが、その反例が思考(可能)であるだけで、この原理は必然的ではなくなってしまうので、「青の欠けた色合い」は、第一原理の可能な反証になる(なりうる)と言います。ここも、正直どう理解していいか難しい場面です。続けて、著者は第一原理が「経験的な一般化」であれば、それは必然性を含意しないので、たんなる思考可能な反例というだけで、それ自体によって反証できるわけではない、と言います。以上のように、少し議論が錯綜しているので、著者は「類似性テーゼ」と「因果性テーゼ」の区分を援用して整理しながら、「青の欠けた色合い」が第一原理の反証にならないということを証明します。
「類似性テーゼ」からすると、「青の欠けた色合い」に登場する男性の知覚のような「対応する観念のない単純印象」や「対応する印象のない単純観念」がそもそも思考可能ではない(矛盾)ゆえに、「普遍的な一般化」の反例にはならないため、第一原理への反証にはなりえません。「類似性テーゼ」は「普遍的な一般化」を含むものだからです。観念から遡及しえない印象は、そもそもなかったことになります(67p)。
「因果性テーゼ」からすると、ある特定の青の色合いの印象を経験しないまま特定の青の色合いを想像する男性の知覚は思考可能で、反例として示唆されるけれども「因果性テーゼ」は「経験的な一般化」を含むために、それだけでは反証にはなりえません(73p)。

観念の関係と事実の問題

以上のように、やや問題が当初から交錯しているように見えたのは、著者が言う「類似性テーゼ」と「因果性テーゼ」がヒュームの提示する「観念の関係」と「事実の問題」という二文法に重なり合っているからではないかと言われます(74-75p)。「青の欠けた色合い」は「観念の関係」からすれば思考不可能なもの(たとえば「四角い丸」が思い浮かべられないように)、すなわち「矛盾」であるから、第一原理への反証とはならず、むしろ「事実の問題」からすると「因果性テーゼ」の(思考)可能な反例である、と言って著者は第二章を締めくくります(79p)。ここは論述が整理されすぎていて、逆に腑に落ちない場面が多々あった印象がありましたが「観念の関係」と「事実の問題」の二文法は以後も援用される重要な区分です。

思考可能性の原理

ヒュームは「思考可能性の原理」すなわち「私たちが思考できることはすべて可能である」と要約できる原理を信頼しています(「異なるものはすべて分離でき、その逆もまた真なり」という「分離可能性の原理」にも「思考可能性の原理」は働いていると著者は言います)。ヒュームは「思考可能性の原理」の側に立ち「観念の関係」における矛盾は思考できない(ゆえにそうした印象の経験もない)、と言います。しかし著者はまた、思考できないことは経験できないことなのだろうか、という逆向きの問いを(おそらく)ヒュームと読者に投げかけています。著者はそうしたヒュームに譲歩しつつ、矛盾は「複雑な知覚」でしか成立されないとし、続けてもちろん単純な知覚の場合にも「思考可能性の原理」は成り立ちますが「思考不可能性の原理」は成り立たない、と主張します。なぜかと言うと「これまで思考できなかったことだって、これからは経験できるかもしれないからです」(88p)。著者がこう言うのも、やはり「帰納の問題」につながるからでしょうね。