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◆第一回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

 本記事は、まず最初に、魔神ぷーさん主催の読書会にて皆で朗読した山本信(やまもと まこと)さんの論文「夢とうつつ」(1961)のその日読まれた範囲での概要を段落ごとに記していき、その次に、読書会の会話のなかで持ち上がった問題について、短い私的な感想を付記している。



 第一回:24/05/05(第一段落~八段落目)概要

 この論文で取り扱われる主題は「夢」であるが、そこで問題とされるのは、精神分析のように夢の内容的な側面から夢の成立構造や意味を解き明かすことではなく、夢における意識一般、とりわけ夢と知覚の区別の問題である。メインの論点は、デカルトの夢の懐疑がどうして成り立たないかということを示すことである。(第一段落)

 夢そのものに関心はなく、夢体験を性格づけることによって「正常な意識」がいかに省みられるかが山本信の関心事である。そのことは「知覚」「想像」「普遍」概念などの認識論的問題や、世界と人間との関わり方における存在論的な問題に結びつかざるを得ない。(第二段落)

 第一節では、哲学史を用いたその問題の由来の説明に力点が置かれる。デカルトの夢の懐疑の要点は「覚醒している状態で物を意識する場合と、夢を見ている場合とを区別できる絶対的な根拠は存在しない」というものである。この懐疑はその後の彼の立場を方向付けるものであり、ひいては近世の西洋哲学の地平そのものを決定づけるものであった。しかしここで注意されるべきは、デカルトが知覚経験と夢を同じ資格を持つものとして考えていることである。(第三~第五段落)

 一般に、何か二つのものを比較するというときには、二つのものの比較を成立させるために共通の「類」が必要となる。異なるものを何らかの徴表において比較するという行為自体がすでに異なるものを共通の「類」の下で同じ資格を持っている、と考えることである。では、夢と知覚が比較される場合、二つに共通する「類」とは何か。夢と知覚は、いかなる意味で同じ資格を持つとされるのか。デカルトによれば、それは意識内容である。(第五段落)

 そうなる以上、まず対象があってそれを感官を通して知覚する、という理路は封じられる。知覚は、まずもって意識内容であり、次に存在との関係が判定されなければならない。その判定の基準は、意識における明証性(確かさ)にしかない。意識内容を存在関係から切り離すということがデカルトの哲学的立場の第一条件であり、夢懐疑はその遂行である。
(第五段落)

 デカルトによる、この問題設定の変革こそ、近世哲学のすぐれて認識論的な思索の系譜である。そこでは存在関係から出発するのではなく、意識内容から出発し、意識のされ方としての問題が立てれられる。言い換えれば、主題になったのはまず「観念」の分析であり、知識の検討であった。(第六段落)

 対しライプニッツは、実在と想像とを区別する徴表として、①現象が生き生きとした十分な強度を備えていること、②同じものについて何度も試行したり観察することに耐えうること、③多くの現象のあいだに連関が保たれていて未来を予言できること、の三つを挙げるが、これらが夢において絶対に不可能であるとは断言できない。夢と知覚とのあいだにどれほど大きな違いが発見されても、それは確実性の程度の差でしかない。結局、ものの存在についての絶対的な意味での論証はありえないことになる。(第七段落)
 
 しかし、デカルトが再び感覚に戻って、物体の存在を証明するために「神の誠実性」という超越的原理を持ち出したことと違って、ライプニッツは数学や科学的法則と整合的に説明でき、未来を予測することができれば、それが夢であれ幻であれ「実在的」と言うことができるとしてデカルト的な夢の問題を押し詰めることで解消し、実在性の意味そのものを変革した。外界の存在とは何かという問題の意味が変えられたのである。こうした世界の実在性を現象の法則、あるいは科学的認識の可能性に置き換える考え方は、カントの『純粋理性批判』の基本命題とつながる。経験の可能性の条件は、経験の対象の可能性の条件でもある。そのことが客観的妥当性である、というところから近世の「主体(主観)」という観念は自覚的に確立され、ドイツ観念論の諸体系へと発展するに至る。(第八段落)


 第一回への感想

 ◆ある参加者Aは「夢」からの「醒め」に対応する「意識内容」をモデルとして「この現実が夢であるかもしれない(この現実らしき夢から「醒める」ことがあるかもしれない)」というメタ的な超現実的「構造」全体を説明しようとする試みはナンセンスではないか、と語っていた。それはその通りだと私も思う。

 ◆またある参加者Bは、第五段落の10行目あたりに着目し「見えるから在る」という理路を封じて「在るから見える」という考え方を主軸とする山本の議論は、統合失調症の知覚体験においては成り立たないと(私の記憶が正しければそう)語っていたのだが(間違っていたら誰か参加者の方に教えてほしい)、私にはそれが夢の問題とどう関わっているのかが理解できなかった(そのため延々と黙考していた)ので、次回以降にパスしたいと思う。

#山本信 #夢とうつつ #デカルト #夢の懐疑