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父が死んだ日

 去年の今頃、父が死んだ。おそらく心臓発作だった。まだ六十代前半にすぎなかったけど、私には人が何歳で死んだとか、さほど大事なこととは思えない。六十でもまあまあ生きた部類だと思う。父の死ぬ前日に、LINE通話で少し会話をした。一人暮らしの父と頻繁に連絡を取っていたのは少し離れた地域に住んでいる、同じく一人暮らしの私一人だけだったと思う。父は11月末から風邪を引き始めて、師走に入っても、やや体調を崩しがちだった。12月中旬に「明日また病院へ行く」という話を聞いて、そのあと二度と連絡はなかった。
 人はどうしようもない出来事が起こると、それ以前にさかのぼって、任意に想起した出来事を、そのどうしようもない出来事に関連づけようとする。そして、これこれこういう嫌な予感があった、と意味づけたがる。
 12月始めに、風邪を引いた父の部屋に差し入れを持っていったことがあった。その日は曇りで、天気予報は聞いていなかった。父にカップ麺やゼリーを渡し、二言三言して別れて、私は車を持っていないので帰りのバスを待っていた。その時、天からバケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降ってきた。海のほうでも雷が鳴り始めたのだが、私の代わりに被雷してくれそうなものがバスの時刻表くらいしかなかった。傘も風雨にあおられて心許ない。バス停の背後にはフェンスに囲われた米軍基地しかない。周辺には人影もなく、鳴りやまない雷雨のなかで、一人消えていくような心地がした。私は、ノロノロとやってきたバスに逃げ込んだ。靴やズボンはぐしょぐしょになった。
 12月中旬、父から連絡が途絶えた日から一日経って、私はすぐにまたバスに乗り込んだ。私は、父からの連絡の不在を何かに関連づけて意味づけようと必死だった。そこで先の土砂降りの雨を思い出し、その意味について考えていた。思えば嫌な予感があったな、という紋切り型が頭を渦巻いて仕方がなかった。どうにかして落ち着こうとしていたのかもしれないが、逆効果であった。気づくと私はバスのなかで泣いていた。バスから降り、父の家の付近を歩いていた途中、親子を見かけた。お父さんと男の子の二人だ。その意味について考えようとしたが、考えを振り払って、とにかく父の家に向かった。私の目は涙でいっぱいで、息も絶え絶えになった。その日は今季の最低気温を更新していた。
 家の前に着き、合鍵を持っていたのだが、なぜか扉は開かなかった(内カギをかけてあったことが後から分かった)。父に電話すると、部屋の中から着信音が聞こえた。私は格子越しに窓から呼びかけたが、父の返事はなかった。方々に連絡して、しばらくすると警察が来て鉄格子を覆っていた目隠しを取り除いてもらい、窓から中を覗いてみた。うす暗い部屋の中程で、父がうつ伏せの状態で倒れているのを見た。私はそこでもう助からないと確信した。連絡が途絶えた昨日中に死んだに違いないと思ったからだ。そこからは特筆すべきことはない。警察の事情聴取、叔父叔母と葬儀の相談。祖母は泣きながら私に「あんたが一番親孝行だった」と言った。その日は母が迎えに来た。母は父と離婚した後、父といざこざがあり、父に脅迫めいたことを言われていたからだろう、一言「正直、安心した」と言った。私にも安堵に似た感情はあったが、わざわざ死んだ日に言わなくてもいいだろう、と思った。なにも死んだ日に言うことか、という違和感は、親戚に対してもある。父の冷蔵庫やらシャツやらをもらっていいか、と彼らは聞いてきた。私は、まだ若いからだろうか。父がぞんざいに扱われているようで、虚しさでいっぱいになった。怒りというよりは、虚しさが勝った。
 親戚づてに、警察が私を褒めていたことを伝えられた。早めに発見できたことで遺体の状態がひどくならずに済んだからだろう。でも、その時の私はとにかく疲れていた。父が死んだ。よく身近な人が死ぬと「実感がない」という人がいるが、私はただ実感しかなかった。父が死んだのだ。私と暮らした家で、一人で、寂しく死んだ。
 しかしもっと大変だったのは、むしろ父の負債の始末だった。
 父の生前の行動は控え目に言っても普通の人が取る行動からは逸脱していた。端的に言って、返せる見込みもないのに金を借り続けていたのだ。そうして裁判になったが、自己破産の手続きを弁護士と共に進める最中に、父は契約を破って借り入れを行った。弁護士はその父の行動を詐欺罪に相当するものと見ていた。もし父が急逝することなく、そのまま立件されていたとしたら、刑務所暮らしもありえたのではないだろうか。
 私は、父の死後、すぐに家裁に行って放棄の手続きを取ったのだけれどこれがやたら面倒で煩雑だった。県外からすぐ飛んできた姉に助けられて、近親者の手続きは早く終わった。しかし姉が帰った後は、私が高齢の祖母や何も負債のことについて知らない親戚の放棄書類を整える仕事を引き受けた。県内に住むのは末っ子の私一人だけなので、半ば家族に押し付けられる形で役所と家裁を行き来した。曾祖父母の戸籍まで取らなくてはならなかった。お金も削られたが、なにより精神が削られた。
 父は、どんな世界が見えていたのだろう。いったいどんなことを思ってあんなことをしたのだろう。
 父の死んだ部屋(賃貸)の遺品の片づけも大変だった。その部屋は私と父が3年ほど(曖昧だが)住んだ部屋だった。部屋の湿気と、そこで何年も暮らしていた人間の匂いが混ざって、窓を開けても、独特な臭気が籠っていた。自分の家に帰っても、その臭気が私の部屋の匂いと混ざって一体になっているような気がして、少し気持ちが悪くなった。

 これはあまり関係のない愚痴にすぎないが、父の死後の後始末を終えてからというもの、長兄からいまだに感謝の一言もないことが私にはずっと引っかかっている。そもそも兄は、葬式にも初七日にも来なかった。葬儀の費用を出しただけだ。おそらく兄は、姉にも一言も感謝など言っていないだろう。葬儀からほぼ一年後の父の納骨式に、ようやく兄がやって来た際にも、彼は何も言わなかった。この兄の態度について私は何も言わなかったし、言えなかった。今後も言えないのかもしれない。生前の父と何かすれ違いがあったのなら、それはそれでいいのだが、そうでもなさそうなところが、私をイライラさせた。兄は父のことを何とも思っていなかったのだろうか。分からない。
 このことを思い出すたびに、ただ鬱屈した感情しか出てこない。その感情が別の鬱屈と結び付けられて、私はただ私のなかに引きこもるしかなくなる。とはいえ、父が死んで一年が過ぎた。父は死ぬ前、いったいどんな世界を見ていたのだろう。父は、彼は、一体何を思いながらこの世界を見ていたのだろうか。親戚も、家族も、誰もそのことを考えなかったのではないか。誰が父のことを見ていたのか。父の何を知っていたのか。私はそのことを書いてみたいが、書けない。私の個人史という形で、父と暮らした数年と離れて暮らすようになってから今に至るまでを書けるかもしれない。でも、今は書けない。それを書き始めると、私が自分を父に重ねて考えることになりそうで、それだけで気が沈み、手が止まるという平凡な事情からだ。一生書けなくてもいいのかもしれない。それはそれでよい、と思っている。ただ、自己完結するのが怖い。