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◆第五回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記

 以上のようなことから、夢と知覚は、本質的に異なることがわかる。両者のあいだの区別は、内容的な特徴の区別にあるのではなく、疑いや問い、予想や推測のような意識のはたらきの有無、あるいは、実際に遂行されていなくとも、それが可能的に含まれているか否か、にある。
(第二十六段落)

 現在の自分の意識に関して「夢かうつつか」と判断したとき、彼はすでに目覚めている。なぜなら、夢の中では疑いをもって問いを発すると言うことが起こらないからである。それゆえ、デカルトの夢懐疑も荘周の胡蝶の夢の問題も、実は成り立たない。デカルトは夢のなかで方法的懐疑が出来ず、荘周は胡蝶を知っているが胡蝶は荘周は知らない。
(第二十七段落)

 同様に「夢か幻か」という問いも、すでに問いが発せられているところからして現実の知覚であり、驚愕する出来事が起きた時などにそういう表現をするのである。
(第二十八段落)

 一般的に、夢か現実かと問うときは、知覚の場合には注意力を増すことになるが、夢の場合には、その問いが遂行すること自体が夢を破壊してしまう。
(第二十九段落)

 逆に、覚醒時にも、自主的に確認したり判断するではなく周囲の状況にまきこまれて過ごすとき「夢中になる」「夢みる思い」などと言ったりする。
(第三十段落)

 夢と知覚は、意識態度において区別されると同時に、両者のあいだには中間段階もなければ、連続的移行もない。この観点からすると、夢を見ているときの意識と、芝居を見ているときの意識は類比できる。芝居を見ているとき、芝居に夢中になっている意識もあれば、自分はこれこれの劇場の中にいるという意識もある。その際、知覚されていることは同じであるのに、両者は態度の点ではっきりと区別できる。この場合、覚醒時であれば、両者の態度を、ある程度まで任意に交替させることができる。しかし、それでも両者のあいだに中間段階はなく、つねにどちらか一方の意識態度である。ゆえに、現実の意識が強すぎると、芝居の鑑賞の妨げになるだろう。
(第三十一段落)

 夢と現実が区別できなくなる場合は、記憶においてである。すなわち、ある経験をしたことは覚えているのだが、それが夢の中でのことだったのか、実際に起きたことだったのか、定かではない場合である。最初に言ったように、夢は記憶においてしか語りえない。現在の知覚をも過去の知覚の記憶の水準にまで引き下げたことに、デカルトの誤りがあり、そうする以上、夢も知覚も等しく意識内容として比べられ、両者を区別する徴表がもはやなくなるのは必然であった。
(第三十二段落)

 夢は、記憶においてしか語られないにせよ、夢の中では、再認や想起といったことは行われない。夢の内容の大部分は記憶からくる。しかし、私は夢の中で、それらを思い出として見ているわけではない。私は、少年時代のある場面に居合わせており、私は少年になっているのである。私が目覚めた後で、夢の内容と記憶を照らし合わせることができるが、夢の中においては、私はつねに現在のみにいる。夢の中で記憶を探り、それを思い出すとすれば、そのときには、私は目覚めている。
(第三十三段落)

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