おいちゃん

主婦で、ばあばで、歴女で、空想家で、ロックもクラッシックも好きで、漫画も映画も歌舞伎も…

おいちゃん

主婦で、ばあばで、歴女で、空想家で、ロックもクラッシックも好きで、漫画も映画も歌舞伎も好きで、趣味にはまり現実逃避しながら百姓、家事しています。

最近の記事

心が痛い 飯田線の思い出

私は、小学校一年生から五年生まで飯田線で通う電車通学生だった。 下伊那郡泰阜村にある門島駅から飯田市川路小学校のある川路駅まで毎日通っていた。 そりゃ、五年間も通っていたわけだから思い出はたくさんあるでしょう。 そう、本当にたくさんある、が、今回急に書き留めておきたくなった思い出があるので、文章にしてみようと思う。 四年生の頃のこと。 当時私は左手の筋を傷め、学校が終わってから家方向とは反対の飯田駅に向かって二つ目の駄科駅(だしなえき)にある「ほねつぎ」整骨院に通っていた

    • 鉄砲隊初めての演武

      「嫌だ! 怖い! 家に帰りたい!」 4月29日、設楽原歴史資料館オープン記念日、初めての演武で、甲冑を身に着け鉄砲に火薬を詰めながら私は心の中で叫んでいた。 「何が怖いの? 教えられた通り、練習通りやればいいじゃない。大丈夫だって!」 そう言い聞かせるのだが手も足も震えだす。 初めて銃を持ち火薬を使って撃ったのは、一か月前の合同練習だった。作務衣姿で12発、不発時の所作も教えてもらい個人練習を重ねてきたのだからそれを活かせば良いのだ。とは解っているのだが、新たな不安材料が増

      • 鳳来湖(宇連ダム)の湖底の話

        愛知県新城市にある「鳳来湖」 この湖は人工的に造られた湖です。 昭和33年に豊川用水の水源として宇連ダムが建設され、その時に湖ができたのです。 ダム貯水量2,842万立方メートルは名古屋ドーム17杯分に相当し、堤防の長さは245.9m、高さ65mだそうです。 ダムにかかる橋から湖を見ると、遠くには「上臈岩(じょうろういわ)」と呼ばれる大きな岩が見えます。大昔のカルデラ噴火のなごりだそうで、金魚に似ているので「金魚岩」と勝手に名付けています・・・。 さて、この湖 農業、生活

        • 「塩瀬(大伴)久勝」が15歳の頃 詠んだ詩

          道目記の 岩うつ瀧はいや高に 神をいさむる 古鼓おと 新城市にある千郷中学校の西に流れる野田川には 鼓が滝と言われる滝があります。この滝の東側、千郷中学校の敷地内には「稲荷神社」があり、平安末期、源頼朝の母「由良姫」がこの滝を詩にしたという記事を前回書きました。 今回のこの詩は 塩瀬久勝という人が詠んだ詩と伝わっています。 塩瀬久勝ってだれ?・・・・・ 塩瀬久勝は、塩瀬甚兵衛の息子。 では塩瀬甚兵衛とは? 塩瀬甚兵衛は1505年(戦国時代)野田城城主となるために田峯の菅

        心が痛い 飯田線の思い出

          織田信長の側室「生駒 吉乃」の菩提寺

          生駒 吉乃(1528年)~(1566年5月31日)は、織田信長の側室で、信忠・信雄・徳姫の母とされる(諸説あり)。法名は久菴桂昌大禅定尼。名は『前野家文書』では吉乃(吉野)とされるが実名ではない。当時の女性の例に漏れず信頼の於ける資料が真偽論争のある前野家文書以外に殆ど残されていない。と、『ウィキペディア(Wikipedia)』に書いてある。 私が彼女のことを知ったのは、山岡荘八の小説「織田信長」だったが、名は「お類」だった。ずいぶん昔のことだ。宮下秀樹の漫画では、「吉乃」

          織田信長の側室「生駒 吉乃」の菩提寺

          源頼朝の母「由良姫」の詠んだ歌

          百々目記の 稲荷の山の  ほど近く   つつみが滝の  水のうつ音 これは、由良姫が13歳の時に詠んだ歌と伝えられている 新城市西部地区に野田川という川がある。(源流は雁峰山、白滝を下り、臼子川と合流し野田を流れ豊川に入る川) この川の下流に中央構造線の段差でできた滝「鼓が滝」があり(別名:小雨ヶ滝)滝の東側には、千郷中学校、その敷地内に豊玉稲荷が祀られている小山がある。 この稲荷神社、その昔、源頼朝のお母さん「由良御前」が13歳の時に父親「藤原季範」に連れられて訪れた

          源頼朝の母「由良姫」の詠んだ歌

          弾を込める時・・・

          「立射一斉、弾込め!」 この合図で私は銃に火薬を詰め火縄を装着し馬防柵に張り付く。 決戦場祭りでの演武。気の引き締まる瞬間だ。 火蓋を切り息を止め「放て!」で引き金を引く。 右頬から伝わる衝撃と目の前に上がる白煙で発砲を確認。 体制を整え次の合図を待つ。 この僅か数十秒の間・・・色々なことを考える。 調子の良い時、即ち銃、火薬、火縄、足場、天気、体調全てが順調の時は演武を意識し所作に気を配る。足の開き方、目線はこれでいいか?姿勢、腕の高さは?自分の姿を頭の中でイメージしつつ

          弾を込める時・・・

          歌舞伎シナリオ           戦国天正合戦絵巻 長篠・設楽原の戦い  第一幕 援軍要請の場        

          2023年の大河ドラマ「どうする家康」長篠の戦で、全国区になった地元下級武士 鳥居強右衛門を主人公にした歌舞伎が10年程前、新城歌舞伎公演でおこなわれました。外題は「戦国天正合戦絵巻 長篠・設楽原の戦い 第二幕 強右衛門磔の場」です。 岡崎体育さん演じた「援軍は来るぞ~」の場面が歌舞伎になっています。 今回、2024年 新城歌舞伎では その前段階、鳥居強右衛門が 岡崎城に援軍を頼みに行くという場面を披露することになりました 長篠城を後にした鳥居強右衛門は岡崎城までの道のり

          歌舞伎シナリオ           戦国天正合戦絵巻 長篠・設楽原の戦い  第一幕 援軍要請の場        

          「松御前の碑」のお話(新城)

          新城市豊島の座頭崖に、かつて「松御前の碑」がありました。 松御前は熱田神宮大宮司の娘で今から千年ほど前藤原氏(北家)の藤原季兼に嫁ぎ新城(稲木)に来た人です。 息子(季範)が熱田大宮司を継ぎ、松御前は孫(清季)と一緒に新城で暮らしその生涯を終えました。 その松御前の碑が、豊島というところにあったのです。 稲木に残った藤原(千秋)清季は豊川のほとり千歳野に館を移します。現在の海倉橋(頭首工)付近です。この館は後に富永氏、さらに菅沼氏の館となり、小高い場所に野田城を築き移り住む

          「松御前の碑」のお話(新城)

          「松御前」は源頼朝の曾祖母だった

          奈良時代にできた墾田永年私財法以来、寺院や神社、貴族たちは農民らを雇いせっせと原野を耕し土地を増やしていった。この時代(平安中期)最も勢力をふるっていた藤原氏は藤原氏の都合のいいように国司を任命し、その権力を使い、次々に領地を広げていった。(国司とは今でいう県知事) 藤原季兼は国司を多数輩出した一族に生まれ、父実範が死去すると16歳で目代(国司代理)として今の愛知県豊田に土着し。未開拓地を開拓し、岡崎に移り住んだ。 ※藤原氏のような超有力貴族の力が強まるとそれまでの領主であ

          「松御前」は源頼朝の曾祖母だった

          思い出の母の味

          春だ 春だ  毎年、春になると畑の土手や川沿いの道にフキノトウが出る。早く食べてと言わんばかりに花をつけたものや、つぼみのままで地面から半分顔を出しているものもある。母は料理が得意。特に山菜を使った料理は格別においしい。フキノトウの場合は細かく刻み、さっと湯を通し、麴みそ、みりん、酢、砂糖、塩で和え、フキ味噌を作って食卓に出してくれる。それをご飯に載せて食べると口いっぱいに春の香りが広がる。母の料理の思い出は数えきれないほどあるが、このフキ味噌には特別の忘れられない思い出が

          思い出の母の味

          城ヶ峰に頼朝の座像を安置しよう

          城ヶ峰探索2 地元の陶芸家加藤夢堂氏(故)作成の源頼朝座像を、曾祖母「松御前」の塚に安置するべく有志が集まりました。 松御前の塚は、新城市豊栄と稲木の境界「小城ヶ峰」にあります。この塚の発見は2013年。今回、地元の陶芸家の方の遺作「頼朝座像」をこの塚に鎮座させたらどうかという話があり、有志で安置することになりました。 土地所有者さんの許可もいただき、いざ出発です。 前回、この塚を見つけたときに、下ってきた道が一番良いだろうと、メンバーのTさんの勧めで稲木側から登ることに

          城ヶ峰に頼朝の座像を安置しよう

             城ヶ峰に登ってみよう

          城ヶ峰散策記 1 地元に住んでいても灯台下暗し・・ならず目の前の山知らず。天気が悪くなると見えなくなる山だとか、三角山だとか、好き勝手に呼んでいる山ですが実はこの山ちゃんと名前があり、しかも歴史的にかなり興味深い山のようです。 1573年、この山は武田軍の駐屯地として使われたようです。 武田軍は作手の峠から降りてきて大野田城を見下ろせるこの山に駐屯しました。近くの臼子城があったことから「城ヶ峰」と呼ぶようになったとか。 国道301号線、新東名のトンネル付近に「臼子辻」と呼ば

             城ヶ峰に登ってみよう

          歌舞伎 戦国天正合戦絵巻 「野田城の戦い」第二幕 信玄終焉の地の場 後半

          元亀四年、武田信玄は野田城を落とし、城主菅沼定盈を捉えドドメキ城にて接見。数々の武功を褒めたたえ「殺すには惜しい武将」だと絶賛し、家臣になれば所領は望みのままにあてがうという。 定盈は徳川家康への忠臣を改めて誓い、信玄の家臣になることを辞退、一刻も早く切腹したいと願う。 信玄は、家康からの書状を定盈に見せ、家康が浜松にある武田方、山家三方衆の人質三人と定盈一人を交換することを望んでいることを伝え、豊川のほとり広瀬川原で人質交換をするという。さらに驚く定盈に「そなたの縄を解

          歌舞伎 戦国天正合戦絵巻 「野田城の戦い」第二幕 信玄終焉の地の場 後半

          歌舞伎 戦国天正合戦絵巻「野田城の戦い」第二幕「信玄終焉の地の場」前半

          元亀四年、三方ヶ原で徳川軍を蹴散らし一か月にわたり野田城を取り囲んだ武田軍は、野田城の井戸の水源を断ち降伏を促す矢文を放った。矢文を持ち定盈に知らせるため家臣今泉四郎兵衛が花道から登場。 武田軍からの降伏条件「定盈一人の首を差し出せば、城兵の命を助ける」を読み、定盈は自分の命と引き換えに、妻と子供を助けようとする 家臣今泉は「むざむざと殿を失い城を明け渡すのは悔しい、せめて一矢報いたい」と自分の策を定盈に申し出る。 今泉の作戦は、敵の言う通りに城明け渡しの段取りを整えた

          歌舞伎 戦国天正合戦絵巻「野田城の戦い」第二幕「信玄終焉の地の場」前半

          歌舞伎シナリオ                 戦国天正合戦絵巻 野田城の戦い   第二幕 信玄終焉の地の場

           今月、11月19日(日)新城文化会館で行われる「新城歌舞伎」 第一幕は 地元の戦い「野田城の戦い」を舞台にした歌舞伎です。 元亀4年(1573)野田城は 武田信玄に攻められました。一か月持ちこたえましたが、井戸水を抜かれてしまい窮地に追い込まれます。 城主 菅沼定盈からの援軍要請を受け、徳川家康は笠頭山(吉祥山)までやってきたものの、敵兵の多さに援軍を断念、吉田城に帰ってしまいます。 討ち死にするか、降参するか迷う定盈の所に、敵から矢文が届きます。 定盈は、敵である武

          歌舞伎シナリオ                 戦国天正合戦絵巻 野田城の戦い   第二幕 信玄終焉の地の場