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   城ヶ峰に登ってみよう

城ヶ峰散策記 1

地元に住んでいても灯台下暗し・・ならず目の前の山知らず。天気が悪くなると見えなくなる山だとか、三角山だとか、好き勝手に呼んでいる山ですが実はこの山ちゃんと名前があり、しかも歴史的にかなり興味深い山のようです。
1573年、この山は武田軍の駐屯地として使われたようです。
武田軍は作手の峠から降りてきて大野田城を見下ろせるこの山に駐屯しました。近くの臼子城があったことから「城ヶ峰」と呼ぶようになったとか。
国道301号線、新東名のトンネル付近に「臼子辻」と呼ばれ、徳川三代の墓のある泉龍院大洞山・稲木・城ヶ峰を経由して作手に行く道と、大宮・石倉神社から杉山を経由して作手に行く道の合流点があります。今は国道と林道が合流しています。城ヶ峰に行くにはこの辻から行けば良いとは思うのですが、ふもとから歩くことにしました。

三河カントリ―の境界柵に沿って山に入る

登り始めてすぐに、地元の山の神様がありました。安全を祈願して先に進みます。
急な坂を藪こき状態で登っていく。とにかく上を目指して上るしかない。

落ちている木を杖にしてあえぎながら登る

体力のない人間はとにかく立ち止まることしか考えないので、止まるネタはないかと辺りを見回す。

やはりこの辺りに道があったのかも

すると今度はひっくり返ったかわいそうな祠を発見、しかも屋根が欠けていました、台座に載せなおし手を合わせます。

頂上

そしてもう上がないから多分頂上だと確信、登り始めて一時間。山頂です。見晴らしが悪く何も見えない。武田軍がここに駐屯したとして、当時は周りに木がなかったらさぞかしよく見えたと思います。

長篠の合戦に出陣した作手亀山城主「奥平氏」の一族「奥平久兵衛」が同じ一族で当地に住んでいた奥平信秀を頼ってこの山頂付近に一反歩(300坪)ほどの平地を利用し三面に土塁(空堀)を築き東南の長めの良い丘に畑を作り風景の良いこの土地で余生をおくったという記録があります。
その名残の一つでもあればと思いしばらく散策
歩いてみると結構広く、水はどうしたのだろうか?と疑問は残りますが余生を送るには良いのかもしれません。

さて、城ヶ峰には誰ぞやの「墓」があるという。

この地域が千秋氏の支配下だったころ、熱田大宮司の娘「お松」が19歳で千秋氏に嫁ぎ、子を産み、余生を地元で過ごし、当時としては長寿を全うし71歳で没したという「松御前の墓」が小城ヶ峰にあるらしいのです。
城ヶ峰は、南東側にもう一つ山がある。きっとそこに墓があるに違いない、とにかく下に降りてみようと言うことになり、道を探すが…道がない!!
強行に下る?迂回する?意見が分かれましたが皆で野生の感を働かせクンクンと道をかぎ分けます。
松御前の墓はどこに?…いや。果たしてあるのだろうか?

小さな石の塊

               あったのです    

いつ、だれが設置したのかわからない

看板が無ければ絶対にわからなかった・・・・
小石が積まれていたらしい名残もわずか
松御前の詠んだ歌が かかれていました

櫻花 ちりなんのちの形見には 松にかかれる藤を頼まん

松は自分のこと、藤は藤原氏のことだろう・・・・・
自分が死んだ後の藤原氏(子供たち)の行く末を案じるうただろうか?

平安末期に亡くなって以後1000年、永い眠りについたとはいえ、石を積んだだけの粗末な墓、その名残もほんの僅か。遠く熱田から嫁ぎ名のあるお姫様として碑まであるにもかかわらず、いったいどれだけの人がこの存在を知っているのだろう?
「お花を持ってくればよかったね」「せめてお茶をお供えしよう」と言いながら周辺の体裁を整えました。そしてそれぞれ気持ちを込めて手を合わしました。その後記念撮影。この時の、ちょっと不思議な体験は、言葉では表しにくいですが、松御前様はきっと喜んでいらっしゃるだろうということにして帰路につきました。
このまま稲木側に降りようと、又感に頼って歩き出しました。意外に楽に降りることが出来、こっちから登ればよかったねと言いながら散策無事終了しました。

後で調べて分かったことですが、この松御前様
なんと鎌倉幕府を開いた源頼朝の曾祖母だったのです。
なぜ、そんな有名な人がここ新城に? 

有志一同!

また歴史探求の血が騒ぐ・・・。

この記事は、11年前のものです。

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