「塩瀬(大伴)久勝」が15歳の頃 詠んだ詩
道目記の 岩うつ瀧はいや高に 神をいさむる 古鼓おと
新城市にある千郷中学校の西に流れる野田川には 鼓が滝と言われる滝があります。この滝の東側、千郷中学校の敷地内には「稲荷神社」があり、平安末期、源頼朝の母「由良姫」がこの滝を詩にしたという記事を前回書きました。
今回のこの詩は 塩瀬久勝という人が詠んだ詩と伝わっています。
塩瀬久勝ってだれ?・・・・・
塩瀬久勝は、塩瀬甚兵衛の息子。
では塩瀬甚兵衛とは?
塩瀬甚兵衛は1505年(戦国時代)野田城城主となるために田峯の菅沼家から来た菅沼定則(幼名竹千代)についてきた重臣です。彼は野田川の上流徳定に屋敷を構え竹千代の警護に当たった人です。
話は遡りますが、この地は、弘安年間(1278年~1287年)に近江国甲賀郡塩瀬里から来た塩瀬資時が屋敷を構えて開かれた土地であるといわれています。そして建武2年(1335年)、富永荘司として三河国設楽郡野田郷を治めていた冨永直郷は、建武の中興で戦功を上げ足利尊氏の命により野田に館を与えられこの地に椙山保を設置しました。
富永直郷の祖父、富永四郎大伴資国の長子は大伴資経であり、資経の4男は塩瀬資時。資時の孫である塩瀬直資は、椙山保司に任命され、この辺り一帯を治めていました。・・・・・・ややこしいですが、
甚兵衛は直資の子孫となりますので、竹千代の家臣といえども相当なで威力を持っていたと想像がつきます。
鼓が滝の東、千郷中学校あたりに塩瀬家の屋敷がありました。敷地はとても広いです。
甚兵衛の息子塩瀬久勝は、この歌を詠んだ数年後におきた「布里の戦い」で戦死しました。二十歳足らずの人生でした。
塩瀬家は、元をたどると「道臣命」に行きつきます。
道臣命は大伴の祖、神武天皇とも関係してくるようです。新城市にある由緒正しい神社「石座神社」の祭祀に当たっていた可能性もあると言われています。系図をたどると、大伴旅人、大伴家持の名も出てきます。
興味深いことに、足利尊氏と共に鎌倉幕府を倒そうと計画を企てた後醍醐天皇も、足利尊氏も、系図をたどっていくと、松御前(源頼朝の曾祖母)にたどり着く・・・・・。こんなことを考えていると、脳みそを妄想が支配し、眠れなくなります。
松御前の孫(由良姫)も、塩瀬久勝も、稲荷神社のほとりの鼓が滝で何を思い何を感じたのだろうか・・・・・。