記事一覧
モンゴルとゴビ砂漠⑥ズルガナイオアシス後編
ハードキャンプズルガナイオアシスにおいて、モンゴリアンデスワーム調査のフィールドワークの他は所謂キャンプ生活だ。
私はあまりキャンプ経験はないが日本はコロナ禍以降アウトドアブームが到来し、ソロキャンプや冬キャンプなど多岐に渡ったスタイルが見受けられる。
今回の話はキャンプブーム前の事だがかなり特異的なキャンプであったと今になって思う。
6月のズルガナイオアシスのキャンプはかなり過酷だ。私は勝手に3
モンゴルとゴビ砂漠⑤ ズルガナイオアシス 前編
モンゴリアンデスワームの調査地までの中継地点であるセブレイのゲル集落を出た我々は、目的地となるズルガナイオアシスへと車を走らせた。
広大なゴビはとにかく移動時間が長い。車中では英語が堪能なガイドのOさん(英語を話せないドライバー2人にも通訳してくれた)と色々な話をした。
モンゴリアンデスワームについては、3人とも聞いたことあるような無いような反応だし、存在しないだろうといった面持ちだ。しかしあく
モンゴルとゴビ砂漠④ ゲル宿泊編
ゲル集落に到着した我々モンゴリアンデスワーム調査隊は、カルガモ親子のようにガイドのOさんに着いて行き1つのゲルの中へ入った。
「サインバイノー!(こんにちは)」
住人らしき人が2人いる。
ゲル内は生活感ある調度品がきれいに置かれていて広々としている。テレビまである。
Oさんはモンゴル語で2人に話しを始めた。
Oさんの話が一通り終わると2人は出て行ってしまった。
要約するとOさんはゲルの宿泊交渉を
モンゴルとゴビ砂漠③ 砂漠走行編
我々モンゴリアンデスワーム探査隊はウランバートルから国内線でゴビ砂漠へ向かった。
飛行機は小型機で荷物の重量制限が厳しい。テントセットや動体検知カメラ数台など重量が嵩む物が多く、荷物検査が通るかかねてより心配していた。
事前に総重量を測り各隊員の荷物にバランス良く振り分けた甲斐あって、何とか検査をパスする事ができた。
目指すはウムヌゴビ県ダランザドガド市。
空港を出ると、事前に手配していたガイ
モンゴルとゴビ砂漠② ウランバートル編
UMA探査隊北京からウランバートルへ到着した我々はゲストハウスに着くと、先に入国していたKさんとM君に合流した。
今回の旅の目的はゴビ砂漠にいると噂される未確認生物(UMA)「モンゴリアンデスワーム」なるものを探し出す事であった。
世界各地で名を馳せるUMA達、代表的な物を挙げるとネッシー、ビッグフット、チュパカブラ、我が国日本でもツチノコは馴染みがあるだろう。
皆昔から噂されているものの現代に至
モンゴルとゴビ砂漠① 序章
2016年6月、我々3人は北京空港の待合ゲートでウランバートル行きのフライトを待っていた。
偶然隣にいた肉付きの良い優しそうな顔をした男が、日本語を話せるモンゴル人であった。
モンゴル人と聞いて私達はどうしても尋ねたい事が念頭にあった。
「オルゴイコルコイについて何か知っていますか?」
男は首を傾げる。伝わっていないようだ。
「ゴビ砂漠にいると言われている、巨大なミミズです」と説明を加えた。
男は
冬のシベリア⑨ ヤクーツク編 魚釣り
冬のサハでは凍った川で釣りができる。日本のワカサギ釣りと要領はほぼ同じだ。
宿のオーナーに釣りがしたい旨を相談したらツアーを予約してくれた。翌日車が迎えに来ると、私の他にイギリス人親子が先に乗っていた。
更に釣りガイドをピックアップし川を目指した。
厳寒の釣り人冬の川は当然ながら凍っており、雪もそこそこ積もっているので川と陸地の境目がさっぱり判別できない。
フロント部分をガムテープで補強した三菱
冬のシベリア⑧ ヤクーツク編 口琴博物館の出会い そのニ
「このパンはレピョーシカと言って、バター、塩、ぬるま湯、牛乳、小麦粉で作ります」
まるで日本人と会話してるかと錯覚してしまうほど視聴覚的に日本人な博物館館長の子息Pさんは饒舌に語る。
私たちは宿で合流した後、タクシーでレストランへ向かいワインを飲みながら食事をしていた。
彼はサハ共和国の経産省的な所に勤務しているエリートだ。学生時代は言語学を専攻していたが、ある女性に振られた事がキッカケで人生
冬のシベリア⑦ ヤクーツク編 口琴博物館の出会い その一
ヤクーツク市内はレストランが少なければ観光できる場所も数少ない印象だ。極限の寒さの為、ぶらつきながら当てもなく彷徨うのはとても困難で目的地を決めてから外出することにしていた。その日は特別興味が湧いたわけでは無かったが暇つぶし程度に口琴博物館なる場所を訪れた。
ニッチな博物館口琴と聞いてすぐイメージできる人も多くないだろう。いわゆる口元で奏でて口腔内で共鳴させる楽器なのだが、日本ではアイヌ民族の「
冬のシベリア⑥ ヤクーツク編 食べ歩き
ヤクーツク市内はそれなりに発展していると書いたが意外にもレストランは少ない印象であった。冬の寒さで外出を控えてしまうからと考えてみても、人の往来はそれなりにある。ソ連時代の名残りなのだろうか。
サハ料理レストランを探すにしても着込んだ重装備品はどうするのか疑問が頭にあった。考えてもしょうがないのでまずはオシャレそうなカフェレストランの扉を開いた。
疑問は一気に解決した。入店するとすぐ横にクローク