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人間として生きる心の余白 - 下北演劇とシンクロ少女

初めて行ったのはいつだったか忘れてしまったけれど、多分大学時代にレコードか古着を買いに行ったことが、下北沢初体験だった気がする。

そこから、土曜日の夜に開催されているクラブイベントに通い始め、なんとなく顔なじみができて、集う場所になって、今度は自分がDJをレギュラーイベントでする場所になった。

大学時代は僕にとって、下北沢は「音楽で誰かと繋がる街」だった。

お酒、レコード、仲間、憎悪、喜び、恋愛。

大人になるってことの義務教育を学ぶ場所。下北沢。

いつの日からだろう。そのイメージは「演劇の街」に変わっていった。

初めての演劇体験は、大人計画だった。本多劇場という場所があって、そこが演劇をされる人にとって特別な場所だなんて知らずに、会社の同僚に誘われてチケットを取り、見にいった。

その日の思い出としては、「見たことある人がたくさん出ていて、面白んだけど、映画とは違う余韻、考える余白ができる体験」として、公演後、ものすごく鬱ぎ込むくらいに考え込んだ。

多分、それが原体験なので、「演劇ってそういうものなんだろうな」と思っていた。

映画や音楽を見た時に、元々レコードの社会背景を考えることが好きだった僕は、そんな余白から自分と照らし合わせて思考できる文化が好きだった。

むしろ、直感的に脇目も振らずに作品を受け入れて、考えるもの。それが当時の自分自身の文化論。

さらに時代背景が重なると最高。

でも、演劇は色々な世界を見ているわけではなかったので、僕にとってはその日の大人計画が全てだった。

テーマは、「愛する人が例え顔が事故で変わっても同じように愛することができるのか?」というテーマだった。

恋人がいて、結婚について考えていてその時、ものすごく悩んだ。

「同じように自分はこれからももし、そういう事態になったとしたら、愛せるのか」。

時代背景の評論とかとは別に、自己哲学を試される。そんな結論ともつかない要素で終わり、エクスキューズを投げられる。

「演劇ってそういうものなのかな」とただ思いながら、少しだけ悩んだ。まるで病みそうなくらいに。

恋人の顔をまともに見ることができなかった。

それから僕は、ことあるごとにレコード店で中古レコードをあさり、古書店を流して、クラブでDJをして下北沢と関わった。

当時お世話になったレコード店があったので話をしたいだけで通うこともあった。

中学の同級生が店長になった美容室もあったからだ。

しばらく通うことがなくなった。

理由は、導線にこの街がなくなったので、自然と足が遠のき、僕の街は原宿、代官山、表参道、新宿になった。

思いっきり下北沢に行くことになったのは、3年前くらいだったと思う。

小さな劇場がたくさんあることに気づき、入ってみたところ、あまりにも面白くて夢中になり、片っ端から演劇に通った。

おそらく、この2年は年間40くらい、知らなくてもチラシのデザインだけでみに行き、そこから気になる公演にまた行くことを繰り返す日々。

なんで人は下北沢に集うんだろうって改めて考えてみた。個性的な店も開拓しきれていないけれどたくさんあるし、演劇や音楽で表現したい人はこの街の余白を必要としていて、その土壌がまた新しい息吹を生み出している気がしていた。活動も、感情も。

今この街は、再開発の波がきている。それは学生時代に飲み屋街がなくなることで、署名運動が起こったりして、「下北沢らしさがなくなる」との懸念から結構大ごとの出来事になっている気がした。

でも、いざ駅前が開発されていると、駅前にはドカンが置いてあるオープンスペース、「下北線路街 空き地」があり、元々集う人種以外に家族連れがいたり、ふらっと立ち寄り休む人がいたり、古着市が開催されていたり、オープンスペースとしての魅力が存分に発揮されていた、まるで、僕たちが子供の頃にドラえもんで見て近所の人たちが集う約束していなくても誰かに会うことのできる場所。のようなきっかけがあった。

ここでは様々な取り組みが開催されていくらしい。

文化が生まれるためには、完成されたものが並んでいるだけではなく、ある程度の自由と余白があって、そこから芽吹くことが大切で、そのきっかけを誰が準備していくかはかなり大切だと思う。

渋谷の再開発はある意味、「完成されたものの陳列棚」に感じてしまっている身としては、やっぱり下北は考えて、実行できる。それが許される歴史も重なる1つの街そのものが文化だと感じた。

街を歩いているだけで、「こんなことができたらいいな」だとか「まだこんなものがあるんだ」という発見ばかり。

だから、たまにこの街に足を運んで、この街だから見たい公演を見るんだろうなと思った。

それは、ここに行くことで自分自身の脳内にオープンスペースを生み出すことができるから。

今日も演劇を見た。シンクロ少女というとても人間についてのいい所と不条理の両面をものすごい完成度で見せつけてくる団体で最初に見た時から大ファンになった。

決して、綺麗に終わることばかりでもないし、笑って終わることもあるし、モヤっとして考え込みながら変えることもある。

今回の新作、#20『Better Call Shoujo』は、家族の過去からそれぞれの登場人物が自分が「正しい」と善意から行動することが相手にとっては全てが正しいわけではないけれど、

皆、悪意もなく「自分が正しい。まとも」と思いながら動いていくことで、お互いの関係性や感情が浮き彫りになっていく、人の綺麗さも汚さも見せつけられるホームドラマ(?)。

最後まで見て、あまりにも自分の中での解答の種類が多すぎて、モヤっとしながら考えた。自分はどの登場人物に近いのかだとか、結局「正しさ」についてはどこに軸を置くか。なぜか勝手にたくさん悩んだ。夕飯を食べるのも忘れた。

完成され尽くした演出の中で、帰り道に心の中の余白の中で感情が揺れ動きすぎて、「なんか、この街らしいなぁ」と感じながら帰路に着いた。

僕は下北沢に思い描いていたイメージ、「余白から何かを生み出せるきっかけがある」という気持ちそのままを見透かされたように感情の選択肢に作品からパスをたくさん出されて、

「じゃあ、君はどのパスで自分の人生スタンスのゴールを決めるの?」と問いかけられた気がした。

今でも正直、わからない。眠れない。

「あー、ここ下北で見た作品っぽいなぁ」と思いつつ、そんな考えるきっかけを与えてくれる街を後にして、慣れ親しんだ西日暮里に帰っていった。

この作品、25日の火曜日まで開催されているので、ぜひ皆さんに見ていただきたいなと思っています。人間って色々といるよなと毎回思う。

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それでも何かしら誰もが当てはまる瞬間があり、「今の自分」をどこかしらで映し出してくれるような鏡のような作品。笑えることもろ、切ないところも、重いところも含めて人間。

本当にこんな作品を創る人たちを知ることができたのは幸運だと思った。

という下北で夜を過ごした自分語りでした。

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▼お知らせ

2020年10月28日より、zine「サテツマガジン」を発刊します。

「直感で思ったことを文章と写真、デザインで綴る」1冊です。
この本に登場する人たちは、本来出会うことも、並ぶこともないかもしれない、立場も、生活圏も、年代も全く異なる人たちです。
皆さんの「ただの日常」「気持ち」をストレートにランダムに並べることで、読み手に生活の選択肢を広げるきっかけを送りたいと思っています。
バラバラな人たちが1冊の本に、デザインされて並ぶ。
そんな磁石に色々な気持ちが砂鉄のようにくっついていくことがタイトルの由縁です。


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西日暮里駅に隣接する、西日暮里BOOKAPARTMENTの「サテツマガジン編集室」にて販売します

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