遠くへ、もっと遠くへ
とある異文化関係の書籍を読んでいて、ちょっと面白い考察を目にしました。
それぞれの国や地域で
「どんな人がヒーロー・ヒロインとして
称えられているか」
「なぜその人が称えられているか」
について関心を持って人と接していくと、その国の人々だけではなく、目の前にいる人のモノの見方や価値観を理解する上で興味深い視点を与えてくれるとのことでした。
これを私個人にあてはめますと、私がなぜこれまで海外で駐在員をし続けてきたのかがわかるようになりました。
つまり、
「自分が憧れているような存在に
自分もなりたい」
という欲求が形成され、それが私の思考パターンやモノの見方、大げさに言えば世界観や自己形成に少なからず影響を与えてきたということなのでしょう。
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小さい頃の私にとってのヒーロー。
それは祖父でした。
祖父は建築設計士をしており、私が幼い頃から毎日のように飛行機や新幹線に乗って全国を駆け回っていました。
幼少期、私の周りに飛行機や新幹線に乗って出かけていく人なんてほとんどいなかったので、祖父は「特別な人」なんだとずっと思っていました。
祖父はどこかに行くたびに移動で乗った飛行機のチケットや新幹線、特急電車、夜行列車の切符を「お土産」として私に持って帰ってきてくれ、私はそれらを大事にアルバムに挟んで眺めながら
「富山ってどんなところなんだろう」
「仙台って何がおいしいんだろう」
と想像をふくらませたり、本で調べたり。
祖父が分厚い時刻表をひっぱりだしてきて次の出張に行く計画を立てているところもよく見ていました。
「お土産」でもらった切符の情報から、祖父が目的地に着くまでに何時にどこで乗り換えたのか、その後どういう経路をたどって目的地に着いたのかを自分で調べることも好きでした。
そして北海道の中標津というところがどれだけ雪が深いところなのか、鹿児島の方言がどれだけわかりにくいものだったか、といった話を祖父は私を膝に乗せて長い時間聞かせてくれました。
そんな話を聞きながら、
「じいじって、いつも飛行機とか新幹線で
遠いところに行ってカッコいいなあ」
とずっと思っていました。
こうして
「遠くに行く人はカッコいい」
という価値観が私の中で徐々に形成されていったのだろうと思います。
そんな祖父が私によく言っていたのが
「はびーび、お前が大人になったら
世界に行かんとアカン」
ということです。
「じいじのように飛行機とか新幹線に
乗れればそれでいい」
という私に対し、祖父は
「はびーびが大人になる頃には、世界のどこへでも、いくらでも飛行機に乗って行ける時代になるよ」
と言われたものでした。
そのときは「世界」とはどういうところなのかがよくわからなかったのですが、
「ふ~ん、じいじが言うんだから、
そうなのかな」
としか思いませんでした。しかし祖父の言ったことが年齢を重ねるごとに私の中で隅々まで浸透していったのです。
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それから年月が経って祖父も他界し、高校卒業後、周囲の反対を全て押し切って私は沖縄の大学に行くことにしました。
高校まで大阪に住んでいて、すでに合格していた東京か京都の大学に行くのかなあと漠然と思っていました。
何より卒業後の就職には都市部の大学に行った方がいいだろうと思っていましたが、
祖父がしょっちゅう乗っていながら、それまで一度も乗ったことがなかった飛行機にどうしても乗ってみたくて、しかも大阪から一番遠いところに行ってみたくて、適当な学部を見つけ両親に必死に頼み込んで沖縄に受験に行きました。
(ネコより寒さに弱い私には北海道という選択肢はありませんでした)
飛行機が伊丹空港の滑走路から離れて浮かび上がったとき、入試のことなんかよりも
「やっと私も祖父と同じ経験ができた」
と、ちょっと背伸びしているような高揚感でいっぱいでした。
そして眼下に見える四国や太平洋、時間が止まったかのように広がる雲の海を飛行機の窓にへばりつくようにして眺めました。
それまで見たことがなかったエメラルドグリーンの海に囲まれた沖縄本島が見えてきたとき、その神々しい姿に鳥肌が立つほど感動し、入試はこれからだというのに
「大学は絶対に沖縄にしよう」
と心の中では既に沖縄で大学生活を送ることを決めていたのです。
入試が行われた大学の教室からは、太陽の光を浴びて一層青の色を際立たせている海とサトウキビ畑が見え、
試験の後にキャンパスの学食で初めて食べた「沖縄そば」のおいしさに驚愕し、
那覇空港に向かうバスの中で、後ろに座っていた高齢のご夫婦の会話が一言も理解できず、それがいっそう
「沖縄って、なんて面白そうなところなんだ!」
と私の好奇心をかきたてました。
こうして沖縄の大学に行くことにしたのですが、
あこがれの祖父が日々乗っていた飛行機に一度乗ってみたい!と思わなければ沖縄には行かなかったと思います。
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大学の卒業前、そろそろ就職活動というときも、たまたま大学の掲示板に貼ってあった海外に行く仕事の募集を出していた国際協力機関にしか興味がありませんでした。
そのときも仕事の中身より
「遠くに行くこと」
にしか興味がなく、
「沖縄の次はいよいよ海外だ」
と思っていました。
世界を股にかけるというイメージのあった商社に心が傾いたこともありましたが、商社勤めの大学の先輩の話から
「まずは東京勤務が多い」
と聞いてからは関心をなくしました。
だから国際協力機関に応募した以外は何もせず、周りがリクルートスーツに身を固めて走り回っていたときも、私は島草履(ビーチサンダル)をひっかけてダイビングショップでアルバイトばかりしていたのです。
ある日、ショップのオーナーさんに
「はびーび、就職決まったか?」
と聞かれました。
「いや、まだ発表待ちです」
「それがダメだったらどうすんの?」
「さあ・・・、もうしばらくここでアルバイト
させてもらっていいですか?」
「うーん、でもお前、ここは冬はお客少ないし、
なんもないぞ」
「ああ、そうですねえ・・・」
「じゃあさ、マグロの遠洋漁業で南米の方とか行く知り合いがいるんだけど興味あるか?」
「おおっ、遠洋漁業ですか!行きます!」
おそらく、いくら海が好きな私でも「漁師さん」というのであれば心に響かなかったのでしょう。
しかし「遠洋」漁業と聞いて、遠くの見知らぬ世界にいけるというイメージが自分の求めていたことにバッチリ合ったのだと思います。
実際はその就職活動がうまくいったので遠洋漁業も行かなかったのですが、もし神様に
「はびーび、オマエの人生、ふざけすぎ。
巻き戻してやるから人生やり直せ!」
と言われたら、是非その遠洋漁業のところに戻してくれと懇願するでしょう。
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それから約20年、途中で4年間東京でサラリーマンをしたのを除けばずっと国際協力の海外の現場で過ごしてきました。
国際協力の世界に20年いたというと、私があたかもマザーテレサ級の利他精神の持ち主のように誤解をうけることがありますが、その点では私は人並みのものしか持ち合わせていません。
それよりも
「遠くへ行くこと」、
これが私の土台にあって、その上に徐々に
「海外の環境で、自分と異なった考え方や習慣を持つ人達と一緒に何かを成し遂げていく」
ことの面白さに目覚めていったというのが正確なところだと思います。これがここまでやってきたことの原動力だったのかなと。
あとは、数年ある国に滞在して、そこでプロジェクトが終わればまた違う国に行って数年滞在して仕事する、というスタイルが私の性格に合っていました。
もうだいぶ前になりますが、
「昆虫占い」
というのが流行ったことがありました。私は
「アゲハチョウ」
で、いわく、
「おいしそうな蜜を求めてフラフラ、
少し止まって蜜を吸ってお腹が
いっぱいになれば、またフラフラ」
だそうで、言い得て妙です。
ヨルダンに来てもうすぐ6年になります。以前どこかで書きましたが、私が現在関わっているプロジェクトが終了する来年の春、それで国際協力の世界とはオサラバすることに決めました。
来年、この「アゲハチョウ」はどこに飛んでいくべきか悩んできましたが、ようやく最近気持ちが100%固まったところです。
その意味で2023年1月1日というのは、これまで味わったことのない「新しい年の幕開け」になりそうな予感がしています。
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早いもので2022年ももうじき終わりですね。
今年はNoteを
「書いた」
というより
「たくさん読ませていただいた」
という印象が強いです。異文化関係の視点から下書きしているネタはあるのですが、仕事での気分の浮き沈みが多く、日の目をみることなく放置したままになっています。
その一方で皆さんからは今年もたくさん印象深いお話をうかがうことができ、Noteへの愛着は一層深まったと言えます。
笑えるお話、
2-3日考えこんでしまうようなお話、
シャレた表現、
懊悩、
生き方、生き様、
是非訪れてみたい美しい街並みや自然の風景、
思わずヨダレが出るほど美味しそうな料理、
言葉を失うような素晴らしい芸術作品、
それに今年は結構泣かされた記事が多かった気がします。
私の記事へのスキやコメントをくださった方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。
来年も皆さんのお話を楽しみにしています。
どうぞよいお年をお迎えください。
はびーび拝